第14話 そして疑うべきもの

「教授、アズウェル教授はいらっしゃいますか?」


 普段は紙をめくる音とものを書く音以外に、一切の音が存在しない教授室。そこに突然、若い男性の声が響き渡った。

 書類の山に埋もれるような形になっていた部屋の主は、途端に嫌そうな表情を浮かべると、露骨に不快げな口調で返事を行う。


「なんじゃ、この忙しい時にまた客か……まったく今月はいったいどうなっとるんじゃ。それで、一体何の用じゃ、ラインの小倅」


 ギロリとした視線を浴びせられたエインスは、わずかに気後れしたように表情を強張らせると、慌てて挨拶を口にする。


「どうもご無沙汰しています……教授」

「わしは忙しいのでな、いつもいつもお前ら軍人どもの相手をしとる暇はないんじゃ。要件を言え、要件を」


 大貴族の長子であり、そして親衛隊の長であるエインスに対し、そんな権威など歯牙にも掛けぬ様子で、アズウェルは彼を急かす。

 そのあまりにぞんざいな扱いに思わず苦笑すると、エインスは胃を決して口を開いた。


「わかっていますよ。今日は幾つか教授に確認したいことがあって、こうしてお尋ねさせて頂いたわけです」

「ふん。お前が若い女ではなく、わざわざこんな老人の所へ来るくらいじゃ。どうせ、あやつの話を聞きたいんじゃろ」


 お前の考えなどお見通しとばかりに鼻を鳴らすと、アズウェルはエインスの発言を先回りしてそう口にする。

 すると、まさに正鵠を射られたエインスは、弱ったように口元を歪めた。


「まったくかないませんね、教授には……ええ、その通りです。実は昨日、このような手紙がレムリアックから届きまして」


 エインスは手に持った手紙を広げると、そのままアズウェルへと手渡す。

 そのエインスよりもたらされた手紙には「準備が整ったから、すぐにでも優秀な治療魔法士を送る手配をしてくれ」という、極短い一文のみが汚い殴り書きの字で記されていた。


「ふむ、どうやら今のところは順調にいっているようじゃな」

「……やはりあなたが絡んでいたんですね。それでこの手紙に書いてある準備という言葉ですが、これは何を意味しているんですか?」


「人の意見を求めるのなら、まずは先に自分の見解を表明するべきじゃな。小倅、お前はどう考えておる?」

「ユイ先輩が作成して僕らに渡して下さった計画書の草案には、治療魔法士が今後必ず必要な人材であると記されていました。そしてレムリアックで治療魔法士を求めるということは、おそらくルゲリル病と何らかの関係がある。そこまでは、この僕にも予想がつきます。でもユイ先輩が書かれている『準備が整った』という一文が、具体的に何を示しているのかというと……だからこそ、こうやって教授の所に、足を運ばせて頂いたわけです」


 エインスは本当に弱ったような表情を浮かべながら、肩を落とす。

 そんな彼の仕草を目にしたアズウェルは、わずかに眉を吊り上げ、そして質問者に向かい逆に問いなおした。


「ふむ……一つ尋ねるが、この手紙をわし以外の誰かに見せたか?」

「リュート先輩とアレックス先輩には。二人共これを見るなり厳しい表情になって、特にリュート先輩なんかそのまま部屋から出て行ってしまいました。アレックス先輩はアレックス先輩で、いつもの表情のまま何も答えてはくれませんし」

「それで困ったから、このわしのところに来たというわけか……しかしある程度の前提条件を理解しているとはいえ、あやつらはやはりさすがじゃな。ならば後のことは、あやつらに任せておけば問題なかろうて」


 アズウェルはそれだけ口にすると、もはやこの問題から興味を失ったように、手元の論文へと視線を落とす。

 その反応に慌てたのは、未だ何らの疑問も解決されていないエインスであった。


「ちょ、ちょっと待ってください。今のはどういうことですか。一体、貴方とユイ先輩は何を計画したんですか。そしてリュート先輩たちは何をしようとしているんですか?」

「質問が多いのう。ふむ、回答するのも面倒じゃから、これからわしがする問いかけに答えたら、ユイの奴と作った本物を貴様に見せてやる」

「本物? それってもしかして、僕達に見せていたのは……」


 予想外のアズウェルの言葉に、エインスは驚きの表情を浮かべ、そのまま絶句する。

 すると、そんな棒立ち状態となった彼に向かい、アズウェルは端的に事実を口にした。


「貴様らに見せたのは、あやつが計画した内容の中でも、知られても構わない最低限必要な部分だけを抜粋したものじゃ。そしてあやつが書いた本来の計画書、その原本はここにある」


 ユイが持ってきた計画書の原本をアズウェルは引き出しから取り出すと、彼はそれをエインスに向かって提示する。

 エインスは思わず反射的にその計画書に手を伸ばしたが、アズウェルはすぐに彼の手を躱してさっと計画書を引っ込めた。


「おっと、まだわしの問いに答えておらんだろうが。まったく手癖の悪さに、貴様の女癖の悪さが垣間見えるわ」

「すいません、つい……」


 空を切った手を恥ずかしそうに引っ込めながら、エインスはアズウェルに謝罪する。


「まあ良い。では、聞くがラインの小倅よ。お前はユイという人間の能力をどのように評価しておる?」

「え? ユイ先輩ですか……そりゃあ、やる気のない英雄様ですよ。もっともそれ以上に僕の大事な先輩ですけど」

「ふん。わしはそう言った表層的なことを聞いているのではない。あやつの能力、そして実力をどう貴様は認識しておるのかと聞いている」


 ジロリとした視線をエインスに向けると、アズウェルは改めて彼に向かい問いなおす。

 エインスは一瞬考えこむも、すぐに冷静な口調で回答を述べた。


「そうですね……頭脳は比類なく明晰、そして剣技も一番とはいいませんが、間違いなく一流でしょう。それにあの先輩にしか使えない例の魔法もどきもあります。正直言って、軍人としては格別な存在だと思いますよ」

「それだけか?」


 エインスの回答を聞き終えたアズウェルは、青年に向ける視線の強さを一切変えること無く、物足りなそうな口調で重ねて問いかける。


「それだけかって……」


 更なる問いかけを受けたエインスは、困ったような表情を浮かべると答えに窮する。

 途端、アズウェルは溜め息を吐きながら、残念そうな表情を浮かべた。


「やはり貴様は、ユイの本質をかけらも理解できておらん。貴様は本当に、あやつと少なからぬ時間を共にしてきたのかね?」

「お言葉ですが、僕ほどあの人を尊敬して、理解しようとしている人間はいないと思いますよ。なにしろあの人と出会って以来、ずっと僕はあの人の背中を追いかけ続けてきたんですから」


 自分以上にユイを慕い尊敬するものはいないと、エインスは間違いなく自負していた。それ故に、目の前で発せられたアズウェルの発言を受け、僅かな苛立ちを見せる。


「ならば、お前が追いかけていたユイの背中はまさに蜃気楼といったところじゃな。教師らしくお前の回答に点数をつけるとしたら、いいところ赤点ギリギリといったところか。全く、それだけ側にいながらふがいない……」

「だったら教授は、先輩をどのように評価されているんですか?」


 自らの根幹となる部分を否定されたように感じたエインスは、やや怒った口調でアズウェルに問いかけた。

 その真剣なエインスの表情に混じる怒りに気づき、アズウェルは若いなとでも言いたげな口調で回答する。


「基本的に貴様の回答自体は間違っておらん。だが奴の能力の根源であるその特異性……つまり認識力を貴様はかけらも評価できておらん」

「特異性……認識力……一体どういうことですか?」


 アズウェルの言動の一つ一つを理解することができないエインスは、戸惑いを隠すことができず、まっすぐに問いかける。


「わからんか? なら貴様でもわかるように、一つ例をあげてやろう。例えば貴様が魔法を使う際、一体どのように発生させておる?」

「普通の魔法の使い方ですよね? 当たり前の話ですが、自分の魔力を触媒にして編み上げた魔法と世界の法則を同調させ、そして世界の法則に自らの描く新たな法則を書き込みます」


 士官学校の新入生が最初に問われるかのような設問に対し、アレックスはほぼ教科書通りの回答を行う。

 するとアズウェルは正解だとばかりに一つ頷くと、更なる問いかけをエインスに行った。


「その通り。では、ここで貴様にもう一つ問おう。貴様は敵の使用する魔法を読み取ることができるか?」

「そりゃあ、できますよ。呪文を唱えてくれたらもちろんですが、別にそうじゃなくても魔法なんて有限なものですし、その種類もある程度限られています。例えば炎の魔法で言えば、魔法としてこの世界に炎が生み出された時点である程度絞り込めますよね。そしてその出現した炎の形態を見れば、どの炎の魔法かなんてことはだいたい分かるものじゃないですか」


 一般的な魔法士は相手の魔法がその空間に現出したのを目にした時点で、ある程度の種類まで絞り込みを掛ける。そして置かれた状況と自身の経験を総動員し、相手の編みあげた魔法を類推するのが基本であった。


 そしてそれ故に、これまで魔法士との訓練や実戦を経験してきたエインスは、眼前に出現した魔法を自らの視界に収めた時点で、ほぼその魔法の種類を洞察する自信を有している。

 だからこそ彼は、何故こんな当たり前のことをわざわざアズウェルが問いかけてくるのか、そこに僅かな疑念を覚えた。


「まあ、一般的にはそれが普通じゃな。では、貴様は一度も見たことのない魔法、例えば他国の魔法と対峙した時にもその内容を読み取ることができるか?」

「そんなこと不可能ですよ。だってその魔法の概念や存在すら知らないケースですよね、それ。そんなことできる人なんて……あれ……なんであの時あの人は……まさか!」


 そのアズウェルからの問いかけを向けられた途端、エインスは一人の人物が脳裏の中に浮かび上がった。

 他国の魔法士が放つ見たことも無い魔法を、発動の直前から回避しようとしたり書き換えようとしたりする、あまりに特異な人物が。


「ふん、ようやく気づいたようじゃな」

「確かに先輩はいつもどんな魔法士を相手にしても……つまり先輩のアレは単純に内外の魔法を知っていて、それを元に書き換えているのではないと、そういうことですか」

「その通りじゃ。あやつの真の特異性は、魔法改変の能力などではなく、事象を細分化して情報という形で認識できる点にある」


 エインスはその時のアズウェルの言葉を、呆然とした面持ちで受け止める。そして脳内でゆっくりと噛みしめその意味が理解できた時、彼は驚愕の表情を浮かべた。


「もしかして、それは魔法だけには限らないと……」

「ああ、その通りじゃ。あやつには世界に存在する物質や魔法など、全てのものを情報の集合体として認識する能力がある。もちろん、情報量が多すぎては体と脳が焼き切れかねん。だから、普段は魔法の情報くらいにしかアクセスせんようじゃがな」


 エインスがまさかと思いながら口にした仮定を、アズウェルはあっさりと肯定してみせた。そして動揺隠せぬエインスに向かい、彼はさらに言葉を続ける。


「世界の法則と同調して自ら魔法を扱えないあやつじゃが、あの魔法の書き換えができるのは膨大な書き込み魔力と認識能力の賜物じゃ。じゃから、あやつは昔から言っておるじゃろう、あれは魔法ではなく、あくまで魔法もどきじゃと」


 アズウェルは何のことはないように、淡々と事実を説明していった。

 そしてその一言を耳にする度に、エインスは苦痛の表情を浮かべながら眉間に深いしわを寄せていく。


「先輩は……ユイ先輩はほとんど魔法が使えないともいつも言っています。ほとんどということは、全く使えないというわけではないですよね。ということは、先輩が使える魔法って」

「……ふむ。ようやく気づいたか」


「ですが、人の身で世界に触れようというのなら……もしかしてリュート先輩が慌てて飛び出して行ったのは!?」

「貴様の想像で間違いない。わしとあやつが立てた計画では、治療魔法士を使うことを前提に全ての計画を立てておった。そのことを知ったリュートの奴は、想定されるいくつかの最悪のケースに思い至ったんじゃろう。あやつは実際にユイの魔法をその目にしたことがあるからな」


 かつて士官学校を揺るがした事件を思い起こしながら、アズウェルはそう口にする。

 すると、エインスは強く握った拳をわずかに震わせた。


「つまりリュート先輩には見えていて、僕には見えていなかったということですか、先輩の実像が。僕はずっと先輩の背中を追いかけていたというのに」


 あれほど側にいて理解していたつもりのユイの思考を、リュート達は当然のごとく読み取っており、自分だけが取り残されていたという事実。

 その事実が鋭い刃となってエインスの胸に突き刺さる。


「ラインの小倅……いや、エインス。少し貴様にアドバイスをやろう。貴様は昔、親父にこう言ったそうじゃな。『いつかユイ・イスターツを超える』と。しかし、今のままでは永遠にあやつの背中に追いつくことはできん。それどころかスタートラインにたどり着くことさえできんじゃろ」

「それは……」


 憧れ続け、そして目標で在り続けるユイ・イスターツという名の先輩。

 かつてそんな先輩を超えるという誓いを立てたことは、紛れもない事実である。


 しかしながら、改めて自らとユイとの間にある距離を噛み締めることとなったエインスは、あまりにもその背中が遠い事を理解し、自らの口で言葉とすることができなかった。


「いいか、貴様が奴に追いつくことは不可能じゃ。なぜならお前と奴とでは、才能という名のベクトルが異なっとる。だからお前さんはユイの奴にはない価値と才能が自分にあることを見つめ返すべきじゃろうな」

「僕の価値……才能……あの人と比較出来るだけのものを、果たして僕は持っているんでしょうか?」


 突然のアズウェルからの言葉に対し、エインスは戸惑いを見せると、その意味を自らと目の前の老人に問いかける。


「愚問じゃな。奴がお前さんを親衛隊のリーダーに据えた事こそが、明白なその証拠じゃろうて。リュート・ハンネブルグでもなく、アレックス・ヒューズでもなく、エインス・フォン・ライン、つまりお前さんをな」


 その言葉を耳にしたエインスは、わずかに体を震わせる。しかしながら、彼の視線は未だ地に落ちたままであった。

 そんな情けない青年の姿に、アズウェルは大きな溜め息を吐き出すと、さらに彼に向かって言葉を続ける。


「まだこれでも理解できんか。なら、わかりやすいお前さんの価値を教えてやる。ユイにはなくて、お前さんだけの価値。それはお前さんが、四大公家の一つであるライン家の長子であるということじゃ」

「それは果たして価値と呼べるものなんでしょうか? 別に僕は好きで貴族に生まれたわけじゃありません。それにあの人を見ていると、貴族だとか庶民だとかそんなことは全然関係ないのだと思い知らされました。つまり人間の価値はそこにはないのだと」


 庶民の出でありながら英雄と呼ばれ、異例の出世を続けるユイのことを引き合いに出し、エインスはそう反論する。

 しかし、そんなエインスの言葉を、アズウェルはあっさりと否定した。


「だが、あやつはその貴族という俗人の考えたくだらないシステムが存在するが故に、僻地に送られたり昇進を遅らされたりと、様々なやっかみを受けておるのだろう? しかし、大貴族のお前さんがもしあやつの立場なら、そんなくだらん事は起こらなかった。そうは思わんかね?」

「それはたしかにその通りなのかもしれません。でも僕は……僕は貴族であるより、あの人のようにありたいんです」


 それは紛うことなきエインスの本心であった。

 だからこそ、アズウェルはそんな彼に向かい首を左右に振って見せる。


「ふん、お前さんは少しユイの奴を盲目的に追いかけ過ぎとる。いいか、お前さんの進む道の先に、ユイのやつはおらんぞ。お前さんの前にある道は、お前さんだけの未来だ。ユイ・イスターツの道があるように、エインス・フォン・ラインの道を堂々と進めば良い。ユイ・イスターツはこの国に二人はいらんし、エインス・フォン・ラインもまた二人は必要ない。しかし、それぞれ一人ずつはこの国に必要じゃ。この意味がわかるか?」


 エインスの瞳の奥を覗き込むかのようなアズウェルの鋭い視線に、エインスはやや迷いを見せる。そして彼は自らの中にある戸惑いを吐露した。


「それは確かにそうかもしれません。でも僕は先輩のことを追いかけたい。そしていつかは先輩のようになりたい。例え違う道と言われようとも、先輩の背中をはっきりと目にすることさえ出来ない今のままでは、僕はきっと自らの道を走り続けることは出来ないんです」

「ふむ……そこまでの覚悟か。本気でそこまでして、あやつとともに歩みたいと思っているのならば、お前さんはあやつのことを正しく理解することじゃ」

「ユイ先輩を正しく理解する……ですか」


 エインスが言葉の意味をゆっくりと噛みしめるようにそう口にすると、アズウェルはそんな彼に向かって容赦ない問いかけを浴びせる。


「ああ、少なくともお前さんはまだ、あやつの事を知らなすぎる」

「確かにリュート先輩たちには劣るかもしれません。でも……」


 アズウェルのその発言は、少なからずエインスの自尊心を傷つける。

 何しろ彼は、自らがこの国で誰よりもユイの側に居続けてきたと考えていた。だからこそ彼は、納得の行かない表情で、目の前の老人へと詰め寄る。


 しかしそんな彼に向かって、アズウェルは容赦無く彼の無知を露呈させていった。


「でも、なんじゃ? ならば聞いてみるが、あやつの扱う武術の流派を知っているか?」

「武術ですか……確か、お母様から教わったものだと伺っています」


「では、そのお母様とは誰だ?」

「……え?」


 その問いかけを発せられた瞬間、エインスは思わず固まる。


 ユイの母親。

 その存在は何度も彼の先輩の口から耳にしてきた。


 しかしながら彼はそこではじめて、彼の母親が何者であったのか知らないことに気がつく。


「やはり聞かされていない……か。なら当然、あやつの魔法もどきの原理も理解できておらんじゃろう。そうなると必然的に、お前さんはあやつの父親のことも知らんことになる。違うか?」

「いえ……違いません」


 アズウェルの発言を否定するための材料。

 それを、エインスは何一つ有していなかった。


 だから彼は思わず下唇を噛む。

 自らの無知を理解したが故に。そしてユイの後ろに広がる広大な闇に、彼は初めて気がついたが故に。


 一方、動揺隠せぬ青年の姿をその目にしたアズウェルは、一度大きな溜め息を吐き出すと、先ほどまでとは異なるほんの少しだけ優しい声色で語り始めた。


「そうじゃろうな。いいか、別にわしが言わんとすることは、何もあやつを調査しろという意味ではない。だが、あやつのルーツを理解することで、お前さんは初めてあやつの真の姿を目にすることができるじゃろう」

「ユイ先輩のルーツをですか……アズウェル先生はご存知なのですか?」


 エインスは戸惑いを隠せなかった。

 もちろん彼とて、ユイの家族やその背景に対し、疑問を抱いたことは一度や二度ではない。

 だがその度に彼は、それ以上踏み込んでは行けないという漠然とした直感を抱いていた。


 そう、確実に自分とユイとの関係をもとに戻すことができなくなるような何かが、そこに存在するのだと、彼は無意識に感じ取っていたのである。

 それが故、彼はその疑問を自らの胸の奥底で鍵をかけ、そのまま完全に仕舞いこんでいた。


 しかしアズウェルの言葉を聞いた今、もはやその疑問の存在は白日のものにさらされたと言って良い。

 だからこそ彼は、アズウェルに向かって自ら禁じていたその問いかけを口にした。


「ふん、誰があいつを士官学校に連れてきたと思っておる? わしはあいつの父親から、あやつの身を預かった立場じゃからな」

「ユイ先輩の身を?」


「ああ、あやつの父親とは古い知り合いでな。穏やかだが、とても気の良い男だった。あの気が短くて手の早い嫁と、まるで違ってな」


 アズウェルはそう口にすると、ほんの僅かに表情を和らげ、少し遠くを見る眼差しとなった。


 しかし、あくまでそれはほんの一瞬のことであった。

 彼はすぐに表情を引き締め直すと、改めてエインスに向かい口を開く。


「ともかく、あやつの背中を本気で追いたいのなら、本当のあやつのことを知ることじゃ。それはすなわち、貴様には見えていない様々な力を知ることを意味するじゃろう」

「様々な力ですか……しかし、もし先輩のことを知るという行いが許される行為だとしても、そして仮にそれを調べることが出来たとしても、その先にある先輩の本当の姿を僕は正しく理解することができるのでしょうか?」


 エインスは不安げな内心を隠すこと無く自らの体を抱きしめながら、アズウェルに向かってそう問いかける。

 そしてその問いに対するアズウェルの答えは、実にシンプルなものであった。


「そりゃあ、できるだろうさ。お前さんならな」


 その回答がアズウェルの口から発せられた瞬間、エインスはほんのわずかに張っていた緊張の糸を緩める。

 目の前の青年のそんな内心の変化を見て取ったアズウェルは、彼に向かいある男との間で交わした一つの話を伝えることとした。


「あやつはめんどくさがりの恥ずかしがり屋だから、お前さんにこの話をしたとバレると怒るじゃろうが……まあいい機会じゃろう。あやつはここを出る前にこう言っておった。エインス、お前さんこそが、自らの後継者なのだとな。そしてこの後継者という意味は、もちろんただ単純に親衛隊長の役職を引き継いだという意味ではない、真にあやつの後を継ぐものとしてだ」

「この僕が……ですか。でも先輩の周りには、リュート先輩もアレックス先輩もいますし」


 既に自信を失いかけていたエインスは、思わず彼の尊敬している二人の男の名前を口にする。

 だがそんなエインスの言葉を、アズウェルはあっさりと否定した。


「ふん、奴らだってわかっておるはずじゃ。ユイの後を継ぐのはお前じゃとな」

「それは僕が大公家の息子だから」


 まるで自らの負い目であるかのようにそう発言したエインスに向かい、アズウェルは寂しげな視線を送ると首を左右に振る。


「だからそれも含めてお前さんの価値じゃ。それを言い訳にしとる間は、絶対にあやつの隣に並び立つことは出来んぞ……ふん、不甲斐ない貴様にもう一つだけおせっかいを焼いてやろう」

「おせっかいですか」


 エインスは自然と俯いてしまっていた顔を起こし、そのままアズウェルへと向き直る。


「ああ、おせっかいじゃ。いいか、真にユイ・イスターツを知る為には常識を疑え、現象を疑え、そしてこの世界を疑え」

「この世界を……疑う?」


 思わぬアズウェルの言葉を耳にして、エインスは眉間にしわを寄せながら問い直す。


「ああ、そうじゃ。この世界を疑い、そして事象の裏側に存在するものを読み取ってみせよ。そうすることで、あやつが真に見ているもの、あやつが真に考えているものへとたどり着ける。事そこに至って、初めてお前さんはこの世界の真の姿を目にすることができるじゃろう。そして……」


 そこまで口にしたところで、アズウェルは一度大きなためを作る。

 そしてエインスの瞳が先ほどまでとは異なった色彩を帯び出したことを見て取った彼は、意を決したように声を発した。


「そしてお前さん自身の旗を……そうユイ・イスターツの隣で胸を張り、共に歩むことが出来るだけの旗を掲げてみせよ」

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