第24話『気になる寝言』
(……寝たか)
食器洗いを終えた優人が耳を澄ませてみると、緩やかに膨れた掛け布団の方から規則正しい寝息が聞こえてくる。
雛に薬の服用と水分補給をさせた後、優人ができる範囲での家事(例えば洗濯は異性の違いをまざまざと見せつけられそうなのでNG)を片付けてみれば、いつ間にか時刻は夕方近くになっていた。
夢の世界に落ちている雛の邪魔にならないよう、一応心の中で断りを入れてから彼女の寝顔を覗き見る。
呼吸は一定のリズムを刻んでいるし、頬の赤みもだいぶ引いた。あと少しだけ様子を見て問題なさそうなら今日は帰っても大丈夫だろう。
どうせ部屋はすぐ隣、何かあったらまたすぐに来れる。
(それにしても、なんか寂しい部屋って感じだな……)
手持ち無沙汰な上に家主も睡眠中だから、悪いと思いつつもついつい室内を観察してしまう。
前の住人である七瀬が残していった家具に、クッションを始めとする生活用品が買い足された空間。
物が少ないのは引っ越しからそう時間も経ってないので当たり前と言えば当たり前だが、どうにも張り詰めた印象を感じてしまう。
そう感じてしまう最たる原因は恐らく、部屋の片隅に設置された勉強机だろう。
使い込み具合から考えるに机自体は七瀬が残したもののはずだが、その上に並べられた参考書や問題集は雛の持ち物だ。
使い古されたものもあれば、まだ真新しいものまで色々と。
試しにその中の一冊を手に取ってみると、ページのあちこちから付箋が飛び出ているのがよく分かる。
この机に向かって日々の予習復習などに勤しんでいるのが目に浮かぶようだ。
(なんでそんなに励むのかね)
学年主席を維持している時点で並大抵の努力じゃないことは分かるが、それにしたって努力家が過ぎるように思える。
何か目標でもあるのだろうか。例えば目指している大学があるとか、就きたい仕事があるとか、そういった明確な将来設計みたいなものが。
「――んぅ」
思わず考え込んでしまった優人の意識に割り込んできたのは、雛がこぼした吐息だった。
発生源に目を向けるとベッドの上で雛が身じろぎをしている。その拍子に掛け布団がめくれ、それを直してやろうと近付く優人だったが……その判断は迂闊だった。
(これ、は……)
優人の喉がゴクリと鳴る。
いつだったか寝起きがあまり良くないと言っていた雛は、ひょっとしたら寝相の方もよろしくないのかもしれない。
優人の目に晒された雛の寝姿なのだが、何の因果かパジャマのボタンが途中まで外れて白さの眩しいデコルテが露わになっている。
ほっそりとした鎖骨回りはじんわりと汗をかいているのが見て取れ、先ほどからどことなく漂っていた甘い香りがさらに濃くなったような錯覚を覚えてしまう。
汗をかいているということはそれだけ熱が下がるわけなので喜ばしいことだが、さすがにこの状況を手放しで喜べるほど優人は男を捨てていない。
少しうなされているような悩ましげな雛の表情はかえって女性としての魅力を煽っていて、汗ばんだ白い素肌は年下と思えないほどの色気を醸し出している。
幸いなことに下着まで見えるほど衣服の乱れはないけれど、あと少しで肩紐程度なら見えてしまいそうな危うさだ。
正直目のやり場に困るというか……あまり大っぴらにはできない男としての本能を抱いてしまう。雛みたいに着痩せするタイプなら尚更だ。
雛の尊厳と自分の体裁を守るべく、優人はなるべく雛を視界に収めないようにしながら掛け布団を指で摘む。そのままそーっと、万が一にも眠り姫の睡眠を妨げないようにめくれを直していく。
もしここで雛が起きたら下手すれば優人の信頼は地に落ちかねないから、手付きはかなり慎重だ。
「……よし」
どうにか布団を掛け直すことには成功し一安心。そうして雛から手を遠ざけようとしたところで、何の前触れもなく雛が優人の手を捕まえた。
「――っ」
ひゅっと詰まる息。まさか起こしてしまったか。
「…………」
いや、そうではないらしい。
雛の両目は未だ閉じられたままだし、優人の手を掴む雛の手にも大して力が入っていない。
掴まれた時はここ最近で一番と言えるぐらい心臓がざわついたが、あくまで偶然だったようだ。
そうと分かればゆっくりと引き抜けばいいわけで、それを実行すべく優人が少し力を加えた――その瞬間、
「――おいてかないで」
その一言が、優人の心を捉える。
か細い声が紡いだその囁きは、いつもよりも幼い響きを帯びた寝言。
怖い夢でも見ているのだろうか。閉じられた瞼の間からほんのわずかな雫が
寝ているから故の無防備さなのか、今の雛は本当に幼い女の子のように優人の目に映った。
自分でも気付かないうちに優人は自然と雛の手を握り返し、彼女に寄り添うようにベッドの近くに腰を下ろす。
何か考えがあったわけじゃない。ただそうした方が良いと直感的に思っただけのこと。
もうしばらくいてやるよ。
心の中で唱えただけの呟きがもちろん雛に届いたわけもない。けれど彼女の表情がどこか安らいだような、そんな気がした。
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