幕間 いちばん古い記憶

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 覚えているのは、暗闇。

 それが、祈の中にあるもっとも古い記憶だ。

 

 冷たいとか痛いとか……本来感じるはずの感覚がどんどん遠くなり、暗闇にゆっくり落ちていく――そんな不思議な感覚。

 そこから突然パーッと明るくなってそれから……気が付けば、祈は病院のベッドの上だった。


 ずっと心配していたのよと、顔をのぞき込んできた女の人に言われた。

 涙を溢れさせたその人の額には、何かがあった。


 ゴミや汚れではない。

 祈が目をこらすとそれは、ずずずっと動きやがて文字を形成した。


 ――生きていて良かった、と。


「本当に、良かった。生きててくれて、良かった!」


 涙を流し、祈の手を握る女の人。

 その顔に浮かんだ、薄い文字は消えてなくなっていた。

 次に病室に入ってきた年寄りの人たちも、顔に同じような文字を浮かべていた。


 ――なんてことだ。コイツがやったのか?

 ――どうして、この子がここにいるの!


 責めるような表情と相まって、祈は年寄りのふたりが自分を嫌っていると思った。

 そして、先ほど女の人に浮かんだ時よりくっきりハッキリ浮かび上がる文字。


「……無事で、よかった」


 ぐっと感情を抑えるように年寄りの男の人が自分に語りかける姿を見て、祈は察した。


 きっとこれは心の声だ。だって、このおじいさんは、言っていることと顔に浮かんでいる文字が違うから――。


 祈は、自分が不思議な目を手に入れたのだと思い、高揚した。

 人の心の声が分かるなんて、すごいと子どもらしくはしゃぎ――そして、ふと気付いた。


 一体、どうして病院のベッドの上にいるんだろう。

 そして、自分を囲む嘘つきのおじいさんとおばあさん、それから正直な女の人は誰だろうと。


「……誰?」


 祈は恐る恐る、自分を取り囲む大人たちに声をかけた。

 老人たちは目を見開くと黙り込み、女の人は「あっ」と声を上げると優しい笑顔を浮かべた。


「私は、祈の叔母さんだよ。祈のお母さんの妹なの」


 こらっとおじいさんが怒鳴った。

 怯えたのは祈だけで、女の人はニコニコしている。

 手を握ったまま「怖がらなくて大丈夫だよ」と優しい言葉をかけてくれる。


「やめなさい、珠緒。先生を呼ぶのが先でしょう……!」

「ナースコールを押せ!」

「大きな声を出さないでよ、ふたりとも。祈が怖がるでしょう。安心して、祈、お母さんはいなくなっても、私がそばにいるからね」

「珠緒!」


 また大声を出すおじいさん。

 女の人と自分の手を引き剥がそうとするおばあさん。


「痛っ」

「やめてよ、お母さん! 祈が痛がってるでしょ! 祈のこと、可愛くないの!?」

「おやめと言ってるの!」


 つめが食い込むほどの力で手を握られた祈は思わず悲鳴を上げたが、ふたりは言い争うばかりで気付かないのかそのままだ。


「ちょっと! 貴方達、病室でなにをしてるんですか!」


 騒がしさに気付いた看護師が中に入ってきて、止められてから、祈は自分の手から血が出ていることに気付いた。



 病室の外に出された大人たちと入れ替わり、看護師と医師が中にいる。

 色々と祈に話しかけ、あれこれと診察し、それから――手の傷にも気が付いた。


「それじゃあ、祈君。家族の名前は言えるかな?」 


 看護師が手当てしてくれるというので、その準備を見ていたら、不意に医師に聞かれ……考え込んだ。


「……かぞく?」


 頭が真っ白で、何も浮かばない。


 沈黙する祈を見て、医師はさっと表情を変えた。

 その顔に浮かぶ文字は「まずい」というもの。

 看護師に耳打ちした医師は祈に「待っててね」と声をかけ病室の外に出る。


 そして残った看護師は「じゃあ、手の傷を消毒するね」と笑顔を浮かべている。

 けれど、顔にはしっかり笑顔とはほど遠い文字が書いてあった。


 ――かわいそうに。


 祈には、なにが“かわいそう”なのか分からない。

 怪我が“かわいそう”って事だろうかと思って、たしかにちょっと痛かったと思う。


 そうしていると、先ほど追い出された大人たちが入ってくる。

 年寄りふたりは暗い顔、あるいは強ばった顔をしているのに対し、女の人だけはやっぱり笑顔だ。

 女の人は、すぐに駆け寄ってきて祈に目線を合わせる。


「大丈夫。お母さんがいなくても、私がいるから」

「おかあさん……?」

「うん。祈には、いなくなっちゃったけど、平気だよ。心配ない。記憶がなくても、新しい思い出がたくさん出来るから」


 おじいさんが「珠緒!」とまた大声で怒鳴って、看護師に注意されている。


「祈くん。きみはね、記憶喪失なんだ」


 医師に言われて、祈はぼんやりと彼の真っ白な白衣を見つめていた。


(おかあさん……おもいで……?)


 なんだろう、それは。

 引っかかるのに、いつまでも頭の中は白衣と同じ色のまま、どんな色も浮かんではこない。


 ――不思議な目と引き換えに、祈は九歳までの思い出を全て失っていた。


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