第49話『温かな帰り道』
銭湯からアパートまでの道すがら、日が落ちてから時間も経ってすっかり冷えてしまった空気が服の上から身体を撫でていくが、そこまでの寒さは感じない。
銭湯のお湯の効能もあるのだろうか、身体の奥底まで浸透した熱は未だ内側から優人をじんわりと温め、適度な解放感を与えくれてる。
ふう、と息を吐けば口から白く染まった呼気が上がり、それは隣から上がった彼女の吐息と微かに混じり合って、やがて空へと消えていく。
「不思議ですね」
吐息の消え行く様を優人が目で追っていると、雛はぽつりと言葉を紡いだ。
「何が?」
「外に出たらもっと冷えるかなと思ったんですけど、まだ身体がぽかぽかしてます」
雛が一段と長い息を吐く。それは白色が濃く、どこか熱っぽさも孕んだ吐息だった。
今いる場所は、アパートまで残り半分を過ぎたところ。銭湯を出てから時間にして五分ほど経った今、優人と同じように雛も特有の解放感を味わっているかもしれない。
湯冷めしないように服を首元までしっかり着込んでいるのもあると思うが、それだけゆっくりお湯に浸かり、身体の芯まで温まったということだろう。
「気に入ったみたいだな」
「ええ、訳もなく通ってしまうかもしれませんね」
「いいんじゃないか? 確か回数券のセット販売もあったから、何度も通うならそっちの方がお得だと思うぞ」
「そうなんですか。考えておきましょう」
割と真剣に考え始めたらしい雛に小さく笑みを浮かべ、優人は何気なく空を見上げる。
満天の星――とはお世辞にも言えないが、今夜はいつもより星がよく見えた。もちろん長時間だと湯上がりの身体に
「ふと思ったんですけど、銭湯でこれなら本格的な温泉はもっと気持ちよさそうですよね」
雛から振られた話題に優人は「確かに」と返して頷く。
「温泉旅行とかちょっと憧れるよなあ。宿泊だと高くつくけど、日帰りならある程度は費用も抑えられるか」
「でも、せっかく行くなら宿泊したくないですか? 日帰りだと忙しなくなっちゃいそうです」
「はは、それは言えてる。温泉こそゆっくりまったり、気兼ねせず浸かりたいもんだ」
「……何となくですけど、先輩って湯船に浸かる時『あ゛ー』とか言っちゃう人ですか?」
「悪いかよ」
身体に溜まった疲れを残さず絞り出し、お湯に溶かしていくようなあの感覚が良いのだ。何ならさっきの銭湯でもやった。
「いえ、いいと思いますよ。少し年寄りくさいかもですけど」
「言っとけ。温泉なんて言い出したのはそっちのくせに」
「ふふ、そうでしたね」
二人で軽く笑い合う。
不思議と心が安らぐような時間だった。
心身共にリラックスしてしまい――それ故に、急に強く吹いた寒風が首元のわずかな隙間から身体を襲った瞬間、優人は盛大なくしゃみをかましてしまった。
「だ、大丈夫ですか、先輩」
「っ、ああ。すまん、びっくりさせたな」
「いえ、それはいいんですけど……やっぱり私を待ってる間に湯冷めしてしまったのでは」
「気にしすぎだっての。今のはたまたまだよ」
などと言った後にもう一発。今度は身構えていた分さっきよりも威力を抑えられたものの、言ったそばからこれでは立つ瀬がなかった。
ちょうど銭湯で新装記念の粗品のポケットティッシュを貰っていたから事なきは得たが、どうにも隣からの視線が突き刺さる。
鼻をすすりながら、ばつが悪そうに表情を歪める優人。
視線はさておき、それ以上雛から言葉が飛んでこないのを不思議に思っていると――不意に優人の手に、柔らかな感触が触れた。
その原因を視線で辿ると、優人の手の甲に雛の手が添えられている。
本当に彼女の身体はぽかぽかしているのか、触れられた部分から伝わるのは、どこまでも深く沁み込んでいくような熱だった。
「そ、空森?」
「これなら……少しは温かいですか?」
上擦り気味の声音に優人が顔を上げると、雛は目を合わせないように斜め前を向いている。
逆に真っ赤に染まった耳がよく見えて、本能的に直視はマズいと悟った優人は雛とは逆側に視線を逸らした。
「あったかいけど……別に手まで繋がなくても……」
「だって、寒そうに見えたんですもの。……先輩の手、思ったよりも冷えちゃってますよ」
優人の手首から指先まで、雛が白く細い指をすべらせる。優しく労るような手付きが全体を軽く撫で回し、やがて雛は大きく手を開くと、手の甲に被せるように優人の手を包んだ。
包んだと言っても、当然手の大きさは雛の方が圧倒的に小さい。
だから全てを覆えるわけではないのに……今この瞬間、優人の意識からは冬の寒さが完全に消えた。
ここまでしてもらわなくても、大丈夫だ。
二回もくしゃみをした手前言い訳くさいとは思うが、そもそも人体において手足は心臓から離れた位置にあるため冷えやすく、現に優人の胸の辺りはしっかり熱をキープしている。
だから心配される必要はない。下手したら雛の方が冷えてしまうかもしれないのだから、早く離した方がいいに決まっている。
――けど、解けなかった。やめてくれなんて言えなかった。
雛の手は、小さくて柔らかい。乾燥なんて概念ごと抜け落ちたかのように潤いたっぷりで、与えられる温かさは凪いだ湖のように心を落ち着かせる。
「……先輩の手、大きくてごつごつしてますね」
優人とは正反対の感想を呟いた雛が、ぎゅっと手に力を入れる。
輪郭を確かめるような力加減はくすぐったく、けれど気持ち良い。
「悪かったな。男の手なんてこんなもんだろ」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないですよ。……男の人らしくて、いいなって思います」
「……物好きめ」
ぶっきらぼうな口調が照れ隠しなのは自分でもよく分かっている。
果たして雛には悟られているのだろうか。確認なんてできるわけもなく、それから先、アパートに着くまで二人は無言で足を進めた。
ただ一つ言えるのは、その日の帰り道は今までで一番温かく、そしてゆっくりとしたものだったということだ。
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