2-4
私たちはまるで空き巣のように急いで荷物をまとめて彼の家を出た。
幸い、といっていいのかどうか、ディーンの持ちものはそれほど多くなく、ほとんどがきょうだいのおさがりだったから、彼は身ひとつ、ダッフルバッグひとつで出てきた。最後まで、修理中のピックアップトラックのことを気にしてはいたけれど。
雨に濡れたせいで立ったまま揺られることになったバスの中で、ディーンは携帯電話の電源を切った。そのときの彼の表情は――見なかった、と言ってやるべきなのだろう。
石造りのこぢんまりした教会と、さらに小さな、平屋建ての司祭館を目にして、彼はちょっとものめずらしそうな様子であちこちを見回した。
「なんかけむいっつーか、変なにおいがする」
司祭館の玄関に足を踏み入れるなり彼は言った。
「たぶんそれはお香と
すでに慣れっこになっていて、自分では気づかないものらしい。
「ああ、だからあんたからはいつもこのにおいがしてたわけか」
「そんなににおうのかい?」
べつのほかの誰かから、気になると指摘されたことはないのだけれど……。
「すんげえにおうよ」彼はにやりとした。
「五〇ヤード先からでもわかるぜ」
「この部屋を使うといいよ」
前任の司祭の部屋だった主寝室に案内すると彼は、
「俺がココ使っていいの? あんたの部屋のほうが狭くねえ?」
「妙なところで遠慮するんだね。構わないよ」
正直にいうと、整理しきれない思い出が多すぎて、この部屋には入りたくないのだ。
「掃除機の場所はあとで教えるから、掃除は自分ですること。洗濯物はカゴに入れておいてくれれば一緒に洗うけど……洗濯機の使いかたはわかる?」
「おふくろが死んでから、料理と掃除以外はほとんど俺がやってたから、大体のことはわかるよ」
「
ディーンは(遠慮なく)冷蔵庫と、その下の冷凍庫のドアを開けて中を見回し、できあいのものがなにもないのに気づいたのだろう。恨めしそうに、
「……俺、ろくに料理できねえんだけど。飢え死にしろってのかよ?」
「覚える気があるなら、簡単なものから教えるよ。夕食は私が作るから……。嫌いなものはないよね? あれだけなんでも食べるんだから」
「……セロリ」
「はあ」
「なんだよその顔! ガキのころから嫌いなんだよ、あのにおいが!」
のちにコリアンダーも苦手と判明したのだが――「なんか臭い虫でも噛んじまったみたいな味がする」と顔をしかめていた。
「なにこれ」
キッチンテーブルの上に置かれたふたつの物を見て彼は言った。
「この家――司祭館の合鍵だよ。教会のほうはいつでもあいているから、お祈りしたくなったら行くといい」
「俺はお祈りなんかしねえし、神サマってやつも信じてねえよ」彼は犬歯をむきだした。「もしあんたがそうさせようってんなら、こんなけったくそ
「お祈りは、もししたくなったらすればいいんで、強制しようなんていうつもりはないよ」
「じゃあなんだよこの十字架」
それはキリストの磔刑像が彫られた一.五インチほどの木製の十字架で、もとはロザリオの先につけられていたものだった。今はつや消しの黒い金属製のチェーンに通してある。
「それはまあ――カムフラージュみたいなものだよ。そのうち、教会へ来る信者の人たちにも君を紹介しなければならないだろうし、この近所に住んでいる人たちにはお年寄りも多いからね。君が多少罰当たりな言葉を吐いても、それで大目に見てくれるかもしれないし。私の恩師だった人の持っていたものだから、できれば
「……このチェーン、銀じゃねえよな?」
そう言いながら、彼はそのネックレスを首にかけた。
「これで、さしあたって必要なことは説明したけど、わからないことがあったらその都度聞くといい」
私の意識はすでに、明日以降――もしかしたら今夜にでも――始まるだろう、サリヴァン校長への説明や行政手続きのほうへ飛びつつあった。
彼はキッチンを出ていくところだったが、ふと足を止めてふりかえり、
「なあ、あんたのことなんて呼んだらいいんだ?
「クリスでいいよ」
「あ、そ。じゃ、いつまで世話になんのかわかんねーけど――よろしくな、クリス」
……このとき彼の見せた表情をなにに喩えることができるだろう。
主よ、あなたのいつくしみは天にまで及び、
あなたのまことは雲にまで及ぶ。
主よ、あなたは人と獣とを救われる。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
われらはあなたの光によって光を見る。
Fin.
神の慈悲なくば Episode:0 ~わが始めにわが終りあり~ 吉村杏 @a-yoshimura
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