第7話 線路はどこまでも続く

 新たなマップが開放されたことで活動範囲が広がった俺たちは連日遊びまわった。

 ゲーセンに入り浸ったり、片っ端からゲームをクリアしてみたり。絵空が憧れていたプリクラに挑戦してみようと思ったが、俺がプリクラをしたことないのでプリクラ機の中が暗黒で二人で絶叫してみたり。

 どうやら、俺にとって未知の世界は暗黒世界で表現されるらしい。病んでるのか? まあ、心が病んでいたから希死念慮に取り憑かれていたのかなんて一人で納得していた。

 思い出の味巡りをして親子丼やうどん、ラーメンにドーナツとあらゆる腹いっぱい食べてみたり。腹ごなしの散歩で猫の集会に参加して、日向ぼっこにお昼寝をしてみたり。起きたらオッドアイの白猫を代表に猫のおしくらまんじゅうに巻き込まれていた。

 そして、今日。


「電車、来るかなぁ」

「どうだろ。でも車が動かせたってことは電車も動くってことだと思うんだよね」

「でも、車は現くんが運転したから動いたんだよ。電車は誰が運転するの?」

「そこは考えていなかったな」

「一番大事なことじゃん!」

「ホラー的展開であるじゃん。運転手のいない電車とか、あんな感じで」

「現くんって怖がりなくせにそういう発想はするよね」


 電車に乗って遠出をすることにした。

 それを思いついたのは路上駐車をしている車は動くのかどうか実験をした先日のこと。助手席にキーが助手席に置いてある車を選び、試しにエンジンをかけてみた。すると、予想外にも想像通りに車は動いた。

 絵空を助手席に乗せて全速前進。アクセルを踏み抜いて広い道路を走り抜く快感は今も覚えている。その後、町の境目。正確には俺の知っている市の境で道が途切れていた。慌てて急ブレーキしたものだから俺はハンドルに顔面をぶつけてクラクションを盛大に鳴らしたし、絵空はシートベルトが身体に食い込んでぐえっと蛙が潰れたような声をあげていた。

 車から降りて確認してみたが、途切れた道の先は幼稚園児がクレヨンで描いたぐにゃぐにゃで不安定な場所だった。心が搔き乱されるような不快感に怯えた俺たちは逃げるようにその場を離れた。

 その際、途切れた道の先まで伸びる線路と、その上を走って見えない先に消えていく電車を見つけた。


「あの先はどこに繋がっているのかなあ」

「それを確かめるために電車に乗るんだろ」

「そうなんだけどね。こんなに待ってもこないとなると気になっちゃって」

「まあ、今日来なくても明日がある。しばらくはここで寝泊まりするためにいろいろもってきたわけだし」

「えへへ。ホームでキャンプなんてどきどきしちゃうね」


 ベンチに座っている絵空は黒色のワンピースから伸びる白い素足をぷらぷらと揺らしながら、うさぎのぬいぐるみを抱き締める。

 絵空の両腕の中が定位置となったゲーセンで取った大きなうさぎのぬいぐるみ。中学校で出会った人体模型たちのように動き始めるのも時間の問題かもしれないと思ったが、未だ動く気配はない。動くようになっても困るけど、そんなメルヘンな展開を期待している俺もいる。

 だって動くうさぎのぬいぐるみと戯れる絵空とか可愛いに決まっている。


「電車が来たとしたら、絵空はどこに行きたい?」

「ん-っと、トンネル!」

「うん、それは行き先とは言わないな」

「あと寝台列車!」

「それは種類だなあ」


 電車があればどこまでも行ける。そんな子ども心はとうの昔になくしたものだと思っていたけど、来るか来ないか分からない電車を待っているとその気持ちが蘇ってくる。

 絵空はどうだろうかとした質問に凛々しい顔で返ってきた回答が少しばかりずれていた。

 まさか、どこ行きたいかと聞いたらトンネルに行きたいと言われるとは思わなかった。でも、寝台列車に乗ってみたい気持ちは少し、いやかなり分かる。個室のある寝台列車で流れる景色を楽しみながら長旅をするのは憧れる。


「現くん、文句ばっかりー」

「文句というか、想定外の答えばかりで戸惑っているんだよ」

「じゃあ現くんはどこに行きたいの? はい、模範解答!」

「俺?」


 重ねた両手を差し出し、くださいなとねだられる。焦げ茶色の目が期待に満ちてきらきらと輝いている。これは期待に応えられるような模範解答をせねばと考える人のポーズをとって悩む。

 電車で遠出といえばどこに行っただろう。都会とも田舎とも言い切れない中途半端な町。駅に行くためにバスに乗らなければならなくて、そのバス停も地味に距離がある。だから車が手放せない。車を手に入れると電車に乗る機会が減るし、案外思いつかないものである。

 そういえば絵空は以前、自分が住む町を山の一部を切り開いて作られた田舎町だと言っていた。山、山と言ったら次は……。


「海とか?」

「うみ……うみってあの海は広いな大きいなの、海?」

「それ以外にないだろ」

「膿とか」

「長い入院生活に発想が毒されている!」

「さすがに冗談だよー」


 うさぎのぬいぐるみの手をぽふぽふと叩きながら笑う。その手の冗談を絵空が言うと、入院生活とか病気のこととかに触れてツッコミをいれて良いものなのか躊躇うからやめていただきたいものだ。

 以前、その躊躇いを察した絵空が頬を膨らませてそういう気遣いをされることが嫌で黙っていたのにとそっぽを向いたので、極力そうならないようにしているが……毎度口にした直後に少しの後悔と緊張が襲ってくる。こうして絵空が笑っているので、それこそ無用で過剰な心配となるのだが。

 今日もくるくると表情を変えながら海についての憧れを、夢を語る絵空をじっくりと眺めながら安心した。

 スイカ割りにビーチバレー、疲れてきたら浮き輪に乗って波に揺られて、夜には花火。スケジュールがみっちりつめこまれた絵空のやりたいこと。どれもこれも楽しそうだ。付け加えるとしたら、俺はシュノーケリングがやりたい。やったことないし、絵空がやるにはハードルが高そうだから口にはしないけど。

 行けるかどうかも分からないのにどんどん膨らんでいく海の話。それを温かい目をして聞いているつもりだったが、絵空は違ったらしい。相槌ばかり打っていないで、現くんもやりたいこと言ってよとでも言おうとしたのだろう。白い頬を小さく膨らませて、前のめりになる。そして、言いかけてからはっと何かに気がついたような声をあげ、絵空は両腕で自分の胸を隠すように肩を抱いた。そして、じとーとした目つきで俺を見る。


「もしかして、私の水着とかをいやらしい目で見るつもりとか」

「ワンピースのやつでぜひとも」

「種類で即答なんて気持ち悪いよ!」

「ピンク色の水着なら無邪気さが増してより一層の愛らしくなるし、濃紺色の水着とかだと白い肌が際立って太陽が眩しくなるな」

「待って待って! 更に具体的になって私の無邪気さよりも現くんの気持ち悪さが増してるよ!」


 海と言えば水着。俺ともあろうことがそんな初歩的なことを忘れるなんて一生の不覚!

 しかし、さすが俺と言うべきか、即座に絵空の水着姿を妄想してぺらぺらと口から滑り落ちる。これに対していつもなら笑い声と一緒に軽快に飛んでくる気持ち悪いという罵声が、今回ばかりは本気のものだった。

 さすがにフォローのしようがないくらい酷いことを言っているのは自覚している。だからといって俺の妄想が止まることはない。

 ふはは。俺を止めたきゃスクールカースト上位の化粧盛り盛り目力激強女子を連れてくるがいい!


「揺れる海面に漂う水着のフリル。照りつける太陽を反射させる白い肌。浮き輪を揺らされたら落ちまいと必死にしがみつき、ほっぺたを膨らませて怒る絵空か」

「ね、ねえ」

「泳げないから深いところは怖いと言ってしがみつく白い水着姿の絵空もいいな」

「泳げないなんて一言も言ってないよ!」

「え、泳げるの?」

「泳げないけど……」

「じゃあ、間違ってないな」

「本人を前にそういう妄想を口にすることが間違いなんだよ!」

「絵空の前じゃなきゃいいんだな」


 そういうことじゃない! 白い頬をぱんぱんに膨らませて怒る絵空に俺は高笑いをする。絵空は負けじと地団駄を踏み、しまいにはうさぎのぬいぐるみの手を使ってお腹にパンチをしてきた。

 そこは自分の手じゃないんだと聞けば、骨張った拳なんて痛いでしょと当たり前のように返される。なんて優しいのだろう。

 だが、その気遣いを無下にすることをあえて言わせていただこう。


「絵空の細腕パンチなんて可愛いものだろ」

「女子の爪は凶器なんだよ」

「平手打ちする気満々じゃん」

「ついでに、介護度の高いお年寄りの爪はそれを上回るからね」

「魔女の爪よりもか!」

「装飾された綺麗な爪よりもだよ!」


 そんなやりとりを繰り返しているうちに空は青からオレンジへ、オレンジから黒へと色を変えていく。今日も今日とて鮮やかで心洗われるような空だ。

 このまま空を鑑賞して時を過ごすのもいいけど、慣れないキャンプ準備を暗くなってからするなんて挑戦はしたくない。せっかくだから楽しみながらやりたいし。

 ということで、ベンチでのんびりと話の花を咲かせていた俺たちは各所から拝借してきたキャンプグッズを広げる。これはあくまでも拝借したのであり、窃盗ではない。使い終えたら綺麗に洗ってお返しするつもりだ。……消耗品については目を瞑っていただきたい。


「朝までに来なければホームでキャンプ、来たら海でキャンプになるねぇ」

「海に行く前提なんだな」

「もうね、すっかりと海の頭なの」

「都会に出てタピるって手もあるんだけどな」

「タピる?」

「タピオカの入っているもちもちジュースを飲むって意味だった気がする」

「えー。現くん、うろ覚えじゃーん」


 ワンタッチで展開するお手軽テントをホームに堂々広げる。ここが砂場とかならペグを打つなりなんなりとあれこれ作業工程を要する本格的なテントを選んだのだが、何せここはホーム。柔らかい地面なんてあるわけがない。

 テントの中を整えたら二人分の寝袋を敷く。保温性抜群のもこもこな寝袋。シュラフとかおしゃれな横文字の名前と共に提示されていたゼロの数は見なかったことにした。それだけあって、寝心地も良さそうだ。

 それからテレビやSNSなどで見かける機会が増えてきたキャンプ用調理器具を取り出す。今日のメニューは牛乳スープパスタにした。いつだったか作り方を見たときに簡単そうだし美味しそうだからいつかやってみたいなと思っていたが、生前に実行することはできず。まさかそれをこういう状況になってからやることになるとは思わなかった。

 ちなみに、食材から料理をするというのは俺と絵空、初めての試みなので味の保証はしない。この牛乳だってどんな味がするのやら。完成品の味を楽しみにするため、途中での味見はしない約束を絵空とした。ちょっとしたロシアンルーレットの気分だ。


「これ、良い子はマネしちゃいけませんってテロップを出さないといけないやつだよね」

「良い子どころか悪い子も、最低限の常識を持っていたらやっちゃいけないことは当然分かるよなって感じだけどな」

「それは煽りすぎだよー。最近はすぐ炎上するんだよ、発言には気を付けないと」

「時既に遅し。ホームでキャンプ飯を作って、寝袋敷いて寝ようとしてる時点で炎上確定だ」


 パチパチと弾ける火の音やぐつぐつと煮込む鍋の音に耳を傾けながら談笑をする。火の音も鍋の音も、絵空の笑い声も。全部気持ちが良い音だ。

 そして、ほんの少し肌寒い風と身を温めてくれる火。この寒暖差が癖になりそうだ。

 見上げれば星々がきらきらと輝いている。控えめな煌めきで強烈な自己主張、まるで絵空みたいだと思った。

 ほっと一息つける一時。ほくほくと湯気がたつ鍋を覗き込んだ絵空が焦げ茶色の目を星々に負けないくらいきらきらと輝かせる。

 そうだな、そろそろ食べ頃だろ。こくりと頷いてフォークを手渡す。受け皿を用意するのは面倒だったので直箸ならぬ直フォークで牛乳スープパスタをつつき始めた。


「んんー、おいしーっ。でも、なんというか……」

「牛乳が甘いな。蜂蜜を入れたホットミルクみたいだ」

「それにパスタももちもち通り越してもっちーんって感じ」

「細長くした餅みたいだ。伸びる伸びる」

「見てみて、みょんみょーん」

「こら、行儀悪いぞ」

「えへへ。面白くて、つい」


 牛乳によって作られたまろやかなスープは蜂蜜をたっぷり注いだホットミルク同然だった。

 これはこれで美味しいが、飯のつもりで作ったスープパスタがデザートだったとなるとなんだか物足りない気がする。味や腹持ちに満足する出来栄えにも関わらず、納得のいかない出来に頬張りながら唸り声をあげる。

 それを正直に言うと絵空になんて贅沢な悩みだとフォークの柄の部分で頬を突いてきた。食事中に唸り声をあげる俺もだけど、食べている最中にフォークで突いてくる絵空もまあまあ行儀が悪い。

 それを注意する大人はいなくて、俺たちはお互いにそれを指摘して腹を抱えて笑う。


「ふあー。あったまったあ!」

「満足感がハンパないな。これはすぐ寝れそうだ」

「歯磨きせずに寝ると虫歯になっちゃうよ」

「うわ、ここでも虫歯という悪魔が潜んでいるのか」

「じわじわと迫ってくるよー」


 それからも他愛もない話に花を咲かせる。

 今日はもう来ないかな、それならそろそろ寝袋に入るか。寝袋使って外で寝るなんて初めてだから緊張する。ホームに寝袋なんて硬くて寝れるものじゃないと思っていたけど、意外と柔らかいな。さすが、ゼロがいっぱいついているだけあるね。駅から眺める星空もなかなかいいものだな。次は星空スポットを探すのもいいね。

 寝袋に入ってからも会話は弾み続ける。どれくらい弾むかというと、スーパーボールくらい。

 役に立たない体内時計的には数時間くらい経った頃。遠くから光が差し込む。それはどんどん大きくなり、駅で停まった。


「……来たね」

「……来たな」


 俺たちの目の前で停車した電車。乗客を招くように、銀光りする扉はゆっくりと開く。  喉を鳴らし、俺たちは目を合わせて頷く。それを合図に、恐る恐る電車に乗る。俺たちの乗車を確認した電車は扉を閉め、ゆっくりと走り始め、次第に加速していく。

 倒れないように吊革を掴みながら車内を見渡す。揺れる白い吊革を吊るした銀色の棒。青いシートに包まれた硬い座席。そこら中に張り付けられている文字化けしたポスター。

 案の定、俺たち以外の乗客はいない。この様子だと乗務員もいないだろう。駅にもいなかったのだから当然か。


「ねえ、現くん。運転士さんってどんな人なのかな」

「ホラー的展開を述べるなら黒い靄みたいな、得体の知れないやつだよな」

「見に行ってみない?」

「無理、絶対嫌だ」

「みーたーいー!」

「いーやーだー」

「なんでなんで、気になるでしょ?」

「この世界、人体模型や人体骨格がラインダンスをし、マネキンが駆け回る世界だぞ。まじでシャレならない」


 転ばないように気をつけながら座席に近寄り、よいしょと座った絵空は好奇心で目を輝かせ、恐ろしいことを言い始める。

 触らぬ神に祟りなし。知らぬが仏。そんな言葉を絵空は知らないのだろうか。怖いもの知らずもほどほどにしてくれないといつか痛い目に遭いそうで心配だ。

 両腕で大きくバツを表して首を横に振る。一度断ったところで絵空が諦めないことは既に知っている。

 人体模型たちはなんだかんだ友好的であった。きっと、絵空の記憶に基づいて現れたものだから、愉快なものになったのだろう。しかし、この電車は絵空ではなく俺の記憶に基づいて現れたと考えるべきだ。つまり、必ずしも友好的な存在であるとは限らない。

 町の表現からして違ったのだ。絵空の記憶で補えない隣町はなんとなくの雰囲気でしか作られていなかったものに対して、俺の記憶で補えない隣町は道は途切れ、その先は幼稚園児がクレヨンで描いたぐにゃぐにゃなものだった。明らかに異常だった。その差はどこから生まれているのか、考えるまでもない。だから、今回ばかりは俺も譲れない。

 何度も同じやりとりを繰り返し、ようやく俺が折れないことを察して運転士を見に行くことを諦めてくれた。膨れっ面で足をばたつかせているあたり、全然納得していないようだ。


「ぶー」

「可愛い子豚になってもこればかりは譲らないからな」

「ぶーぶー!」

「ささっ。そんな得体の知れないものに心を奪われず、車窓からの眺めに目を奪われような」

「……はあい」


 しぶしぶと頷いて、絵空は流れていく景色に目を向ける。が、すぐに興味は流れていく景色に向いたようで、身体全体を窓に向け、手も額も窓にぴったりとくっつけて釘付けとなる。

 ときどき電車で見かける園児以上の食いつきだ。思わず腹を抱えて笑っていると、再び頬を膨らませた絵空に体当たりをされた。


▷▶▷


 ガタゴト、ガタゴト。一定の速度で走る電車に揺られることに慣れていない絵空が身体を傾けては俺の肩に頭をぶつけ、慌てて背筋を伸ばす。うとうとと瞼が落ちかけては目を擦り、とろんとした目を大きくしようとする。

 流れる景色を食い入るように見ていたのは最初だけ。トンネルに入ってしばらくしたら眠気がやってきたようで、ずっとこの調子だ。電車の照明も仄暗く、長々と揺らされていたら仕方がないか。


「トンネル、なかなか抜けないねぇ」

「真っ先に行きたいって言ってた場所なのにもう飽きたんだ」

「だってずっと真っ暗なんだもん。眠たくなってきちゃった」

「肩貸すけど」

「んーん。せっかくの電車なのに寝るのはもったいない」


 むにゃむにゃと寝言を言うように呟いて頭を横に振る。そして、額を肩に擦りつけてくる。まるで気紛れに甘えてきて額を足に擦りつけてくる野良猫のようで愛らしい。締め付けられる胸を押さえて咳払いをする。

 寝かしつけるように頭を撫でてみると絵空は口元を緩める。目を瞑ってしばらくの間、静かにしていた絵空。もったいないからと頑張っているようだったが、とうとう眠りについたらしい。そう思っていると、少しして絵空は再び口を開いた。


「プリオシン海岸でくるみの化石を拾い、牛の祖先の化石を発掘する大学士を見つける」

「ん?」

「鳥捕りに分けてもらった雉はお菓子にしか思えず」

「あー、なんだっけ。どこかで聞いたことある話だ」

「鷲の停車場で出会った青年と姉弟。姉とやけて死んださそりの火の話をする」

「さそりの話、共感も理解もできなかった」

「私は感動したよ。自分の死が誰かの役に立つかもしれないんだって思えたから」


 どこかで聞いた物語をぽつりぽつりと語り始める。教科書に載っていた童話作品だった気がする。出てきそうで出てこないタイトル。喉元でつっかえてすっきりしない。けど、話の内容、というより話を読んだ感想は思い出せる。

 さそりの言いたいことが何一つとして理解できない。生きるために命を食べることは当たり前で、命を守るために逃げることも当たり前で。その行いを死を目前にして悔いて、その上最後に自分の命を皆の幸いのために使ってくれと神に願うなんて図々しい。

 というのが、当時から少々捻くれていた俺の感想である。しかし、絵空は違ったらしい。それは生まれたときから希死念慮に囚われるまでの間は風邪しかひいたことのない、心身ともに健康体の俺では思いついたことのない感想だった。

 そういう考え方もあるかもしれないな。今までの俺ならそう返していた。けど、他でもない絵空が言うと受け入れられない。


「……役に立つ死なんてあるわけないし、あっちゃいけないだろ。悲しくて、辛いだけだ」

「そうかな。そうでもないんじゃないかな」

「そんなこと」

「あるんだよ。だって、私が生きるためには誰かの死が必要なんだもん」

「えっ」


 絵空の口からさらりと告げられた内容に言葉が喉元で渋滞を起こす。

 こういうとき、何と言えばいいのだろう。掘り下げるか、それとも話を逸らすか。どっちも悪手な気がする。掘り下げれば絵空のデリケートな話に触れることになる。とはいえ、話を逸らせば俺に気を遣わせてしまったと思うだろう。

 かける言葉に迷っていると絵空は弱々しく微笑み、身体を起こす。肩に乗せられた重みがなくなったことに寂しさを覚えながら、俺は絵空の次の言葉を待つ。


「この歳まで生きていることが奇跡みたいなものなんだよ」

「奇跡、か」

「死にたくない、もっと生きていたい。私がそれを願うということは誰かの死を望んでいるってことなの。私、最低だよね。すごく嫌になる」

「生きたいって思うことは当然のことだろ」


 どの口で言っているんだ。自分で自分を責めたい気持ちになる。だって、俺は死にたくてたまらなかったのだから。もう生きることを放棄したいと思い続けていたのだから。

 そして、うっかりなんて言葉を使ってコミカルに言ってみせたが、自殺したという現実は変わらない。

 俺は自分で自分を殺した殺人者だ。


「……死んだ後にもこんな気分になるとは思わなかったなあ」

「え、何。なんて言った?」

「さっきの童話、確か一緒に乗っていた友達は既に死んでいたんだよなって」

「あ、カムパネルラのこと?」

「そうそう、そんな名前のやつ。ようやく思い出せた、銀河鉄道の夜だよな」


 いつものように独り言として、口を滑らせてしまった。どこから口にしていたのだろうかと、全身の血の気が引いた。運良く、電車の音のおかげで絵空の耳には届かなかったことを確認し、心底安心する。

 よかった、聞こえていなくて。俺は考えていることがすぐに口に出る癖をそろそろ直すべきだ。絵空の可愛さについて熱く語る分には構わないが、いつかやらかしかねない。


「うん。電車に乗ったら思い出したの」

「最後に着くのはあの世だっけ」

「作中では天上って表現しているんだけど、まあそうだよね。そこで大半の人が降りて、降りなかったカムパネルラについてはいろんな解釈があるんだあ」

「そうなんだ」


 銀河鉄道の夜の話を皮切りに長い入院生活でいっぱい読んだという童話の話を始める。

 白雪姫やシンデレラなどプリンセスが出てくる童話からかちかち山やウサギとカメといった日本昔話まで。ちなみに、お気に入りの話はよだかの星。初めて聞くタイトルだ。

 現代文どころか国語そのものが嫌いな俺は当然読書も好んでしない。俺にとって読書といえば漫画くらいだ。これは小学生の頃から筋金入りなので、聞いたことのないタイトルも多かった。

 それを俺の表情から察してくれたのだろう。絵空はあらすじを説明してくれる。童話を話すことで気が紛れたのか、さっきまで浮かべていた穏やかなのに悲しそうな表情は姿を隠した。絵空をフォローする言葉が全く浮かばなかったのでいつも通りの笑顔が戻ってきたことに安心する。

 ほっと一息吐いたとき、トンネルの先から光が見えてくる。どうやら長く続いていたトンネルが終わるらしい。久し振りの光に俺たちは目を瞑る。そして。


「わ、わあ」

「…………」

「すごいすごい! 現くん、これ本当にすごいよ!」

「あ、ああ。この電車の行き先は海でなければ銀河でもないんだな」


 一面に広がるのはどこまでも澄み渡る青い空。あちらこちらにぷかぷかと浮かんでいる白い雲。いつもよりも近くにある太陽。トンネルに入るまで見えていた星空は影も形もなく青色に塗り潰されていた。

 電車の行き先は、空の上にある駅だった。


「…………これは」

「空だね」

「空だな」

「……空だよ!」


 驚きのあまり言葉を失い、呆然としていると絵空が黄色い悲鳴をあげて電車から飛び出した。おいおい、いくらなんでも危なすぎる。だって雲だぞ。降りた瞬間に落下することだってあり得るというのに! 絵空を引き留めようと大慌てで追いかける。そして、大丈夫だよと手を引っ張られ、俺も外に出ることになった。

 俺たちの降車を確認してから電車はラッパの発車メロディを鳴らして出発する。電車は空の更に上を目指して走り、消えていく。幸いなことに電車から降りてすぐに落下ということはなく、安心した俺は電車の退場を見送った後に周辺を観察する。

 地面の代わりに真っ白な雲。その上に設けられたプラットホーム。快速に飛ばされがちな田舎駅で見かける片側だけに線路が接している小さなもの。雲のように白い屋根から吊るされた駅名標には一文字も書かれておらず、真上と真下の矢印が描かれている。


「なにこれ、おとぎ話みたい!」

「本当に、もう、なんて言えばいいのか」

「この雲、ふわふわもこもこで気持ちいいねぇ」

「無人駅なのは今更驚かないけど、にしても本当に最低限の物しか置かれていないな」

「現くん、見てみて。うーもーれーるー」

「絵空、電車が走っていった先にさ……待て待て待て。それ、埋もれるというか沈んでないか」


 この駅名標は次の行き先を示しているのだろうか。それにしても、駅名標といえば前の駅から次の駅に向かって矢印が伸びているデザインをしているはずだから、上下どちらにも矢印が伸びているのは不思議だ。電車も上に向かって走っていったし、次の駅は更に上にあるんだろうけど。そう思って見上げれば、きらきらと虹色に反射する水晶の階段があった。

 絵空にこの階段を登ってみよう。そう提案しようと振り返ると絵空がプラットホームから降りて地面代わりの雲に沈んでいた。これ、雲の底まで沈んでいったらそのまま落下するのではないかと慌てて助ける。心臓が縮み上がる思いとはまさにこのこと。


「もう少し、もう少し慎重に動こう。な?」

「えへへ。興奮しちゃってつい」

「その気持ちは分からなくもないけどさ」

「現くんも触ってみてよ。飛び込みたくなるよ」

「飛び込んだのか」

「うん。大の字で」


 なんだそれ、気持ち良さそうなことしてるな。現くんも一緒にやろうよなんて言われたら、とても魅力的な提案にしか聞こえない。さすがに大の字で飛び込む勇気はないけど、好奇心を抑えることもできない。俺はプラットホームの端から手を伸ばして、恐る恐る地面の代わりの雲に触れてみる。

 ふわふわと柔らかな雲は体温で溶けてしまうわたあめのようだし、もふもふとした弾力は心地良く眠気を誘う布団のようでもある。これに大の字で飛び込めたら最高だろう。さっきの絵空を見る限り、この雲に身を委ねれば下へ下へと沈んでいくみたいだから、やっぱり行動に移せないけど。

 俺は下ではなく上に行きたい。美しい水晶で作られた階段を登り、その先へ向かいたい。どうしようもなく、空の更に上に心を惹かれる。


「上か下か、ということだよね」

「だと思う。電車は下から来て、上に行ったから」

「よし、下にしよう」

「えっ」

「下に行こうよ」


 俺が地面代わりの雲に触れている間、絵空の関心は駅名標に移っていた。手を腰にあてて、両足を開いて、華奢な身体で可愛らしい仁王立ち。そして真剣な顔を駅名標を見つめていた絵空は迷うことなく下へ向かうことを選ぶ。

 悩む間もなく即決する絵空に困惑していると、絵空は何でそこで戸惑うのかと問いかけるように首を傾げる。

 俺の方こそ聞きたい。なんでそこで下に行くことを選べるのか。だって上に行くには階段があるけど、下に行くためのものは何もない。それって、つまり。


「落ちる、ってことだよな」

「うん。なんとなく上は嫌な感じするからいっそのこと落ちよう」

「嫌な感じ? 俺は全然しないけど。むしろ」

「とにかく、上は絶対ダメ」


 絵空の言う嫌な感じというものを俺は一切感じられない。けど、いつでもどこでもなんでも心から感動して、笑顔で享受する絵空が虹色に反射する水晶の階段を見て感動するどころか嫌悪感を抱いた。本能的に感じる何かがあるのかもしれない。なら、素直にその提案を受け入れた方がいいのかもしれない。けど、でも、やっぱり俺は。

 二の足を踏んでいると絵空に手首を掴まれる。小さな手じゃ俺の手首を一周することができないんだな、可愛いな。俺、女の子から手を繋がれるなんて初めてだ。握られているのは手首だけどカウントしていいかな、いいよな。

 なんてことを鼻の下を伸ばして考えていると、絵空に引っ張られる。返事の催促かと思い、分かった絵空の言う通りにしようと頷こうとした。だが、そのときにはもう遅かった。


「え……どぅわああああああああああああああああああああああああ」

「きゃーーーーーーーーっ」


 空の上にいるという一生に一度、体験しないだろう状況に興奮した絵空が待ちきれるはずなかった。

 俺を引っ張ったのは返事の催促ではなく、駅から飛び降りるため。返事を待たずに行動するとは思っていなかった俺はあっさりと引っ張られ、二人揃ってぼふんと音をたてて雲の中へ落ちる。

 ふわふわと、もふもふと。雲が全身を包む。ああ、想像通り。天使に包み込まれているような心地良さ。このままずっと雲の中にいたい。

 そう思った途端に轟音が鼓膜を揺さぶる。そして強烈な風が全身に吹く。いや、風なんて可愛らしいものではない。塊、そう、俺は今、空気の塊に殴られている。


「きもちーねー」

「はああああ、むり、むりいいいいいい」

「目を開けたら分かるよ。さん、はいっ」

「うう、ひいいいいいいっ」


 ごうごうと凄まじい音をたてて殴りつけてくる空気の塊から身を守るように片腕を顔の前に伸ばす。なけなしの風除けをして、ゆっくりと目を開ける。そして吹きつける風の痛みにすぐ目を閉じた。

 そんな俺を見兼ねた絵空は手首を握る手を誤って放さないように気を付けながら移動させ、指を絡めるように手を繋ぐ。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。そして風除けをしている腕に手を伸ばし、同じように指を絡めてくる。両手を同じように繋いだ絵空を見るために再び目を開く。空気の塊に容赦なく殴りつけられるものだから、痛みが凄まじい。

 けれど、そんな痛みなんて気にならなくなるくらい、俺は釘付けになった。


「ねっ、とっても気持ちいいでしょう」


 眼前に広がるのは太陽に負けじと輝く向日葵のような笑顔。青空を背景に咲く大輪の花。

 眩しくて、愛らしくて、綺麗で、尊くて。

 目の奥が、喉の奥が、心の奥底が、焼けるように熱くて。


「抉ってくるよなあ」


 俺の声は絵空の耳に届く前に風に攫われる。代わりに絵空からあがる喜びに満ちた声。

 絵空の視線を辿ればそこには澄んだ青空とは異なる深い紺碧が広がっていた。

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