瑞鶴

 帝国最大の海軍工廠の一つである呉海軍工廠。そのドッグの一つに一隻の空母が係留してあった。全長257メートル、基準排水量25,000トン、242メートルの飛行甲板を備えた正規空母。


 近づけば視界を隅から隅まで装甲版で覆いつくす巨大な艦だ。その甲板上には数十の艦載機が並べられ、いつでも飛ばせるように整備されている。


「これが翔鶴型二番艦、瑞鶴だ」

「瑞鶴……これが、私」

「そうだ。この艦は君であり、君はこの艦である。この艦が君の体だとするのならば、今ここに立っている君はこの艦の脳なのだ。君のような存在のことを、我々は船魄(せんぱく)と呼んでいる」

「船魄……それも、私」

「そうだとも。記憶が大分戻ってきたようだな。よいことだ」


 岡本大佐は満足そうにうんうんと頷いた。


「目覚めてまだ1時間も経っていないが、君には可能な限り早く前線に出るよう、上からお達しが出ていてね。早速艦橋に向かおう」


 艦橋に上がる。艦橋にもそれ以外にも兵の姿は一切見えなかった。誰もいない割には広すぎる艦橋に瑞鶴と岡本大佐は立った。


「さて、感じるかな。この艦の存在を」

「ええ、とても。まるで手足が何十個も増えたみたい」

「そうか、いい調子だ。では早速艦を動かしてみよう。もう準備は整っている。さあ、本能に従って、前進だ」

「前進…………」


 瑞鶴は目を閉じ、意識を集中させる。船尾から船首まで、船底から艦橋まで、艦のあらゆる場所の感覚が流れ込んでくる。それを掌握し、自らの手で制御するのだ。


「動く……前に……!」


 その瞬間、ガタンと艦橋が揺れた。スクリューが回転を始め、瑞鶴は僅かながらドッグの外へと進み出したのだ。

「いいぞ、その調子だ。前へ、前へ進むんだ」

「前へ……前へ……」


 艦は加速していく。最初は安定しなかった姿勢もかなり安定し、まっすぐ前進できていた。


「はぁ……はぁ…………」


 だが瑞鶴は額からダラダラと汗を流し、荒い呼吸を繰り返していた。岡本大佐はやっとそのことに気付く。


「瑞鶴、もう止まっていい。止まるんだ」

「え、ええ……あっ……」


 瑞鶴は緊張の糸が切れたのか、立っていることすらままならず倒れ込んでしまう。岡本大佐はその体を支えつつ椅子に座らせた。


「ただ微速前進するだけ、なのに、私は……」


 瑞鶴は悔しそうに、しかし力なく拳を握りしめる。その手は小刻みに震えていた。


「十分だ。君はそもそも千人以上ですべき仕事をたった一人で成し遂げたんだ」

「でも、私は……この艦を……」

「焦らなくてもいい。誰だって最初はそうだ。一歩ずつ進めていこう」

「え、え…………」


 瑞鶴はそのまま意識を失ってしまった。


 ○


「瑞鶴? 瑞鶴! 起きたのですね!」

「お姉ちゃん……?」


 瑞鶴は気が付くとベッドに横たわっていた。その目の前には翔鶴が涙ぐみながら彼女をのぞき込んでいる。


「顔が近いよ、お姉ちゃん」

「あ、ごめんなさい。あなたがいつまでも目覚めないから……」

「ああ、そうか」


 すぐに思い出した。自分が簡単な操艦で疲れ果て、気を失ってしまったことを。


「私、何日寝てたの?」

「丸一日くらい、かしら」

「……大したことないじゃない。お姉ちゃんの態度は、もっと一週間とか寝たきりだった時のそれよ」

「一日も起きないなんて一大事です! もっと自分を労わって……お願いだから……」


 翔鶴は瑞鶴の手を握りしめる。その手は暖かかったが、瑞鶴の気持ちはまったく暖かくならなかった。


「私は、ただ艦を前に進めるだけでこの始末。とても戦えたものじゃないわ」

「あなたはずっと休んでいたのです。そのくらいどうってことはありませんよ。私だって、最初は50メートル進む度に気を失っていたんですから。自分と同じ名前の艦だっていうのに」

「ふふ、50メートルって」


 瑞鶴は初めて微笑んだ。


「あ、そこは深入りしないで! でも、ちゃんと笑えましたね」

「あっ……。ま、まあ、すぐに艦載機も飛ばせるようにするし?」

「そう、その意気ですよ。また一緒に戦える日を楽しみにしています」


 翔鶴は立ち上がる。


「行っちゃうの?」

「ええ。私は帝国海軍で唯一の現役の船魄ですから。また後で」

「え、ええ。また後で」


 翔鶴はそそくさと立ち去ってしまった。そして彼女と入れ替わりに、山積みの資料を抱えた岡本大佐が病室に入って来た。瑞鶴は見るからに機嫌が悪そうに応じた。


「岡本大佐……どうも」

「その感じだと、大分調子を取り戻したようだな。私は嬉しいよ」


 大佐は瑞鶴の隣の机に大量の紙束を置いた。


「ええ。丸一日も寝ればもう十分よ。その紙束は?」

「これは君に関して、正規空母瑞鶴に関して、私が集め得るあらゆる資料だ。人間だってつい最近まで人間の体の機構を全く知らなかったんだ。君はなおさらだろう。自分について知るといい」

「ありがとう。読んでおくわ」

「では、また後で会おう」


 岡本大佐はそれだけ言い残して去っていった。


「私についての資料ねぇ……」


 瑞鶴は紙っぺらの何枚かを適当に手に取った。


「建造費八千五百万円……それが私…………。進水は一九三九年。そうか、言われてみればまだ五歳なのか――」


 記されているのは空母瑞鶴についての基本的なデータの数々。更には帝国海軍の粋を集めた技術の数々が記載されていた。こんなもの、仮にアメリカに漏れたら一大事だろう。

 そして次の章には、瑞鶴の戦歴が事細かく書かれていた。


「真珠湾、ラバウル、珊瑚海……懐かしいな」


 他人が書いたものなのだが、まるで日記を読んでいるような感覚だった。だが一九四四年の記載に入った途端、瑞鶴は何か違和を感じた。


「マリアナ沖……帝国海軍の勝利に終わった……? でも、その時の記憶はあるし……うーん、分かんない」


 別に記憶と齟齬があるわけではない。ただ何かがおかしい。漠然とそう感じた。


「瑞鶴、訓練に行きましょう?」

「あ、お姉ちゃん。うん、行くわ」


 翔鶴に呼ばれるままに瑞鶴は病室を飛び出した。さっき覚えた違和感はいつの間にか忘れ去っていた。

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