第5話

 夕食を取り終える頃には、外は暗闇に沈み切っていた。


「帰ってきたぁ~!」


 寮にあるアルスの部屋に帰ってきてすぐ、ナツメは大きく背伸びをした。初めての学院でとても緊張したのだろう。顔色からも疲労が窺えた。


 対してアルスは普段通りで何も変わらず、今晩は何をするのかを逡巡する。


 と、ナツメが振り向いて声を掛けてきた。


「試練の対策って何をすればいいの?」


「それが、誰一人として知らないんだよ。試練の内容は口外禁止だって決まりがあるからね」


「どうやってそんな完璧な箝口令を敷いてるのよ……どうせ魔法でしょうけど」


 呆れた物言いのナツメにアルスは鼻を鳴らす。どこか魔法を馬鹿にしたような言い方が鼻についたのだ。


 とはいえ、下らない議論で時間を浪費するわけにもいかない。


 アルスは本棚から一冊の本を取り出すと、ナツメに手渡しした。


「なにこれ?」


「ナツメはこの世界の文字を読めないでしょ。それは子供が使う文字の学習帳で、今夜から僕がこの世界の文字を教えるから。ナツメは言葉を話せても文字は読めないみたいだったからね」


「異世界に来てまで勉強なの……まあいいわ。確かに文字は読めないと不便よね」


 てっきり嫌がられると思っていたので、ナツメの反応は予想外のありがたい反応だった。


 使い魔の契約をしているとはいえ、彼女が人間であることには変わりない。アルスはできるだけ彼女の意思を尊重するつもりでいた。


 ナツメは興味津々に本を開き、いくらかページをめくってみるが、やがてその表情が暗くなっていく。


「日本語と全然違う……」


「ニホンゴはどこの言葉なのか知らないけど、話すことが出来れば文字を覚えるのは簡単だよ。徹夜で勉強すれば数日で終わるさ」


「でも、教えるのは学院最底辺の生徒なのがなぁ……」


 どこか白けたようなナツメの言い分もわかる。だが、アルスも自分から成績を下げているわけではないのだ。


 ちょっと魔法が苦手なだけ、と心の中で言い訳をしておく。


「魔法が出来なくても、文字を読むのには関係ないんだよ。ほら、風呂や寝る準備を済ませたら勉強に取り掛かるよ」


「今夜からやるの⁉」


「当たり前だよ」


 驚き目を見開くナツメに、アルスは淡々と告げた。


 どんな物事でも早めに取り掛かるに越したことはない。まして文字が読めないなど、この世界では死活問題と言っても差し支えないほどだ。


 勉強が面倒に思えるナツメの気持ちもわかるが、使い魔としての立場にしている以上、自分も彼女の責任を負わねばならない。


 適当に椅子を二つ並べると、アルスは本を開いて片方に座る。


「僕はここで勉強して待ってるから、準備が済んだら声を掛けて」


「はーい」


 間延びした返事にやる気は感じられない。しかし彼女が嘘つきでないこともわかっているので、必要以上に尋ねることはしなかった。


 ナツメは気怠そうに歩くと浴室の陰に消えてしまった。


 何をするのかは知らないが、女の子であるナツメの姿を除くというような馬鹿な真似はしない。


 そう思っていたときだった。


「きゃぁぁぁ!」


「どうしたの⁉」


 浴室か上がる悲鳴。声の主は間違いなくナツメだ。


 アルスは記憶を頼りにして浴室の様子を思い出す。危険な実験道具や魔法物は置いていないはずだ。


 椅子を蹴って立ち上がり、アルスは浴室へと転がり込む。


「あっ……」


 目が合った。いや、目が合ってしまった。


 浴室のドアは閉まっておらず、ローブを脱いで下着姿になっているナツメと視線が交錯する。


 ナツメの身体からアルスは目が離せなかった。


 まるで鈍器に殴られたかのような打撲の跡。青い痣は場所を選ぶことなく全身に広がっている。


 未だ癒えないかさぶたがいくつもあり、彼女の白い肌に沢山の傷をつけていた。


「どうして……」


「ヘンタイ!」


 アルスが質問するよりも早く、ナツメは手元にあった置物を勢いよく不審者に投げつける。


 音速に迫る勢いで飛んだ置物はアルスの眉間に直撃した。


「どこかで見たような……」


 以前にも似た体験をしたような気がする。そんなことを思いながら、アルスの意識と記憶は闇へと消えていった。




「で、この文字はこうなって……」


「なるほど」


「そうそう。ナツメは覚えるのが早いね」


「私は真面目なんだから、覚えるのが早いのも当然よ。文字を覚えることぐらい苦にならないわ」


 風呂上がりの白いローブで胸を張ってナツメは答えた。黒い髪は水気を吸ってつややかに輝き、魔法火の光を反射している。


 大人の色気が漂っている気がして、アルスは恥ずかし気にナツメから目を逸らした。


 代わりにナツメが書いていた本のページを見やる。そこには蛇のような文字が書かれていた。


 一般人が読めるか怪しい文字ではあるものの、初めて学習したとは思えないほどの上達ぶりだ。


「今日はここまでにしよう。続きは明日にやっても余裕で終わると思うから、今日はもう寝ようか」


「わかったわ。でも、アルスが先に寝るならもう少し明かりを点けておいてくれる?」


「何かするの?」


「ちょっとね」


 ナツメは片目を瞑ってウインクをすると、どこから手に入れてきたのか、本と羽ペンをローブの下から取り出した。


 どうやら新品のようで、表紙には手書きの文字が書かれている。しかしアルスが読むことはできなかった。


「その文字は何て読むの?」


「日記。今日の出来事を記録するのに使うの」


 アルスの世界でいうところの、歴史を記録する記録石のような役割があるらしい。記録石は映像で記録するが、ナツメの世界では出来事を文字で記録する習慣があるようだった。


 おもむろに本を開いたナツメを見ていると、彼女は目を細めてアルスに視線を向ける。


「読まれると恥ずかしんだけど」


「僕には読めないから心配しないで。そもしかして、これがニホンゴって言語なの?」


「そうよ」


 ナツメはそう言うとペンを動かす手を止めた。おもむろに天井を見上げて何かを考えると、軽く手を叩いた。


「せっかくだし、アルスも日本語の勉強しない?」


「僕が⁉ でも、勉強は苦手だし、ナツメに迷惑をかけることになるかもしれないし……」


「召喚で散々迷惑を掛けられたんだから、その程度のことは気にしないわよ。それよりやるの、やらないの?」


 新しい言語、ましてや異世界の言語に興味を持たないものなど居るはずがない。しかしナツメの文字は複雑で、一見しただけでは意味すら読み取れない。


 悩んでしり込みしていたアルスだったが、少し顔を上げてみればナツメの瞳が輝いている。


「まあ、ちょっとだけなら……」


「なら早速やりましょ! さあ座って座って!」


「ちょっと待っ……寝る時間が……」


 ナツメは立ち上がろうとしたアルスの手を引いて強引に椅子に腰かけさせる。問答無用で逃がすつもりは無いようだった。


 明日も講義があるので睡眠時間が心配なのだが、言い出せるような雰囲気ではない。


 ナツメは本を手繰り寄せてアルスの傍へと寄せる。


「まず、日本語っていうのはひらがなが基本で……」


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