第68話 エピローグ⑤
「僕に話って愛の告白ですか?」「コメディアンは他人のギャグを心の底から笑えないんだ。自分の仕事を奪われると思うからな」「あんなので
帰ることにした。日付をまたいでいたが無事終電に滑りこみセーフ優等生らしく朝になる前に帰宅できる。車窓から夜景を見ながら泡坂のことを想った。やっぱり泡坂にはピッチングの癖を教えてやるべきだったかもしれない。俺は真っ向勝負をして並の打者のようにアウトになるべきだったのかもしれない。あいつは俺のことを少しも憎もうとしていなかった。今村のことも想った。あいつは自分が望む覇権を手にし、それに満足してしまったんだろうか? 栄光に歪められ、慢心することを憶えてしまった。強敵を迎え撃つ準備を怠り結果敗れた。佐山にはなんの過失もない。いかにもステレオタイプな高校球児って奴だ。清く真面目で忍耐強く欲がない。どこにでもいそうでどこにもいない。俺は嫌いではない。あんな馬鹿正直な性格をした奴は、国中を探し回ってもそうそういないのではないか。風祭のことも考えた。あいつと俺は同じ主将でファーストで主軸打者。仮借が一切ない戦いだった。風祭は俺だ。同じプレッシャーをわかちあった、それだけで充分だ。置鮎のことは知らない。そして俺自身のプレーを振り返った。やっぱり打率10割なんてただの夢だ。ピッチャーが投げる前に野手が動いても俺は関知できない。野手が移動した先に俺が打球を打ちこんでしまえばアウトになるのだ。野球という競技において『戦場の霧』を排除できない以上、俺の連続安打記録なんてまぐれでしかないのだ。俺は完璧な存在ではない。そもそも勝ち負けなんてどうでもいい。自分の望むプレーができればそれで満足だ。野球はもう疲れた。
「窓から忍びこめば良かった?」「そっちのほうが迷惑だってわかる……連絡してくれたら良かったのに!」「フツーに?」夙夜は思い出した。「あのインタヴュー問題になってるよ」「どうでもいいことだね」「確かにどうでもいい」「夙夜、なんだか上機嫌?」「慎一の顔を見たから」顔を近づける夙夜。「おっふ。誰もいないの?」「そうじゃなきゃ追い返してた。家の鍵なくしたの?」「君の顔を見たくなってね」「今までどこほっつき歩いてたの?」「大体移動してたかな。焼き肉屋のあとは中原の家いって、ラーメン屋に行って、ファミレス行って、海を見に行って、あとはそれだけ」「私の家が最後? 目的は?」「こんな広い家に一人って淋しそう」「知らなかったのに? お父様は関西に旅行中、お母様は映画の撮影中」「一人娘は映画観賞中?」「今からそうするところ。なにしろずっとずーっと慎一の練習につきあってたからね。遅れを取り戻さないと」「なにに対して遅れているの?」「訂正。別にゆっくり消化してもいいけれど、見たいものがつぎつぎ見つかるもんだから。最近は海外ドラマも面白い。映画も何本か。積読も腰くらいの高さまで溜まってきたし」そう言って自分の腰に触れる夙夜。彼女は部屋着の長いパンツを着ていた。「それはともかくさ」「なに?」「こんばんは夙夜」「こんばんは慎一。わざわざ夜に押しかけてきたのはなにが目的?」「俺の目的は遊ぶことだよ。今日の対戦は手間がかかっていたし、戦うために条件をそろえないといけなかった。大会を勝ち上がることも、仲間を強くすることも」ゲームだなまるで。「あくまで自分が主人公なのね?」「そう。脇役に追いやられた頼りない主人公だった。成績を見ると打点も得点もゼロだからね」「私はすごいことだと思うけれど」夙夜は自分の部屋に俺を案内してくれた。広い部屋のソファーに腰かける。瓶入りのリンゴジュースをもってきた。乾杯して一気飲みする俺、彼女はあまり飲まない。「この期におよんでジュースとかお子様だな」「今日あったことを」「あんまり今日の反省はしたくない。勝手にしたよ。あいつらも思うところはあるみたい」「今日あったことをいつか本にしたいって言ったら怒る?」「記録に残す価値はあるわな」きっと傑作になるだろう。夙夜が書くなら間違いない。「ありがとう。……慎一怒ってるでしょ、さっきの電話」「別に高校生のうちに何者になったからってしょうがないよ。人間の価値が子供のうちに決まるって不自由な社会じゃない?」「私もそう思うけれど……釈然としない。私はただのオタクで、なにか成し遂げたあなたたちと違うの」「視野が狭いんだね夙夜。勝ったり負けたりがある世界なんて本質的に低級だよ。映画でも観る?」「私は」夙夜は一時停止した映画の映ったモニターを見ている。俺は夙夜の書庫を眼にした。彼女のコレクションがしまってある書架だ。とても高校生の所有物とは思えない量の書物がきれいに整頓して並べられてある。書架は彼女の勉強用の部屋と寝室の間に設置されてある。俺は書架から本をもってこようかと思ったが、夙夜は隣に座るようクッションを叩く。「ん?」「面白い映画だから、最初から見直しましょう。慎一と観たいドラマとか特撮とかたくさんストックがあるし」「朝まで?」「眠たくなったら叩き起こしてあげます」そのまま昼になるまで彼女の小さく、冷たい手に触れ続けた。俺の手が熱すぎて大きすぎるということもあるのだが。
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