第48話『頑張り屋さんと銭湯』

 それぞれ晩飯を済ませて少しの食休みを挟んだ後、優人は雛を連れて約束した銭湯に訪れていた。

 アパートから徒歩十分圏内の通いやすい位置にあり、銭湯として創業したのは確か昭和の頃からとのこと。入口の暖簾のれんをくぐると、年季の入った外観とは裏腹に改装工事のおかげで綺麗になった玄関が優人たちを出迎えてくれた。


「これが銭湯ですか……初めて来ました」


 靴を脱ぐ傍ら、雛はきょろきょろと物珍しそうな表情で店舗の内装を観察している。 料金の支払いやタオルの貸し出しなどを行う受付、瓶の飲み物の自動販売機、壁際にはマッサージチェアなどなど、綺麗になったとはいえ設備自体は他の店舗とほぼ変わらないとは思うが、初銭湯の雛にとってはさぞ新鮮らしい。

 その証拠に玄関から待合室へ入れば、雛はより一層忙しなく視線を行ったり来たりさせ始めた。


「空森、まずは支払いからな」

「あ、はい」


 お楽しみのところ申し訳ないが、先にやるべきことを済ませてしまおう。

 二人ともタオルなどは自宅から持ってきているので、支払う料金は五百円ワンコインでお釣りが来る入浴料だけ。ついでに雛は自分用のヘアオイルや保湿クリーム類も用意してきたらしく、彼女が日常的に行っている外見への不断の努力を改めて思い知らされる。


 さて、もちろんこの銭湯は混浴なわけもないので、雛とはここでお別れだ。


「入浴の仕方とかは大丈夫だよな? まあ、特別なもんがあるわけじゃないけど」

「はい、念のため予習もしておきましたので大丈夫です。ここまで案内してくれてありがとうございました」


 こういう時も雛は勉強熱心だ。

 心を踊らせているが決して浮き足立っているわけではないその様子に安心し、優人は「ゆっくり楽しんでこい」と言い残した後、青色の暖簾が掛かった先へと進んでいった。








「あー……いい湯だったー……」


 入浴を終えて一段落すると、優人の口からは無意識にそういう呟きがこぼれてしまう。

 やや熱めのお湯は新鮮で気持ちよかったし、何より広い湯船で足をのびのびと伸ばせるというのがたまらなかった。アパートの湯船だとこうはいかない。


(空森は……まあ、まだ入ってるよな)


 待合室に戻って周囲を見回しても数十分前に別れた雛の姿は見当たらない。念のため靴箱を確認しても雛のところはまだ鍵がかかっているので、彼女はまだ赤色の暖簾の向こう側なのだろう。

 優人もだいぶゆっくり入ってきたつもりだが、入浴以外にも色々と手間のかかるであろう雛なら当然の話だ。


(とりあえず、しばらく待ってるか)


 わざわざ銭湯に来たので自販機でコーヒー牛乳を購入した優人は、手近にあった待合い用のソファに腰を下ろす。

 行きは銭湯までの案内という名目はあったが、帰りに関してはそれもない。

 雛の記憶力なら道順は覚えただろうし、そもそもがほぼ一本道なので迷うこともないはずだ。だから別に、わざわざ雛を待つ必要もないとは思うのだが……。


 さっさと一人で帰ってしまうのは、何だか物寂しいと思えてしまった。








 スマホで動画を視聴しながら時間を潰すことしばらく、赤色の暖簾をくぐる見慣れた少女の姿を確認した優人は耳につけていたイヤホンを外して片手を上げた。


「空森」

「え、せ、先輩?」


 呼びかけられてすぐに振り向いた雛は優人の顔を見るなりぱちくりと目をしばたたかせ、少し焦った様子で優人に歩み寄った。

 ほのかに色付いた雛の白い頬が優人の目に留まる。

 これからまた寒空の下を歩くことになるので、しっかり髪は乾かしてあるし服も着込んでいる。それだけに湯上がりを感じさせる唯一の部分が際立って目につき、白磁のような素肌を彩る紅色からは鮮やかな美しさを感じられた。


「……ひょっとしなくても、私を待っててくれたんですよね?」

「暗い夜道を空森一人で帰らせるのもどうかと思ったからな。待ったって言っても十分

ぐらいだし気にすんなよ」

「…………」


 疑うように金糸雀色の瞳が細まる。雛はその視線のままに腰を屈めて優人のスマホ画面を覗き込むと、なおのこと不服そうに目尻を吊り上げた。


「動画の再生時間、倍以上は過ぎてるじゃないですか」

「お前もよく気付くね……」


 なんとまあ目敏めざといことか。

 透き通った瞳からの圧と、ついでに思いの外間近に迫った端正な顔立ちとシャンプーの香りに耐えかねて優人が視線を逸らすと、申し訳なさを孕んだため息が優人の耳を微かにくすぐった。


「お待たせしてごめんなさい。そうと分かってれば、もう少し手早く済ませてきたんですけど……」

「風呂はゆっくり入るもんなんだから、それでいいんだよ。初銭湯は満足できたか?」


 そんな顔をされてはせっかくの体験も台無しだろう。

 少し出過ぎた真似かとも思えたが、雛のしょんぼりとした表情を見るとどうにも堪えきれずに手が伸び、綺麗な群青色の髪の頂点をぽんぽんと叩く。手入れを終えたばかりの髪は手触りがとても良く、さらさらと流れる髪の下で雛はくすぐったそうに目を細めた。


「――はい。身体の芯まで温まれて気持ち良かったです」

「なら良し。ついでにあれも経験してったらどうだ?」


 自販機を指差してやれば、「買ってきますっ」と声を弾ませた雛はいそいそと財布を取り出して自販機の方へ向かう。

 たっぷり一分ほど悩んで購入したのはフルーツ牛乳。薄黄色の液体が詰まった瓶を両手で持って戻ってきた雛は優人の隣に腰を落ち着けると、栓を開けてゆっくりとその中身を傾ける。


 ほっそりとした首筋がこくりと脈動し、途端に緩むその可愛らしい横顔を眺めながら、優人はもうしばらくゆっくりすることになるだろうとソファに深く座り直すのだった。

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