第11話  少女は明日に夢を見る

 長い夢を見ていた気がする。

 たくさん笑って、いっぱい怒って、弱音を溢れさせて、たっぷり泣いて。それから、自由に飛び回って、いろんなものを食べて、様々なものに触れて。

 とても幸せで、満ち足りた夢を見ていた。


 その夢での私は驚くほどわがままだった。やりたいことをすぐに口にして、やってる最中に閃いたことを衝動的に行って。一人ではやるのはつまらない、誰かと共有しながらやりたいという思いとともに実現した。

 彼はいつも困りながら、驚きながら、そして笑いながら一緒にいてくれた。


「絵空は本当に自由で、楽しそうに生きるなあ」


 自由に生きている。全部を楽しんでいる。彼は私を見て、羨ましそうにそう言った。そう見えていたのであれば、それはきっとあなたが優しすぎるから。私はその優しさに全体重をかける勢いで甘えていた。そう言ったら彼は絵空の体重なんて全部かけられても軽いものだと笑いそうだけど、さすがにそれは言えなかった。

 彼にとって私はどこまでも自由で、手が届くもの全てを楽しんで、全力で必死に生きている女の子だった。きっとそういう私だから隣に寄り添って、手を差し伸べ続けてくれたのだと思う。だから私は言えなかった。


 本当は限られた生活なんてすごく嫌だし、不満しかないんだよ。


 わがままなんて言えるわけがなかった。

 だってお父さんもお母さんも、叶えることのできないわがままを言うと申し訳なさそうに苦しそうに顔を歪めるんだもん。

 なんで私は普通の身体じゃないの、健康な身体に産んでくれなかったの。そう、思ったことがないわけじゃない。だけど、誰よりも罪悪感を抱いている両親にそんなこと言えるわけがない。二人が悪いわけじゃないってことも理解している、こんなのただの八つ当たりだ。

 だから、たくさん我慢した。両親からたくさんの愛情を注いでもらっているから、限られた時間だとしても家族で楽しい思い出が作れるならそれでいいんだって。

 欲しい物があったとしても、私の高い治療費とかのせいで既に家計を圧迫しているのを知っていたから黙っていた。いつ事切れるか分からない身体だし、買ってもらっても無駄になるかもしれなかったから。だけど、親というものはすごいんだよ。よそと比べて過保護なくらい見守られているのもあって何回に一回は欲しい物がばれちゃうの。その度にお父さんがサプライズで買ってきて、お母さんが寂しそうに笑って我慢しなくていいのよと言う。

 その度にもっと上手に隠さないとと思うけど、やっぱり嬉しいものは嬉しい。買ってくれたものを抱きしめて、私は幸せそうに笑う。

 そうやって愛情を感じながら、大事に育てられてきた。だから、未練はあっても、後悔が残るような生き方はしなかった。このまま長い夢を見たまま、終わりを迎えるのもいいかもしれないと受け入れることもできた。でも、自殺を選んだ彼は私が生を諦めることを許さなかった。

 酷い話だよ。残す側になるはずの私に残される側の気持ちを思い知らせるなんて。彼はあの夢の世界に一人で残ったのかな、私よりも寂しがりなのに大丈夫なのかな。

 ねえ、本当に酷いよ。私も、私だって。


「いっしょに、いきたかったよ」


 喉が痛い。息をする度に気管が刺激されて苦しい。発声すれば掠れた声しか出ないし、喉の痛みが増すばかり。

 身体が重たい。全身の痛みがあるというのもそうだけど、それ以上に腕や手指や胸やといろいろなところから管が伸びていて動きが制限されている。

 いったい、どういう状態なんだろう。きっと、点滴が留置されていて、心電図モニターが繋がっているんだと思う。じゃあ、喉の痛みは何が原因なんだろう。部屋が乾燥していて、そのうえ口で呼吸して寝ていたから? ううん、違う。痛みの外に異物感がある。じゃあ、自分で呼吸できない状態になって、挿管されていたんだろう。

 どうしてそういう状態になったのか分からない。発作が起きて、意識を失ったのかな。全然覚えていないや。ただ、分かることがひとつだけ。


「ちゃんと、いきてた」


 ゆっくりと瞼を開ける。見慣れた白い天井。照明が眩しくて目が痛い。きゅっと眉間に皺を寄せ、ピッピッと規則的な音を鳴らしているベッドサイドモニターを見る。心電図、血圧、脈拍数、酸素飽和濃度。全てが正常値だった。

 その数字を見ても実感できなかった私は点滴や血圧計が繋がった腕を動かし、両手を左胸に重ねる。とくん、とくんと心臓が規則的に鼓動を打っていることが伝わってくる。

 ああ、本当にちゃんと生きているんだ。長い夢を見ていたからもしかしてと思っていたけど、私はまだ生きているんだ。服の上から左胸を握り締める。目の奥が熱くなり、視界がぼやける。喉がからからと乾いて、嗚咽がこぼれた。


「おやすみなさい、いいゆめを……っ、みてね」


 名前も顔も思い出せない、確かに存在したきみへ。

 たくさんわがままを聞いてくれてありがとう。いっぱい甘やかしてくれてありがとう。私はきみに対しては我慢せずになんでもおねだりしたから、最後のわがままも聞いてください。

 おやすみは言うけど、ばいばいは言いたくないから言いません。だから、もし私がまた夢の世界に訪れることがあったら、そのときはお土産話を聞いてください。 


▷▶▷


 あれだけ私を苦しめていたむくみはすっかり引いていた。まだ足背に薄らと残っているけど、顔がむくんで外を出歩きたくなったときよりも、全身がむくんでお気に入りの服が着れなくなったときよりも、四肢がぱんぱんになって点滴留置に苦しんだときよりも、ずっとましになっていた。それがすっごく嬉しかった。

 代わりに、胸に消えない傷跡ができた。きっとこの傷を見る度に両親は顔を歪めるのだろう。女の子の身体に一生残る傷跡ができるのだから当然の反応かもしれない。でも、だからこそ、私はこの傷跡を見て背を丸めることをしたくない。この傷は苦しくて怖いことを乗り越えた証拠だから。


「そして、名前も顔も思い出せないきみに救われて、これからも生きられる証拠でもあるんだよね」


 朝起きて、くっきりと残る傷跡をひと撫でする。それから左胸の上に両手を置いて、とくりとくりと規則正しい鼓動を打つ心臓を感じる。

 意識を戻して、手術のことを聞いてからするようになった私の日課。きっと私はいつまでも出会うことのなかったその人に感謝をして、生を噛み締めながら前に進むことになるだろう。


「んーっ。にしても、自分で動けるって素晴らしいことだね」


 手術を終えて一ヶ月近く、私は集中治療室にいた。その間、とても大変だったらしい。意識はなかなか戻らない。術後の状態が安定していたと思いきや急変する。

 両親は生きた心地がしなかったみたいで、すっかりとやつれてしまっていた。付き合いの長い先生や看護師さんも心配してくれていたみたいで、時間さえあればお見舞いにきてくれていたらしい。

 というお話を聞いたのは意識が戻って数日経ってからのこと。それは申し訳ないことをしたなあ、元気になったら先生たちに挨拶しにいかないと。そう思いながら、いつもの小児科病棟ではなく心臓血管外科病棟で日々を過ごしていた。

 ちなみに、意識不明の寝たきり状態が長かったせいで起き上がることもままならず意気込んでいた挨拶にはなかなか行けなかった。なんなら先生たちの方から顔を出しに来てくれた。

 こうして長いリハビリ期間を経て、私の身体は随分回復した。点滴スタンドがなくても病棟を何周も歩くことができるし、リハビリの昇降運動だって息切れせずにできるようになった。大したことがないように見えるけど、私にとっては大進歩。最初のうちは傷が痛くて痛くてリハビリにすらならなかったから。リハビリ三十分前に痛み止めを飲んでようやく起き上がりから始めれたくらい。


「そんな生活も今日まで。ようやく退院できるーっ」

「こら、あまりはしゃがないの」

「だって退院だよ。待ちに待った退院だよ」

「そうね。この日をどれだけ待っていたことか」

「まあ、まだまだ受診は必要だけどね」


 心臓移植なんて大きな手術をしたのだから当然のこと。しかも、術後、意識回復が遅れている中急変していたんだし、要経過観察になるわけだし、多分まだしばらくの間は両親からの過保護は変わらないと思う。私、愛されてるなあ。


「じゃあ、ここら辺の物は今日持ち帰るわね」

「はぁい。あっ、そのぬいぐるみは置いて行って」

「大きなものを置いていくと明日が大変よ」

「でも、この子をぎゅーっとして寝ると良い夢が見られるんだもん」


 意識が戻らない間に誰かが置いていったお見舞いの品。大きなうさぎのぬいぐるみはお父さんもお母さんも心当たりがないと言った。間違いかとも思ったけど、拙い字で絵空への三文字が書かれたメッセージカードがついていて、私宛であることが確定した。

 とはいえ、差出人が分からないものは不気味だからとお父さんとお母さんはこのうさぎのぬいぐるみを処分しようとした。でも、私はどうしてもこの子が欲しくなった。懐かしいような切ないような、そんな気持ちで胸いっぱいになって、わがままを言った。

 こうして私の抱き枕となったうさぎのぬいぐるみを枕元に置いて、荷物の片付けを進める。

 長い入院生活の中で愛用していたタオルケットは擦り切れて薄く、くしゃくしゃに皺がついているし、お気に入りの前開きのパジャマはよく伸びるから点滴をしながらでもお着替えが楽だった。プラスチックのコップはお水を飲んでいる最中にむせて、床に何度落としたことか、もう随分と傷だらけだし絵も剥げている。日付や時間がひと目で分かるように大きく数字が表示されたデジタル時計はこれからも私のよきパートナーとなるでしょう。だってこれ、アラームの音がすごく大きいんだもん。

 ひとつひとつ、思い出のつまったものから消耗品までを眺め、いろいろなものにお世話になったなあとしんみりしながら鞄の中につめていく。そこで、お母さんがふと手を止める。


「ねえ、絵空。退院したらやりたいことある?」

「え、なぁに。急にどうしたの」

「貴方にはいろいろ我慢をさせてしまったでしょう。その分、できなかったことをさせてあげたいなって」

「そんなこと気にしなくてもいいのに。私は十分に甘やかされているよ」

「絵空」

「それに、まだしばらくは病院に通ったり、学校を休んだ分を取り戻さないと」

「絵空、お願いよ」


 突然言われた、これから先やりたいこと。

 今まで、お母さんの口から遠い未来の話をされたことがなかった。お父さんも同じ。そして、私も将来のことを語らないようにしていた。明日の話がせいぜい。だって、迎えることのない先の話をしていても辛いだけだったから。

 だから、お母さんからこれからのことを聞かれたとき、胸が熱くなった。じんわりと、そっか私もこれからに期待して生きていていいんだと泣きたくなった。


「やりたいこと、かあ」


 やりたいことなんて、いっぱいある。生きているだけで十分すぎることだと自分に言い聞かせていたけど、本当はいろいろやりたいことがあって、見つける度に諦めてきた。もう諦めなくていいというのはこれ以上にない幸せなことだ。

 だけど、突然言われるとすぐには出てこない。これまで諦めてきたことが一気に押し寄せてきて、渋滞を起こしちゃった。

 片付けを進める手を止めて、ベッドに座る。腕を組み、うーんと唸りながら考える。視界の端にうさぎのぬいぐるみが入ったとき、それが浮かんだ。


「浴衣、着たいなあ」


 ぽつりと呟いた言葉に心臓が跳ねる。どくどく、どくどく、速まる鼓動に胸がぎゅっと苦しくなった。けど、それは今までのように息苦しくて辛いものではない。

 お母さんは私のやりたいことを聞いて、目を丸める。それからぱちくりとまばたきをして首を傾げる。真っ先にでてくるものが浴衣だとは思っていなかったんだろうなあ。私も思っていなかったし。ほとんど無意識の発言だった。

 どうして浴衣が浮かんできたんだろう。指先で唇を撫でて、少し考える。どうして、その理由は出てこなかった。だけど、うん、しっくりきた。私、浴衣が着たい。

 不思議そうにしているお母さんと反対方向に首を傾げて、浴衣はダメ? そう聞けば、お母さんは首を横に振った。


「でも、夏も終わったし、お祭りはしばらくないわよ。それでもいいの?」

「うん。お祭りに行きたいのもあるけど、目的は浴衣を着ることだから」

「なら、いいわよ。落ち着いたら買いに行きましょう」

「やったあ」

「あ、お父さんに言う我儘も考えておきなさい。お母さんだけに我儘言ったなんて知ったらあの人拗ねちゃうから」

「はぁい」


 うさぎのぬいぐるみを抱きしめて、ベッドに横たわる。今から楽しみでわくわくが止まらない。足をじたばたさせながらお母さんにお礼を言えば、そんなに興奮しないのと注意された。

 そういうお母さんも顔がにやけてるよ。そう指摘すれば、あらという顔をして両手で頬を挟む。そして、ふふっと笑う。とっても嬉しそうで、そんなお母さんを見ているだけでじゅわあっと胸が温かくなる。ああ、今、とっても幸せだなあ。


「浴衣、浴衣ね。ふふ、とてもいいわね。娘に浴衣を着せて、髪の毛も飾り付けて、お化粧も少しして、とびきり可愛くするの。お母さんの胸も躍るわ」

「私も今からすっごく楽しみ」

「絵空にはどういうものが似合うかしらね。あっ、今から探してみましょう」

「もう、さすがにそれは気が早いよー。それにほら、片付けも進めないと」


 休憩は終わりにして、うさぎのぬいぐるみを手放す。

 手術からリハビリまで長期入院をしていたせいで荷物が本当に多い。暇つぶしに漫画とか小説とかたくさん持ってきてもらったからとにかくかさばる。今までは連載しているものは最終回を見届けられなくなるかもしれないからと手を出すのを避けて、完結済みのものだけを読んでいたのだけど、これからは流行りに乗って連載中のものも読めると思って調子に乗りすぎた。これはもう最終回を読むまで死ねないぞ! と、心から思ったくらい面白かったから後悔はしてないけど。

 漫画を鞄に詰め込みながら、どんな浴衣がいいかな、色は柄は。それに合わせた髪飾りは。そうだ、浴衣以外の服も買いましょう。お父さんも連れて、エソラコレクションを開こう。二人で笑いながら話を弾ませる。

 楽しいなあ。もっと早くしたかったと思う気持ちもあれば、今までの分を取り戻そうという気持ちで溢れてくる。


「ひまわり柄の白い浴衣がいいなあ」

「なあに、もしかしてもう目につけているものがあるの?」

「ううん、ないよ。でも、それがいい」


 窓から見える空はどこまでも広がっていて、爽やかな青さ。陽の光が透き通った白い雲が漂っている。あの空を飛ぶことができたらどれだけ気持ちの良いことだろう。

 目線を落とせば、病院の庭に花びらを広げた花々が並んでいる。赤、白、黄色、ピンクにオレンジ。あの花がクッキーになったらどんな味がするんだろう。

 私はもう、空を飛ぶこともなければお花でできたクッキーを食べることもない。

 不思議な夢を見ることも、きっともうない。だって──。


「ひまわり柄の可愛い浴衣を着て、お祭りで的当てするんだ」


 私はこの心臓と共に、これからを生きていくことになるのだから。

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花を食み、空を飛ぶ きこりぃぬ・こまき @kikorynu

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