景義の、鎌倉屋敷はどこに? 1

◆ 若宮大路の西頬


 大庭景義の鎌倉屋敷の位置を特定するにあたって、第一の史料は、『吾妻鏡』の次の記事です。



「1201年

3月10日 庚申 卯の刻に地震。


 未の刻に 若宮大路の西頬 焼亡す。

 懐嶋ふところじまたいらごんかみの旧跡・土屋の次郎・和田左衛門の尉等が宅 以南、由井の人屋に至り、片時の間に数町災す」



 「懐嶋平権の守」というのが、景義のことです。


 ……この記事によって、まず、大庭景義の鎌倉屋敷は、「若宮大路の西側面」と、特定できます。




◆ ベアトの写真


 第二の史料は、幕末に来日した、写真家フェリーチェ・ベアトが、写真に残した但し書きです。



「和田舘址(其一)


 和田義盛の舘址は 鎌倉若宮大路 即ち 今の八幡前通の西側に在り、

 大石平左衛門氏の住宅のあたりは即ち其一部なり。

 此図は八幡前通の表より写せるもの」



「和田舘址(其二)


 鎌倉八幡前通りなる和田舘址を裏手より望めるもの。

  此図の左に見ゆるは大石平左衛門氏の裏門にして 和田義盛の墓 其中に在り」



 ……それぞれに、写真も現存しています。

 

 和田義盛宅が、鶴岡八幡宮・三の鳥居直近の、西側にあったことを記述しています。



◆ 従来の定説


このふたつの史料によって、次のような地図が描けます。



      鶴岡八幡宮

(西)    三の鳥居   (東)

        │

和田義盛宅   │

        │

土屋次郎宅   │

        │

大庭景義宅   │

        │


     (この間、約2キロ)


        │

        │

       一の鳥居

       由比郷



 鶴岡八幡宮直近の、三の鳥居から、若宮大路が南に延びています。

 大路西側の御家人屋敷は、「和田」が一番で、「土屋」「大庭」とつづいてゆきます。

 ……というのが、従来の定説です。




◆文章の違和感


 次は、僕が、この従来の定説を採用しなかった理由です。


第一史料;

「懐嶋平権の守の旧跡・土屋の次郎・和田左衛門の尉等が宅 以南、由井の人屋に至り、片時の間に数町災す」


 ……文章の流れから見ますと、景義宅⇒土屋宅⇒和田宅⇒南⇒由比、と並んでいるわけです。

 当然、文章の視点は、北から南へと、スムーズに移動しているはずです。


 ところが従来の定説でいきますと、大庭宅から和田宅へと南から北へあがっていって、いきなり、折り返して、南に視点が移り、由比郷へ飛ぶわけです。

 そこに、非常に大きな違和感があります。


(……文章を書く身からすると、この不自然さは、耐え難いものを感じます)



◆ 火事の規模


 従来の定説を採用しなかった理由、その2です。


 従来の定説……「三の鳥居の和田宅から、由比郷までの火事」と想定すると、若宮大路すべてを焼き尽くす、とんでもない大火事を想定しなければなりません。


 第一史料の記事や、前後の記事を見ても、そこまで大きな火事とは読み取れない。


 「数町 災す」とありますが、若宮大路は1.8~2キロほど、町数にして、十五六町といったところでしょう。「数町」という書き方は、短すぎる、簡潔すぎるように思えます。

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