第22話『頑張り屋さんの体調不良』

 ピザの日からちょうど一週間。十二月の第一週目であるその土曜日は、冬の寒さに追い打ちをかけるような冷たい雨が降り注いでいた。

 二限目と三限目の合間の休み時間、教室の中から窓を伝い落ちていく透明な雫を眺めながら、優人はげんなりとした表情で肩を落とす。


「寒空の下で走らなくて済んだと思ったら……結局体育館で走らされる羽目になるのかよ」

「まあ仕方ないわな。持久走の代わりっつったらそんなとこだろ」


 体操着の入った袋を開けつつ、隣の一騎と愚痴るように言葉を交わす。


 本日三限目の体育、当初はグラウンドでの持久走が予定されていたのだが生憎の雨で中止となり、代わりに体育館でのシャトルランに変更となった。

 どちらも持久力を競う種目に変わりはないのだが、あの独特の音楽で急かされることを想像すると、まだ変更前の方が自分のペースでやれるだけ良かったかもしれない。


 大人しく座学にでもなれば良かったのに、と優人がため息をつきながら一騎と着替えていると、早くも着替えを終えて準備万端なクラスメイトが近付いてくる。


「そう気落ちすんなって天見。そんなお前に良い情報を授けてしんぜよう」

「情報?」

「おう」


 意義込んだ彼は二カッと快活な笑顔を浮かべる。交友関係の狭い優人にもこうして気さくに話しかけてくるので間違いなく善人なのだが、お調子者の面があるのが玉にきずだ。


「今日の体育は急遽体育館でってことになったろ? その結果、一年のあるクラスとバッティングすることになったんだよ」

「……それが? 別に体育館広いし、二クラス程度なら問題ないだろ」

「まあ待て、最後まで聞け。実はその一年のクラスってのがな――あの一年三組なのさッ!」


 キランと歯が光りそうなキメ顔で、実に勢いよく宣言するクラスメイト。

 それだけとっておきの朗報だということだけは伝わってくるのだが。


「……俺には意味がよく分からないんだが、一騎は?」

「いや、クラスだけ言われても」


 一騎と揃って首を傾げるしかないのが優人の現状であった。

 要領を得ない二人の態度にクラスメイトはくわっと目を見開く。


「バッカお前ら! 一年三組といえば、あの空森雛ちゃんがいるクラスだろうがよ!」

「ああ、そういうこと……」


 特に気に留めたこともなかったが、どうやらそういうことらしい。つまり学校でも大人気の美少女が躍動する様を近くで観察できるぞということか。

 当の本人、というか女子が聞いたら顰蹙ひんしゅくを買いそうな発言である。


「あのクラスは空森ちゃん以外にも粒揃いが多いからな……くくく、うら若き後輩女子たちを目の保養にさせてもらうのはもちろん、俺のカッコいいところを見せて惚れてもらうのも悪かねえ……!」

「シャトルランって外から見る分には地味な種目だと思うけどなあ」

「うっせえ! 可愛い彼女持ちの一騎にはどうせ分かんねえよ! な、天見!」

「俺をそっちに引き込むな」


 鼻息荒く同意を求められても困るので、拒否の意を示して着替えを終える。


 まあ、目の保養云々はともかく、後半の方は動機が些か不純なことに目を瞑れば授業に真剣に取り組むということなので、一概に悪いこととも言えないだろう。そういうバイタリティ溢れる前向きな姿勢は見習うべきかもしれないとほんの少しだけ思いながら、優人は体育館を向かうクラスメイトの後を追うのだった。










「はっ……はっ……はっ……!」


 シャトルランの独特なあの音楽が未だ流れ続ける中、どうにか平均ラインを越えた辺りでギブアップしした優人は壁際の待機ペースに座り込む。

 ひんやりとした体育館の壁に背を預けながら、荒れた息を少しずつゆっくりとしずめ――そして隣に向けて一言。


「……空森いなくね?」

「よくもだましたアアアア!」


 別に誰も騙してなどいないと思うが。


 ドン、と四つん這いのポーズで悔しそうに床を叩くクラスメイト。途中で転倒のアクシデントを起こして早々に脱落してしまった彼は体力が有り余っているのだろうけど、音的に今の結構痛かったんじゃないかと優人は顔をしかめる。


 やっぱり手をさすり始めたクラスメイトの姿を尻目に、仕切り用のネットの向こう側でバスケ中の一年三組へと目を向けた。


 男女別で試合形式の授業を行う後輩たち。その一帯を一通り眺めてみても、やはり雛の姿は見受けられない。

 最初はただ遅れているだけとも思ったが、授業が後半に差し掛かった今でも姿を見せないということは欠席とみて間違いないだろう。


「んでだよ……わけわかんねえよ……俺から空森ちゃんを、空森ちゃんを奪ってそんなに楽しいのかよ……!」

「誰に対しての恨み節だよ……」


 雰囲気だけなら完全に呪詛である。

 ひたすらぶつぶつと吐き続けるクラスメイトに辟易としつつも、優人も雛がいないこと自体は気になるところだ。


 見学なら見学で体育館内にはいるはずだよなと思っていると、ネットの向こうから声がかかる。


「あのー、ひなりんなら今日は体調不良で休みですよ……?」


 声の主は先日、食堂で雛と一緒にいた女子だった。

 クラスメイトがしきりに雛の名字を口にしていたからこちらに気付いたのか、休憩中らしい彼女は少し訝しげな眼差しで優人たちを窺っている。微妙に腰が引けているように見えるのは、優人の目つきのせいだろう。


「体調不良?」

「はい、朝から。風邪で休むってうちの担任に連絡があったみたいです。ひなりんに何か用があったんですか?」

「ああいや、特にそういうわけじゃないから気にしないでくれ。わざわざありがとう」


 優人がそう答えれば、幸い後輩女子はそれ以上何か言及するでもなくクラスの輪に戻っていった。

 とりあえず今の会話を聞いていたかどうか分からないクラスメイトに「病欠だとさ」と告げ、優人は体育館の天井を見上げる。


(大丈夫か、あいつ……?)


 優人にも経験があるから分かるが、一人暮らしで風邪を引くというのは結構しんどい。

 前もって飲み物や消化に良い食べ物を用意しておけばまだいいが、それがなければ気怠い身体に鞭を打って買い出しに出かけなければならなくなる。


 基本的にしっかり者の彼女なら、そういった準備にも抜かりはないと思うけれど。


「…………」


 どうにも胸騒ぎがしてしまう。回数が三桁に達して間隔の早くなったシャトルランの音楽が、今ばかりはいつもより遅く感じた。











 土曜の半日授業を終えても胸騒ぎがおさまらない。


 昼食に誘ってくれた一騎やエリスに断りを入れて学校を後にすると、優人は足早に自宅への歩を進めた。

 最初は早歩きだったのがいつの間にか競歩レベルに、結局は小走りへと段階的に進んでいき、やや小雨になった雨を傘で押しのけるように足を動かし続ける。


 空腹と疲労を訴える身体の声は一切無視。これで何事もなければ優人がバカを見るだけだが、それならそれで構わない。自己満足で済むなら何よりだ。


 ――しかし、どうやらただの胸騒ぎで終わることはなかったらしい。


 優人が二階へ続くアパートの階段を上り切った瞬間、やけに重そうに開いた最奥の部屋の玄関から現れた彼女の姿に、優人は今日何度目かのため息をついた。


「どこに行こうとしてんだ病人」

「……え、せ、先輩?」


 俯きがちなせいか、それとも周囲へ意識を割く余裕もないのか、近付いた優人が声をかけたことでようやく雛はこちらの存在に気付く。


 適当に羽織っただけのコートと、口元を隠すようにこれまた適当に巻いただけのマフラー。下半分が隠れても頬が赤らんでいるのは見て取れ、雛の反応もやはりどこか覚束なさを感じる。

 耳に心地良い澄んだ声が普段よりしわがれて聞こえるのも、決して優人の勘違いではないはずだ。


「なんだかやけにお疲れに見えますけど……」

「お前が言えた台詞かよ。風邪引いたんだってな」

「な、なんでそれを……っ」

「この雨だろ? 俺のクラスの三限が体育館でやることになって――って、んなことどうでもいいんだよ」


 理由なんて後でいくらでも説明できる。まずはそれよりも優先すべきことがあり、雛の手に一枚のメモ用紙が握られていることを見つけた優人は即座にそれを奪い取った。


「あっ……」

「これに書いてあるのが必要なもんだな? すぐ買ってくるから空森は部屋にいろ」

「で、でも、帰ってきたばかりの先輩にそんな……!」

「だからそういう台詞を言える状態じゃねえだろ。人を気遣いたきゃまず自分を気遣え。いいから大人しく寝てろ先輩命令だ」


 強引だろうと知ったことか。『命令』の部分を強調しながら目つきの悪さを活かして一睨みすれば、びくっと首をすくめた雛は「はい……」と言って大人しく部屋に戻った。


 ちょっと可哀想な気もしたが、こうでもしないと引き下がってくれなかっただろう。


「ったく、今日は走ってばっかだな……!」


 そんな愚痴を吐き捨て、優人は再び雨の中に駆け出した。

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