第377話 護国卿の妻 ※主人公視点外

 ピデルロ伯爵様の奥様、クリスティン様を抱え上げて二階から飛び降りた私は、着地すると同時に小柄な彼女を放り投げました。

 拘束を解かれたクリスティン様は素早く立ち上がると私から距離を取るように後ろに跳躍します。

 部屋に飛び込んできた動きもそうですが、身の軽さは相当ですね。


「何を考えてますの!? 二階とはいえ窓から飛び降りるなんて!!」


「屋敷のドアを蹴破るようなはしたない方がよく言いますね。スカートで飛んだり跳ねたりしないほうがよろしいですよ?」


 そんなヒラヒラしたスカートで立ち回りを演じるなんて、私にはできません。

 レックス様にはしたない女なんて思われたら生きていけませんから。

 

「先ほどは緊急事態だから仕方ありませんわ。アラド様の危機には何を置いても駆けつける。それがわたくしの使命ですもの」


 子供らしいまっすぐな瞳でそう宣言するクリスティン様。

 思わず頷いてしまうくらい、とても共感できる言葉です。

 

「素晴らしいお考えですねクリスティン様。私も夫が危機に陥ることがあれば命を投げ打つ覚悟で駆けつけたいと思っています。まあ、今のところその可能性はありませんけど、ね」


 レックス・ヘッセリンクが危機に陥る。

 そんなことが起きたならば、それはもうこの世の終わりなのではないでしょうか。

 いえ、この世の終わりですらレックス様が危機に陥ることがあるのか甚だ疑問ではあります。


「自信家ですのね、楽園の方は」


 世界を覆う闇を前に皮肉げに笑うレックス様を想像してその素敵さに頬が緩んだ私を、険しい顔でクリスティン様が睨んでいます。

 いけない、敵地で笑うなんて不謹慎でしたね。


「ええ。私が唯一自信を持って言えるのが、愛する旦那様が世界で一番、狂ったようにお強いということですから」


「国で一番の間違いではなくって? 世界で一番お強いのは、バリューカの悪魔、アラド様ですもの」


「随分狭い世界で生きているのね。レックス様より強い生き物なんてこの世には存在しないというのに」


 自分の旦那様が世界一だと信じて疑わず、それを譲る気はさらさらない女が二人。

 屋敷から聞こえる激しい破砕音を聞きながらしばし険しい顔で睨み合い、やがて、同時に笑みを浮かべます。


「ふふっ、ふふふっ」


「あはっ、あははっ」


 しかしこの笑顔は、決してわかり合った結果の笑みではありません。

 この笑みの源泉は、憤怒。


「殺しますわ!」


「やれるものならやってみなさい!!」


 自らの旦那様があらゆる意味で世界一であるという、譲歩の余地のない思いを抱えた妻同士の衝突。

 小柄な体型に似合わない長剣を器用に取り回しながら、突き、払い、少しでも隙を見せれば大上段から斬り下ろしてくるなど、言動とは裏腹に冷静かつ鋭い太刀筋を見せてくれるクリスティン様。

 強い。

 剣の腕だけなら、我が家のフィルミーより上かもしれません。

 さらに、その身の軽さで私の拳や蹴りを紙一重のところで躱していきます。

 西の護国卿の奥様は、攻守ともに隙のない、完成された戦士でした。


「若いのに、なかなか、筋がよろしいですね! 素晴らしい、素晴らしいですクリスティン様!」


 そんな完成された戦士を前に、ついつい昂ってしまうのは、いけないことでしょうか。

 いえ、きっとレックス様は笑ってくださるはず。

 強者を前にして笑わずいつ笑うというのでしょうか。


「余裕とでも言いたげですわね? 今にその憎たらしい笑顔を消して差し上げます!」


「消せたらいいですわね、お嬢さん?」


 いくら強者とはいえ、子供に負けるほど弱くはありません。


「お嬢さんお嬢さんと煩いこと! わたくし、これでも二十六になりますのよ!」


 ……え?

 二十六?

 十六と聞き間違えたのではなく?

 ええ!?


「と、歳上!? 本当に!? そ、それは、失礼をいたしました。そうですか、どう見ても十代半ばですが」


 童顔にも程がありませんか?

 ユミカちゃんの少し上のお姉さんと言われてもギリギリ通用しそうなのですが。

 

「ちなみにアラド様は一つ歳下ですのよ? わたくしは歳上の妻、ということです」


 むんっと、胸を張るその仕草がもう子供のそれで、敵でなければ抱きしめてあげたくなる愛らしさです。


「それは素敵な響きですね! ではピデルロ伯爵様はクリスティン様にお甘えになるのかしら?」


「ふふっ、秘密ですわ」


 この可愛い人と戦わなければいけないなんて、ままならないものです。

 先ほどのピデルロ伯爵様のお言葉を聞いていると、オーレナングへの侵攻に両手をあげて賛成というわけではなさそうでした。

 であれば、わかりあう余地があるのではないでしょうか。


「ねえ、クリスティン様。もし大人しく投降してくださるなら、これ以上手荒な真似をしないことを約束します。いかがかしら?」


 その提案に、眉間の皺が深くなるクリスティン様。

 子供が不満を表明する時のそれです。


「自分が負けることなんて考えてもいないという風情ですわね? その自信はどこから来るのかしら」


「愛」


「愛?」


「旦那様への溢れる愛が、私に自信を与えているのです」


 神のご加護など私には不要です。

 この胸にあるレックス様への愛。

 それがあれば、私はどこまでも強くなれる。

 

「わかりました。貴女、相当な変わり者ですわね?」


「そうかもしれません。私ほど旦那様を愛している女は世界広しといえども存在しないでしょうから。それで、どういましますか? 投降しますか? それともこのまま私に殴り倒されますか?」


 そう尋ねたとき。

 先ほど私たちが飛び降りた部屋の壁を突き破り、ゴリ丸ちゃんが飛び出していきます。

 それを追うのは、なぜか上半身裸になったピデルロ伯爵様。

 さらに、ドラゾンちゃんの背に乗るレックス様がこちらに手を振りながら去っていきました。

 空を駆けるレックス様。

 なんて素敵なんでしょうか。


「アラド様がもうあの姿に……? なるほど、確かに貴女の旦那様はお強いようですわね。ならば、やはり速やかに貴女を打ち倒し、加勢に向かわせていただきますわ」


「できるものならやってごらんなさい。レックス・ヘッセリンクの妻は、貴女程度に討ち取られるほど安くはありません」

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