第179話『お互いがお互いのために』

 最低限のぼせないようにと気を付けてはいたが、温泉から上がって部屋に戻ってきた後でも、冷房の風がひどく爽快だと思えるぐらいには身体が熱を保ったままだった。

 もっともこれは長湯した影響というよりは、雛との深いキスにしばし没頭してしまったが故の結果だろう。


 風呂でするのは程々にしないと、と実に今さらな反省に口の端を引きつらせた優人は、スポーツドリンクのペットボトルの飲み口を傾けた。多量に発汗したせいもあるののか、身体に沁み渡るように美味い。


「ただいまです」


 しばらく喉を潤しながら座椅子の上でスマホをいじっていると、脱衣所の方から浴衣姿の雛が姿を現す。

 風呂上がりも色々と肌の手入れがあるようなので優人は先に脱衣所を後にしたのだが、どうやらしっかり完璧に仕上げてきたらしい。まだ触れることのできる距離でもないのに、保湿された雛の素肌のきめ細かさが感じ取れるようだった。


「おかえり。雛も飲むか?」

「あ、なら頂きますね。ありがとうございます」


 ほのかに甘い香りを漂わせる雛は優人の隣に腰を下ろすと、優人が差し出したスポーツドリンクを両手で大事そうに受け取って微笑んだ。

 今さら間接キス程度では動じないし、それは雛だって同じことだろう。だが、湯上がりで艶めかしさのある白い喉がこくり、こくりと動くたびについ目が奪われてしまう。


「ふう……ごちそうさまです」


 雛はスポーツドリンクをテーブルに置くと、続いて最後の仕上げなのか、自分の荷物から折りたたみの卓上ミラーとヘアブラシを取り出す。そしてブラシを群青色の髪をあてがおうとした直前、なぜか動きを止めて優人の頭へ目を向ける。


「優人さんってもう髪は乾かし……たみたいですね」

「雛に教えてもらった方法でバッチリだぞ」

「……むう、ちょっと残念です。まだなら私が手入れしようかなと思ったのに」

「え、なんかごめん」


 ちょっとと言う割には本気で残念そうな雛に優人は思わず肩を竦めた。

 雛に手ずから手入れしてもらえるのは魅力的な誘いなのだが、彼女のたゆまぬ自分磨きがんばりを何度も目撃してる身としては、人任せにしてずぼらになってしまうのも気が引ける。悩ましいところだ。


(雛に余裕がありそうな時に頼むぐらいならいいかもな)


 自分の中で折衷案を出しつつ、気を取り直してブラシを動かし始めた雛の手元を見て、優人はふと口を開く。


「代わりに俺が雛の髪を手入れしようか?」

「優人さんが?」


 きょとんと小首を傾げられ、わずかに見開かれた金糸雀色の瞳が優人を見つめる。

 ……深く考えず、冗談程度なノリで口に出してしまったが、ついさっき「経験のない自分が触ったら痛めそうで怖い」と言った奴が何をいきなりという話である。

 そもそもする側とされる側が真逆になってるのに何が代わりなのか。

 

 出過ぎた提案だった――優人がそう訂正するよりも早く、ブラシの持ち手がこちらに向けられる。

 その先には、ふわりと表情を綻ばせる雛の顔があった。


「それではお願いします」

「……いいのか?」

「そっちから言い出したことでしょうに。髪の絡まりをほぐすために梳く程度ですから、優人さんなら楽勝です」

「信頼してくれてるなあ」

「それだけの積み重ねがあるからこそですよ。さ、早く早く」

「はいはい」


 雛の言う通り言い出しっぺはこちらだし、恋人からの信頼には是非とも応えたい。

 雛はブラシを手渡すと優人の前へ移動し、両手を膝の上に置いて背筋を伸ばす。微妙にゆらゆらと揺れている背中と卓上ミラー越しに見える口元から、雛が喜んでいるのが伝わってきて優人も嬉しくなった。


「毛先の方から始める感じで大丈夫だよな?」

「はい」


 最終確認を終えたところで、膝立ちになった優人はブラシを雛の髪の先端にあてがい、真っ直ぐゆっくりと滑らせていく。

 ブラシから返ってくるのは、絹のように美しくなめらかな感触。絡まりを解すためと雛は言ったが、現時点ですでに解消されてるのではと思えるほどスムーズにブラシは滑り、一度も引っかかることなく最初の一梳きは終わる。


 果たして効果があるのかと疑問を覚えるものの、信頼されている以上は手を抜くなどありえないので、少し位置を横にズラして二回、三回と回数を重ねる。

 やはり滞りなくブラシが滑り落ちる中、ふふっと小さな含み笑いが雛からこぼれた。


「このような感じでよろしいでしょうか、お客様」

「とてもよろしいです。初めてということでしたけど、店員さんはお上手ですね。実は経験がおありなのでは?」

「まさか。俺――じゃなくてわたくしめはお客様専属ですので、後にも先にもお客様だけですよ」

「ほう、それは嬉しい話です。ちなみに専属契約料のお支払いはどうすればいいのでしょうか?」

「では愛情払いで――……ごめん、今のは忘れてくれ」

「分かりました愛情払いですね。確実にお支払いしましょう愛情払い」


 つい遊びが過ぎてクサい台詞を口走ると、我に返った時にはすでに遅く、優人の言葉はしっかりと雛に拾い上げられてしまう。実ににっこりとした笑顔を見ると敏感な耳や首筋に仕返しの一つでもしたくなるが、今は雛の髪の手入れが優先だ。


 あとで覚えてろ、と自分の発言がそもそもの発端であることを見事に棚に上げ、優人はわずかに黒い笑みを覗かせた。


「よし、これで一通り終わったけどどうだ?」

「ばっちりです、ありがとうございます。……わー、なんだかいつもよりさらさらな感じ」


 卓上ミラーとにらめっこしながら、髪を一房摘んで出来映えを確かめる雛。

 いつもより云々はただの気の持ちようだと思うが、そう言ってもらえたことに優人はこっそりと拳を握り締めた。


「えいっ」

「おっと」


 ブラシを置いた瞬間、いきなり預けられた雛の背中をぽすんと受け止める。

 座椅子の背もたれのおかげで難なく支えられたが、突然のことに少し驚いてしまうと、振り返った雛は楽しげに笑った。


「ごめんなさい、なんだかつい寄りかかりたくなりまして」

「甘えたくでもなったか? どうぞいらっしゃい」

「えへへ、ありがとうございます。この体勢、すごく落ち着くんですよね」


 先ほどの温泉でもそうだが、こうして優人の足の間に座ることが雛はいたくお気に入りらしい。

 快く迎え入れて温かな身体を抱き締めると、雛はうっとりとした様子で優人にもたれかかった。


「雛の髪、いい匂いがする」

「分かります? 結構いいシャンプー使ってるんですよ」


 そうだろうけど、たぶんそれだけじゃない。仮に優人が同じものを使ったとしても、こうはならないだろうと確信に近いものを感じた。

 雛の髪に顔を寄せて息を吸い込むたび、肺を満たしていく甘い香り。徐々にペースを早める心臓の鼓動が優人の全身へと熱い血液を送り込み、思考がだんだんと熱で浮かされる。


 優人が強く身体を寄せた瞬間、雛の腰がびくっと震えた理由に自覚はあるが、これ以上は抑えが効きそうにはない。

 逃げる素振りも、離れる素振りもない雛の肢体に手を這わせようとした、その矢先。

 優人の手は、動きを止めた。


「どう、しました?」

「……手入れしたばっかりなんだよなって考えるとさ、なんか、ちょっと申し訳なくなってくるというか……」

「なら、今夜はお預けですか?」

「……それは無理」

「ふふ、わがままな人」


 恥じらいつつも妖艶に微笑んだ雛。そして優人の手の甲に自らの片手を重ねると、もう片方の人差し指と中指を立てて優人に見せつけた。


「優人さん、私の手入れには大きく分けて二つの理由があります」

「二つ?」

「はい。一つは単純に自分磨き。もう一つは――」


 中指が折られ、残るは人差し指。

 すっと細く、爪の先まで綺麗だと思えるそれが、優人の鼻をちょんと叩いた。


「あなたが触れた時、気持ちいいって思ってもらいたいからです」


 深い想いを込めた囁き声が優人に届く。たったそれだけで、雛への愛情が無限に溢れてくるようだった。


「だから優人さん、あなたの好きなだけ――私に触れてください」

「……ありがとう」


 感謝を告げ、優人は雛の唇に蓋をする。

 その夜、二人はまた一つ、幸せな思い出を刻み合った。




≪後書き≫

 ひとまずは本編の方を優先しますので具体的にいつとは言えませんが、また18禁版も更新する予定です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る