終幕『ルート14に行け』

 時は経ってその日の夕方を遥かに過ぎた頃。

 すっかり日は沈み、由比ヶ浜優希とも別れた後に、ボクはその日の夕飯の献立に悩みながら足を進めていた。悩むことなく前周と同じ食事を出したとしても肉体的な健康には何の被害もないのは考えればわかる話ではあるのだが、しかし、作る側として同じモノを作り続けるのではあまりに芸が無いし、何よりも精神的な健康に悪い。

 健康に悪いってのはいけない。

 だって、健康に悪いのだから。

 そんなことをのんべりだらりと考えながら冷え冷えとして手に生えている計十本の指が、パージしそうになるのを自力で堪えつつ歩いていると、ふと、眼前を通った彼女を目で追うこととなった。普段であれば学校内ではないこの場所で学校内の知人である彼女には一切の関心など持たぬよう努めているはずだが、しかし、それを上回るほどの圧倒的な違和感が、ボクの瞳を彼女に引き寄せることとなった。

「………………」

「あ、霧ヶ音くん。こんばんは」

「うん。こんばんは、箕美さん」

 箕美真衣。

 ボクのもうひとりの友人。

 違和感を纏う不審な存在。

 いつもと何が違うのだろうか? 少なくとも学校内と学校外故の違いというものではないと思うのだが、いや、まあボクの人を見る目なんてものは言うほどのものではないと本日未明に判明してしまったことだし、なんならもう他人の見分けすらもロクにできなくなっているような欠陥品なので、勘違いである可能性が大いにあるのだけれども。

 まあ、いいか。

 まあ、どうでもいいか。

「珍しいね、外で会うなんて。あんまり外で会わないものだから、霧ヶ音くんは学校に住んでいる、七不思議の何かなのかなって思っていたところだよ」

「七不思議、かぁ。学校の七不思議だったら、ボクは一体何になるんだろうね。『真夜中に鳴り響く音楽室のピアノ』……は、ボクはピアノ弾けないしなぁ」

「『トイレの花子さん』とか……女子トイレで女子生徒を襲う変態じゃん」

「『夜の学校を徘徊する人体模型』だったり。裸で校内徘徊する露出狂様だ」

「露出し過ぎでしょう! 『睨みつけてくる音楽室のベートーベン』かなぁ、やっぱり。霧ヶ音くんはそういうキャラでしょ?」

「やだなぁ、そんなキャラじゃないよ。ボクは『校庭を走り回る二宮金次郎』なんだなぁ、これが」

「いやいや、霧ヶ音くんってば運動嫌いじゃん! 『増減する階段』の十三段目でしょ、踏まれて気持ち良くなってる的な⁉︎」

「なんて不名誉な。本当は『無人の放送室』なのでした」

「なんと……っと寒ッ‼︎」

 凍えるような一迅。

 やってしまった。身体を冷やしてはいけないのに、こんな冬空の中で人を外で止めるなんて、男子として恥ずべき行為だ……こんなんじゃ本当の紳士にゃなれないぞ。目指してないし紳士はなぜか変態のイメージがあるからなりたくないけど。

「どこかに向かってんの? ……あの、あれだ。危ないし、送って行くよ」

「……じゃあ、お願いしよっかな。止まって話すよりも、歩きながら話した方が身体が温まるしね」

「で、どこ行くの?」

「コンビニ〜」

 二人、並んで歩き出す。

 この何とも言えない違和感がどうにも気になるから送って行くだなんて言ってしまったが、果たしてこの選択は合っていたのだろうか……? いや、合っていようがなかろうが、夜に女性をひとりにする訳にはいかないだろう。そういうことにしておこう。六感課外活動部の一員として、こんな世界でも当たり前を大切にしなくてはいけないと、そういうことにしておくんだ。

「そういえばさ、最近学校サボってるみたいだけどどうしたの? 先生は遅めのインフルエンザに罹ったって言ってたけど、元気そうだし」

 インフルエンザに……?

 校長の手引きだろうか。

「まあ、色々とゴタついててね。直ぐに復帰するよ」

「無理しない方がいいよ。無理ってものは理が無いって書くんだから、人の行いじゃないんだよ。ゆっくりのんびり、程々に頑張ってさ。インフルエンザなら登校停止なんだから、日頃の疲れまで休んでしまえばいいんじゃない? だら〜って、とろけちゃえ」

「………………」

「何泣いてのさ」

「いいや……いいや、何でもないよ。目が乾燥してね、潤しているだけだからさ」

 暖かい。

 休んでいいだなんて、言ってくれる人がいるのか。

 頑張って頑張って、頑張った果てに掛けられる言葉は『頑張れ』の一言だと思っていたが、いやはや、世界ってものは捨てたものではないのかも知らないな。ただの日常会話で心温まることがあろうとは、いや、泣くだなんて、上っ面だけは冷静を装っていても、目紛しく変わり続けるこの世界でちょっとばかし疲れているのかも、しれないな。

「ああ、うん、その通りだね。少し、休むのも良いのかもしれないね」

「? うん、常に気張って努力し続けてたら疲れちゃうからね。休みなされ休みなされ。唐突に泣くくらい疲れてるんだから、沢山休んで元気に生きるべきだよ」

「違うって、目が……いや、いいや、いやはや、全くさ、どうやらボクは相当弱虫な人間であるらしいよ。最近泣いてばっかりだよ。泣き叫んで泣き喚いてごねてごねてごね続けているんだよ、本当に、情けないものだね」

 恥ずかしさを紛らわせようとしたけれど、しかし、ボクは彼女の前でそうやってボク本来の性質をひた隠しにしている理由が無いのだと思い出して、無様に泣き叫んだ。

 鴎の前ではカッコイイ自分で居たいのだ。

 由比ヶ浜優希の前では嫌味な自分で居たいのだ。

 日向姉の前では大人な自分で居たいのだ。

 両親の前ではおちゃらけた自分で居たいのだ。

 けれど、

 箕美真衣の前でのボクは——何を隠すこともなく、何も偽ることなく、ただの自分で居てもいいのだ。箕美真衣は唯一の同類項の存在なのだから。

「ああ、全くさ、みっともないなァ」

「まあ、何というか、いつも通りにツギハギだらけだね。みっともないったりゃありゃしない」

「いつも通りはいいことだね」

「不変主義?」

「平和主義」

 ボクは、不変主義を掲げられるような器じゃない。

 あれは、この世から乖離しているあの人だからこそ掲げられる誠の旗なのだ。だけど今だけ、ちと拝借。

「——っとと、しばし失礼」

 そんなところで、ポケットに入れていた携帯電話がバイブしたため、一言断った後に取り出して確認する。人との会話中に連絡が来たからと言って携帯電話を確認する習慣など、ほんの少し前までは無かったものだが、我が敬愛する日向姉に口酸っぱく言い聞かされてしまっては、由比ヶ浜優希の命令に沿う形で若干屈辱ではあるが従う他ないというものだ。

 画面を確認すると、『EDGE』という無理矢理入れられた連絡ツールに着信がひとつ入っていた。連絡ツールなんて基本的に使って来なかった人生なので、未だこのアプリには慣れていないのだが、二度も失敗すれば送られてきた内容の確認など容易いというものである。

『注意報‼︎

『何やらパトカーうるさし! 殺人事件発生の模様! 夜道を歩いている阿呆は注意を!』

 成る程。

 彼ら彼女らの情報収集能力を舐めているつもりはなかったが、そうか、こんな短期間で次の仕事が発見されるのか。しかしまあ、本日は三日目である。血の涙を流す労働者となるのはまた翌週の話になるのだろう。今はそれどころではないので、これは見なかったことにして携帯電話をポケットにしまう。

「ごめんごめん、会話の途中だったのに」

「いんや、いいよ。しかしどうしたの? 霧ヶ音くんは連絡が来ても確認しない人だったじゃん。というか、連絡とか来ない系ピーポーだったじゃん」

「まあ、色々とありまして。少し楽しくかなり大変な日々を送らせていただいていますよ、クソッタレ」

「毎日ゲームでもしてるのかな?」

「少し違うけど、あながち間違っていないってトコかな」

「日々が楽しいってのは良いことだね。努力義務だね」

「まあ、そうだね。でも楽しいだけの人生っていうのは、きっと、想像を絶する程度にはくだらないものだと思うよ」

「まあ、そうだろうね。人生山あり谷ありくらいが丁度いいものだから」

「わかってるね。流石箕美さんだ」

「ふっ! 様々な視点から多種多様な見方を学び、育み、生きていく。それがここにいる箕美真衣さんなのだ!」

 様々な視点から多種多様な見方を学ぶ、か。

 とても、ボクにできるようなことではないな。ボクはどう頑張ったところで自分自身の視点のみでしかものを語れず、どう足掻いても他人の目線でものを見るなんて敵わないのだ。六感能力なんて異次元の力を手にしてみても、結局ボクは自分自身の視点で世界を眺め、誰かの心を聴こうとも、色々な香りを嗅ごうとも、他の誰かを治そうとも、皆をひとつにする環境を作ろうとも、見知らぬ誰かのために何をしようともせずに、誰か見知らぬ誰かを知ろうともせずに、ボクは何ら変わることの無い自分の世界からボク自身のフィルターの掛かった青白い世界を堕落的に眺めているだけなんだから——。

「——救えないよね」

 負け犬ムードに心を震わせ、何の気無しにぽろりと零す。

 溢れ出す泥のようなそのため息に、箕美はただ不思議そうな視線でボクを見た。

     *刹那*

 理解なんて超えていた。

 それこそボクは昼間由比ヶ浜さんが口にした構文を語った張本人であるポルナレフのように、相手の能力の片鱗すらも理解することもできずに、ただ眼前で巻き起こるであろう悲劇を目にする前に舞台を暗転させるのであった。

 六感で《眼》に関する能力を賜っておきながらにして、何も見る事が叶わず、相手が何なのか視認する事すらも敵わなかったのだから、笑いものだ。

 そしてボクは——


 —— そんな何の意味もない言い訳を頭の中に並べながらも布団から這い出て立ち上がり、ひとつ伸びもせずに眼を開くのであった。

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