嫉妬


 春森穂乃子が知らない男子生徒と手を繋いでいるのを見た。

 

 学校で過ごす彼女を見るのは、今日が初めてだった。最初に出会った時も僕らは学校に居たが、彼女も僕も校舎には入らず、始業式早々、学校を無断で抜け出したからだ。

 

 今日は、本当は行くつもりが無かった。行きたいわけがなかった。担任から重要な話があるから絶対に行け、と海外在住の両親にまで電話越しに急かされ、今回ばかりは逃げ切れず、仕方なく登校を決意したのだ。朝の目覚めから最悪の気分だった。登校どころか、そもそも僕は外出にさえ慣れていない。ごく稀に、穂乃子が僕を無理やり外に連れ出そうとする機会があるが、今思えばあれが唯一のリハビリになっていたように思う。その甲斐あってか、校門までは何とか辿り着くことが出来た。しかし、一歩足を踏み入れてみれば見渡す限りの人間人間人間。それも皆同年代だ。自分とは真逆の明るい人生を送っているであろう、若々しさ溢れる生徒達。僕と彼らの間に、崖のように果てしなく深い溝が見える。自分は常に輪の外にいることを嫌でも自覚させられる。格の違いを見せつけられたような惨めな気持ちになり、突然ストレスや疲弊、絶望感が大波のように一気に押し寄せ、思わず頭を抱えて地面にしゃがみこんでしまいそうになった。

 

 そこから、どうやって職員室まで辿り着いたのかはあまり覚えていない。ひたすら床を見つめながら、足早に歩いていたように思う。既に憂鬱になりながら、引き戸を開ける。担任は僕の姿を見つけるなり、とても嬉しそうにした。わざとらしい。あからさまなその態度が、僕にはとても不愉快で、同時にプレッシャーを与えられたような気持ちになった。優しくされると余計に惨めになる。期待に応えられないからだ。担任はいそいそと机の引き出しを開け、重要そうな封筒を取り出し僕に手渡してきた。両親に預けてほしいと頼まれ、僕はハイと一言返事をしてそれを受け取る。自分でも驚く程の、か細い声が出た。普段人と話さないからか、いざという時、思うように喋れない。言葉が出ない。もしかしたら、小さ過ぎて聞こえていなかったかもしれない。急に死にたいほど自分が情けなくなって、気まずさを誤魔化すように、お辞儀をして僕は足早に去ろうとする。追いかけてきた担任は「少しだけでも授業に参加してみないか」と言ってきたけれど、断った。すると優しく背中をさすられ、強い嫌悪感を覚えた。大丈夫だとか、きっと仲良くなれるとか、皆気にしてないとか、そんな風なことも同時に言っていたような気がする。知ったような口を聞かれたことに腹が立ったし、何より気安く触れられたことが気持ち悪かった。今すぐにでも帰りたかった。引き攣った笑みを浮かべ担任の手を振りほどき、早々に職員室を飛び出した。ああ、目眩がする。そうだ。本当は用事を済ませたら、直ぐに帰る筈だった。だって僕は一学期以来一度も姿を現していない。クラスメイトに見られたら、何を言われるか分からない。からかわれるかもしれない。教師の目も怖い。生徒の視線も痛い。まるで僕は罪人の様な心持ちで、俯きながら廊下を突っ切った。

 

 その時だった。見慣れた長い黒髪が視界の端を掠めたのは。視線を上げた先には、春森穂乃子が居た。彼女は僕の存在には気づいておらず、友達らしき複数人の生徒達と楽しそうに談笑していた。一瞬見間違いかと思った。僕の部屋に訪れる彼女はいつも、柔らかそうな淡い色の服を着ている。見慣れない制服を身にまとった彼女はまるで別人のように思えた。穂乃子はとても楽しそうに笑っている。いつも僕に向けている笑顔が、見知らぬ人間達にも同じように向けられている。自分でも身勝手だとは思うが、悲しみよりも先に、彼女に対して微かな怒りを覚えた。そうだ。僕が知らないだけで、彼女は最初から崖の向こう側の人間だったんだ。そう気づいた瞬間、心の中にふっと暗い影が差したような気持ちになる。激しく裏切られたように思えた。分かっている。彼女はいつも平等で、僕はその大多数のうちの一人だった。ただそれだけの話だ。一体僕は何を期待していたというのだろう?彼女が僕の部屋に来てくれるから、笑いかけてくれるから、共感してくれるから、それがなんだというんだ。そもそも彼女は容姿端麗で、その上外交的で僕とは大違いだというのに。

 時折、彼女の目が陰る瞬間があるような気がしていた。誰にも踏み込ませない黒い領域が、僕にしか分からない聖域が存在しているように思っていた。それが僕を錯覚させたんだ。僕らはいつか分かり合えるかもしれないと。それら全てが自分一人の思い違いだったのではないかと思わされるほどに、窓の先にいる彼女は純粋な笑顔で笑っている。一時でも仲間意識を持ってしまった自分を強く恥じた。この間「人付き合い嫌いなのよね」だとか呟いていたのに。なんだ、ちゃんといるんじゃないか、友達。僕の前では話を上手く合わせていただけで、結局あの子も”外側の人間”なんだ。僕とは違った。何もかもが違った。最初から生きる世界が違った。そう気づいてしまった途端、息が苦しくなった。今すぐ逃げ出したかった。それなのに、僕は彼女から目を逸らせない。彼女が一人の男子生徒に手を引かれながら、その場を離れていくのを見てしまったからだ。

 

 独占欲か、好奇心か、自分の衝動が何なのか分からない。何故か僕は二人を追いかけてしまったのだ。一瞬、悪い予感が走った。今思えばここで引き返すべきだったのだろう。男と穂乃子は仲睦まじく談笑しながら、校舎裏に向かっていった。僕は二人の様子を柱の陰から盗み見る。その男子生徒は長身で、スタイルが良く、表情も明るく、リアクションも大きい。全体的に爽やかな雰囲気を纏っていた。誰からも好かれ慕われるようなタイプだろう。遠目から見てもはっきり分かるほど、陰気な僕とは真逆の要素を持つその男に、自分でも驚く程激しい嫌悪感と敵意を覚えた。距離が離れているため、会話の内容までは分からなかったが、聞かなくても何となく理解した。雰囲気で察してしまう程に、友達同士にしては二人の距離があまりにも近すぎる。よく見れば二人は手を繋いでいるし、穂乃子も抵抗していない。ああ、多分そういうことなんだろう。嫌な予感が当たってしまったこと、途中で引き返さなかったことに僕は深く後悔した。いや、寧ろ事実を知る事が出来てよかったのかもしれない。知らずに騙され続けるよりずっといい。男子生徒は何かをずっと喋り続けているが、彼女は僕から背を向けているため、表情や口の動きまでは見えなかった。けれど、もう見たくもなかった。これ以上何も知りたくなかった。胸の奥が黒くて重苦しい何かで満たされていくような感覚に陥る。頭がぐらぐらする。身体が重い。分かっていた。最初から、釣り合うだなんて思っていなかった。どうして僕が、彼女に選ばれているだなんて勘違いしていたんだろう。自分の惨めさを思い知らされ、泣きたくなる。真正面から向けられた好意も、あの時の優しさも、態度も、きっと何もかも嘘だ。あの子の思わせぶりだ。退屈しのぎに違いない。真に受けた自分が馬鹿だったんだ。他人と関わるとろくな目に遭わないことは、過去に嫌というほど思い知らされていた筈なのに、僕はまた間違えた。目眩がする。やっぱり学校になんて来るんじゃなかった。そもそも僕らは出会うべきじゃなかった。僕さえ生まれてこなければよかった。

 

 そこからどうやって家に帰ったのかは、よく思い出せない。気づいたら僕はいつも通り自室に籠っており、分厚い布団に包まっていた。ここが唯一の安全地帯だ。他に何も信じたくない。自分以外は誰も。そうして石のように布団の中でじっと固まったまま、二時間程経過したと思う。突然、暗い沈黙を破るように玄関のチャイムが高らかに鳴った。どうせ郵便だろう、と無視していると、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえた。僕ははっと起き上がる。この家の鍵を開けられるのは両親か、穂乃子だけだ。急いで毛布から這い出でると、丁度自室の扉が開かれた。

 「ごめんね、遅くなっちゃって」

 そこには息を切らして段ボール箱を抱える穂乃子が立っていた。

 「…なんで来たんですか」

 絶望感に包まれている僕とは対照的に、今日の彼女はやけに機嫌が良い。

 「なんでって、柳白君ってばひどいなあ。君が呼んだんじゃない、今日家に来てほしいって」

 まだ落ち着かない頭で必死に記憶を辿る。言われてみれば、確かに頼んだ気がする。荷物が届くから代わりに受け取ってほしい、と数日前話したのを思い出す。

 「ああ…はい」

 「髪ボサボサだし、完全に寝起きみたいだけど、また昼間まで寝てたの?」

 彼女がそう言って髪に触れようとするので、思わず咄嗟に避けてしまう。

 「何、どうかしたの」

 「………」

 穂乃子に触られるのを、初めて嫌だと思った。同じようなことを僕以外にもしているのだろうと思うと気が狂いそうだった。こんな戯れは単なる暇潰しでしかなく、多分、僕は弄ばれている。捨て駒のうちの一人に過ぎない。こんな惨めな思いはもう御免だ。

 「触らないでください」

 「どうして?」

 「僕から呼び出しておいてなんですが、もうここには来ないで下さい。こんなことは続けるべきじゃない」

 「いきなり何を言ってるの?柳白くん、何だか様子が変だよ」

 「おかしいのは貴女の方ですよ。よく平気で、そんな事が出来ますね」

 「もしかして、怒ってるの?柳白くん」

 「当たり前じゃないですか」

 「…何故だか分からない。理由を聞くまで納得できないよ」

 「少しは自分の行いを省みてはどうですか。とにかく、出て行って下さい」

 駄目だ、声が震える。怒りが滲む。てっきり、彼女はいつも通りとぼけて誤魔化すかと思っていた。が、意外にも穂乃子はこちらに向き直り、真っ直ぐに視線を合わせてきた。穂乃子の目は時折、とても怖く見える。窓から日光が差しているというのに、彼女の瞳の奥は暗闇が広がっているみたいに真っ黒だ。彼女はピクリとも笑わない。気押されそうになるが、ここで怯んではまた絆されてしまう。僕はじっと目を合わせて彼女からの返答を待った。

 

 すると、彼女はまるで耐えかねたように突然くすくすと笑い始めた。

 「なーんて。本当は理由なんて聞く必要ないんだよね」

 「…どういう意味ですか」

 「ね、柳白くん。見たんでしょう。私が先輩と話しているところを。だから取り乱して、いつもの平静を保てなくなってる。そうでしょ?」

 何故この人はいつもこちらを見透かしたような言動をするんだ。今日僕が学校に行く予定だった話は一度もしていないはずなのに。正体は探偵か何かなのか?或いはエスパーか?

 「……どうしてそう思うんです」

 「だって、全部わざとだもん」

 「…は?」

 「私ね、柳白くんが学校に来たことに早い段階で気づいていたんだよ。だから、わざと君に見えるような場所で色んな人とお話してみたんだ」

 「……」

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。最初の最初から気づかれていたなんて。いや、だけど、信用するにはまだ早い。彼女が咄嗟に考えついた言い訳かもしれないのだから。僕が怪訝そうに睨んでいると、彼女はにこりと微笑んだ。

 「あ、疑ってるの?いいよ、証拠が欲しいなら説明してあげる。柳白君、最初は職員室に居たでしょう。十四時頃だったかな。私、鍵を返しに来た時に柳白くんを見つけたんだよ。担任の先生と話した後、すぐに帰ろうとしたよね。なのに中庭で私を見つけて、様子が気になって帰るに帰れなくなった。追いかけてみたら私と先輩が話してる所を目撃して、ショックを受けて家まで猛ダッシュで帰った。違う?」

 何も違わない。それどころか腹が立つくらい当たっている。僕は彼女の背後をつけていた筈なのに、何故ここまで的確に言い当ててくるのか不思議で仕方ない。

 「……分かりました、信じます。信じますけど、その話が本当だとして、貴女のその行動には何の意味があるんですか」

 「柳白君、今、確かに怒ったよね。つまり、私が他の人と話してるのを見て、やきもちを妬いちゃったわけだ」

 「………」

 「それって、私に気があるってことの証明になっちゃうんじゃない?それとも、柳白君は好きでもない、単なる知り合いの女の子の行動さえいちいち縛ろうとするほど拗らせてしまってるのかな?」

 「……………」

 「今回もまんまと引っ掛かってくれたね。本当可愛いんだから」

 一度真っ白になった頭をどうにか整理する。ああ、多分、これはつまり、僕は彼女に嵌められたということだ。彼女の暇潰し、証拠集め、手の込んだ策略に。呆然としている僕を囲い込むように彼女は躙り寄る。

 「ねえ、こんなに証拠は揃ってるんだから。いい加減に隠さないで教えてよ。柳白くん、本当は、私のこと、」

 「うわああああああああ!!」

 耐えきれなくなって布団を投げつける。彼女は一瞬驚いたが、すぐに満足そうに声を上げてケラケラと笑い始めた。ああ、またやられた!学習しない僕も相当馬鹿だ。というか、一体この女は僕の何手先まで読んでいるのだろう。どうして何もかもを見透かされてしまうんだろう。

 「ふふ、そんなあからさまに拒否しなくてもいいのに」

 「……こういう振り回し方、金輪際やめてもらえませんか」

 「ああ、ごめんね。私が他の人と付き合ってるんじゃないかって心配になっちゃったんだよね?大丈夫よ、安心して。最初から私は柳白君しか見てないんだから」

 自分で取り乱させておいて、まるで僕が勝手に酷い目に遭ってきたみたいな言い分だ。こちらに言い返させる隙も与えず手馴れた手つきで優しく抱き締めてくる。…完全に誤魔化そうとしている流れだ。ふざけるな。僕は全然許してない。納得がいかないので腕を振り解きたいところだが、どこか内心ほっとしてしまっている自分がいる。…そんな自分に更に腹が立つ。

 困惑やら安心やらで感情がぐちゃぐちゃで、疑心暗鬼になりそうだ。なのに腕の中があたたかくて涙が出そうになる。そもそもこの女のせいで僕は情緒を引っ掻き回されたというのに。傷つけた張本人はこの女なのに。

 「ねえ、さっきの話の続きだけど、言い訳したいなら聞いてあげてもいいよ。私も急かそうとは思ってないからさ」

 「……言い訳を聞くべきは僕の方だと思うんですけどね。というか、流れで絆そうとするのやめてください」

 「あ~バレてたか。でも柳白くんの方にも反省すべきところはあると思うんだよね。だってあまりにも



未完です

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僕らは永久不変のあいが欲しい 七春そよよ @nanaharu_40

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