第19話 旅の終わり
いよいよ夏の訪れを感じさせる初夏の早朝。
まだ床についているものも少なくないこの時間帯に、王都セーブルの南門を出ようとする者たちの姿がある。
彼らの先頭を行く黒髪の男は、普段は決して起きていることがないこの時間故に、その瞳は半分以上開いていなかった。
しかしそんな彼であっても、見納めになるかもしれないという思いにかられたためか、馬の背に揺られつつゆっくりと後方を振り返る。
大使の赴任期間としては、異例とも言えるほど短い滞在。
しかしそれでもなお、彼に取っては決して忘れることができないこの地での滞在となった。
それ故に、ラインドルの王都であるこのセーブルの街並みを、彼は感慨深げにゆっくりと見渡していく。
彼にとってこの地は初めての他国であり、そして新たなる友人と思い出を得た土地でもあった。
だからこそ、少ないながらも深い思い出が、彼の脳裏を一瞬で埋め尽くしていく。
いつしか彼は馬の歩みを止めてしまっていた。
心ここにあらずと言ったそんな彼に向かい、誰も言葉を掛けるものはいない。
再びクラリスへ向かう旅を共にする者達も、その思いは彼と同様であったためである。
どれだけの時間、その場に留まったことであろうか。
ユイは二度頭を掻いて苦笑を浮かべると、一度溜め息を吐き出した後に、視線を前方へと向け直す。そして彼は再び馬を歩ませ始めた。
馬の背に揺られながら、ユイは見納めとばかりに街並みの一つ一つを脳裏に焼き付けていく。そして街の終わりを意味する南門を通り抜けた瞬間、側方から突然彼を呼び止める声が発せられた。
「黙ってこの国を出て行くつもりですか?」
聞き覚えのある声が鼓膜を揺らすなり、ユイは意外そうな表情を浮かべながら、声の主に向かって視線を移す。
すると、セーブル側から死角になる南門の入口脇に、フード姿の男が彼を待ち構えていた。
「おいおい。国王様が護衛も付けずにこんな場所にいたら、さすがにマズイんじゃないかい?」
呆れた表情を浮かべながら、ユイは目の前の少年に向かってそう告げた。
すると、フード姿の少年は途端に慌てだし、キョロキョロと左右を見回す。そして周囲に自分たち以外の人影がないことを確認すると、彼はフードを外して反論を口にした。
「や、やめてください、ユイさん。僕はまだ国王じゃないですし……それにあなたの前では、いつだって僕は英雄イスターツに憧れるただのカイルですから」
「まったく……勘弁してくれないか」
正面からまっすぐに向けられる尊敬の思いに、ユイは困ったような表情を浮かべる。そして彼はやれやれとばかりに、馬の背から自らの体を大地へと下ろした。
「本当ですよ。僕の貴方への憧れは、かつての大使館でお話したとおりです。むしろ実際にお会いすることができて、以前より貴方のような大人になりたいという気持ちが強くなりました」
恥も衒いもなくそう口にするカイルを目の当たりにして、少年の眼差しは初めて出会った時のままだとユイは感じた。
その純粋さだけによって構築された王子の瞳を前にして、ユイは気恥ずかしさから鼻の頭をポリポリと掻く。
すると、そんなユイの心境を手に取るように理解した一人の男が、後方からからかうような声を発した。
「ダメでやすよ。旦那みたいになっちまったら、この国の政治はあっという間に滞っちまいやすからね」
「はは、確かにクレイリーの言うとおりだ。私の目指すものは、ただの隠居生活さ。そんな私みたいになる必要はない。君は君の信じる王道を行けばそれでいい」
クレイリーの発言に苦笑しながらも、ユイは少年に向けてそう忠告した。
「王道……ですか。僕にできるでしょうか?」
「大丈夫、君ならば出来るさ」
不安そうな表情を浮かべる少年に向かい、ユイは柔らかい口調でそう告げる。
「ユイさんがそういうでしたら、信じてみることにします。そしていつかあなたが僕の側で働いてくれるような国になるよう精一杯頑張ってみます」
「はは。慌ててお国に呼び戻される人間がこういうのも何だけど、私に限らず誰もがこの国で働きたいと思う国を目指してくれ。私もクラリスから応援しているからさ」
そう口にして、ユイは改めてこの若き友人の誘いを断った。
彼としても三食昼寝付きの条件をアルミムに提示した上で、この若き友人の未来を側で見てみたいという思いが全くなかったわけではない。
ただ彼女とあの国が望む限り、彼はあの国のために働くことを彼女と誓っていた。そう、至急クラリスに戻ってくるよう命令書を送りつけてきた彼女と。
「仕方ないですね。わかりました、今回は諦めます。でも、ユイさん。実は僕以外にもう一人あなたを説得しに来た人間がいるんです」
「説得しに来た人間? 一体どこにいるんだい?」
カイルの発言を耳にしたユイは訝しげな表情となると、二度三度ぐるりと周囲を見回す。
しかし、ユイの視界には、カイル以外の人物の姿を捉えることはなかった。
そうしてユイは、カイルにどういう意味か尋ねようと口を開きかける。
すると彼は、意味ありげな表情を浮かべるカイルの顔をその目にした。
その瞬間、彼は一つの可能性に思い当たると、その視線をカイルの顔から彼の足元へと移す。
そのユイの視線の先には、カイルの足以外にもう二本の小さな足が、少年の背後に存在することに気がついた。
「あ、バレちゃいましたか。実はこの子も貴方にお別れがしたいって聞かなくて……今日はこっそり連れて来たんです」
そう言ってカイルは左方へと一歩移動する。
カイルが先ほどまで立っていた場所、その真後ろには、白いワンピースを身にまとった美しい少女の姿があった。
「……おじちゃん」
「リナ!」
ムラシーンとの戦いの後、この国の民のことは自分が全ての責任を持ちたいカイルはユイに向かって告げた。
そしてそれ故にリナは王家で引き取られる形となり、今は王宮の中にいるはずの彼女の姿を認めたユイは、途端に驚きの表情を浮かべる。
「おじちゃん……行っちゃうの?」
「ああ」
目に涙を浮かべながら、ユイの足元に抱きついてきたリナに向かって、ユイは申し訳無さそうにそう答えた。
すると、リナは上目遣いで彼の瞳を見つめる。
「もう会えないのかな?」
「そんなことはないさ。カイルのところでいい子にしていたら、きっとまた会える日が来るから」
彼女の瞳に吸い込まれ危うく翻意しそうになるも、ユイは気持ちを整えるように自らの頭を掻く。
そしてできるだけ優しい声で彼女へと答えると、彼はやわらかな笑顔を浮かべながら、リナの不安を少しでも払拭するように、彼女の髪をそっと撫でた。
そんなユイの手を少し恥ずかしそうにリナは見つめる。そして彼女はずっと一緒にいてという言葉を飲み込むと、泣き笑いを浮かべた。
「うん。わかった。わたし頑張るから、いい子にしているから」
「そっか、私もリナに会える日を楽しみに頑張るよ」
目から流れる涙を手で拭いながら、それでもリナは精一杯の笑顔を浮かべる。
そんな彼女を前にしてユイも思わず目頭を熱くすると、彼女の頭を撫でる力を、ほんの少しだけ強くした。
「ねえ、おじちゃん……ちょっと屈んでくれる?」
「ん? ああ、なるほど。いいよ」
最初、彼女の言葉の意図することが、ユイにはわからなかった。
しかし大きな身長差の為に、ずっと見上げる形になっていたリナのことに思い至ると、ユイは申し訳無さそうに片膝を折る。
そして彼は彼女と同じ高さにまで自らの目線を引き下げた。
すると次の瞬間、ユイの左頬にほんのりと温かい感覚が伝わる。
「えっ……」
突然のことにユイは目を瞬かせる。
すると、そんな彼を置き去りに、リナは恥ずかしそうにカイルの下へと駆け出し、再び彼の背後へと隠れた。
「おじちゃん……ううん、お兄ちゃんありがとう! それと、また……また絶対会おうね!」
リナはカイルの足元から真っ赤になった顔を少しだけ覗かせると、笑顔で別れを告げる。
「はは。今度会うときは、屈まずにほっぺに届くぐらい、おっきくなってるんだよ。このおませさんめ」
彼女の温度が伝わった頬をそっと右手で撫でると、ユイは恥ずかしそうに頭を掻いた。
途端にその場は温かい笑い声に包まれていく。
こうしてユイ・イスターツにとっての初めての国外への旅は、ここに終わりを告げた。
【あとがき】
本話にて第4章ラインドル編は終幕となります。
レビュー・評価など応援いただき本当にありがとうございました!
次章レムリアック編もどうぞよろしくお願いいたします。
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