第6話 麦茶味のクッキー

 祭りの日以降、俺は考えていた。

 なぜあの祭りで絵空の知らないものが再現されていたのか。帰り道に確認したが、祭りの開催地である公園は規模から遊具の配置まで記憶の通りらしい。

 休日になると親子連れがボール遊びやバドミントンをする芝生広場。近所の小学生たちが集まりゲームをしている野外ステージ。 芝生広場を中心に伸びる散策路。あちらこちらに設置されているアスレチックや遊具。夏休みには涼しさを求めて人が集まりそうな噴水。

 これら全て、絵空の記憶と一致しているとのことだ。異なっていたのは屋台の内容や食べ物の味。

 ちなみに、絵空に一度は滑ってみたかったと誘われて一緒に滑った長いローラー滑り台は尻が痛くなった。


「そこで俺は一つの仮説に辿り着いた。絵空の記憶で構成されていたこの世界に俺の記憶が混ざり始めているのではないかと」


 思い返せば、その予兆はあった。

 中学校で行われた肝試し大会。その図書館での出来事。あのとき、俺は聞き覚えのある、かつての数学教師の声みたいだと思った。その後すぐに、どこの学校の数学教師もああいう感じなのだろうと深く考えることをしなかった。けど、そうではなくてあの図書館の出来事だけは俺の記憶から作られたものだと考えたら、かつての数学教師の声みたいではなく、かつての数学教師の声でお経のように読み上げていたことになる。

 それに、読み上げられた内容だって絵空の記憶より俺の記憶から取り上げられたものだと言われた方が納得できる。絵空は入退院を繰り返しているから学業の成績はお世辞にも良いとは言えないらしく、それに中学生にしては少々難しい、お受験するような私立中学校ならともかく、市立中学校では触れないであろう内容だった。

 振り返れば振り返るほど、あれは俺の記憶から作られたものではないかと思えてくる。もしもそうなら、今こそ練習の成果が現れるときだ!

 確信めいた予感を胸に抱いた俺は目が覚めて早々に絵空の家の近くにある公園へ足を運んだ。今日も早起きの絵空は俺よりも先に目を覚ましたようで、隣にはいなかった。きっと早朝の散歩に出ているのだろう。いつものことだがたまには絵空よりも早く起きて寝顔を眺めてみたいものだ。

 それはさておき。徒歩三分未満の場所にある公園に着いた俺は迷うことなく、ここ毎日見つめ合っているピンクの花の前に座り込む。

 絵空曰く、この花はツキミソウと言うらしい。本来は夕方頃からひっそりと咲く花だが、中には昼咲きのものもあるとか。俺にとっては見覚えはあるけどこれだったかは分からない雑草程度の認識だったのに、絵空といると見方が変わってくる。


「クッキー、クッキー……ピンクのクッキー……」


 風に揺れるツキミソウを両手の平で包み込む。そしてイメージする。

 甘くて美味しいクッキー。その程度のイメージではどれだけ強く念じても再現できないことを知っている。だからもっと具体的に想像を膨らませる。

 花びらのように薄く、少し硬めの生地。こんな薄っぺらいクッキー、腹持ち悪そうだと思う。けど、見映えがよくてSNSでバズってるやつ。数が少ないくせにやたら高くてオシャレな箱につめこまれているような。高いだけあって味もいい。薄い分、クッキーの甘さを凝縮させているような。硬めだから歯応えもよく、噛めばサクサクというよりポリポリという音が鳴る。舌触りはどうだろう。スーパーで売ってる安いクッキーと違ってざらついてはいなさそうだ。


「あ、だめだ。想像してたら口の中の水分がなくなってきた」


 自分の知っているクッキーに理想のイメージを重ねる。そして何も入っていない口をもぐもぐと動かしながら食感を想像する。さくさく。ぽろぽろ。そんなことをしているとだんだん口の中に唾が溜まってくる。ごっくんと飲み込んではもぐもぐと頭の中で描いているクッキーを味わう。

 そんなことをしているとだんだん口の中を潤す唾が減ってくる。クッキーって美味しいけど、口の中の水分を根こそぎ奪っていくのあるよな。冷えた麦茶をぐいっと飲んで喉を潤したい。ごっくんと飲み込めばカッと全身に染み渡るあの快感、たまらない。


「今ならあのひょうたんに麦茶を注ぐことができる気がする。今度やってみるか」


 しかし、今優先すべきものはクッキーだ。途中で他の事を考えてしまったけど、今までで一番の好感触だ。これはいけるのではなかろうか。恐る恐る両手を離す。そしてガッツポーズをし、喜びの声をあげた。

 公園に俺の声が響き渡る。これを聞いて絵空が飛んで来かねないので急いで花を摘み、スーパーから拝借したハンカチに包む。断じて盗んだわけではない。クッキーが完成したときのために拝借したのだ。後で返すつもりだ。

 クッキーを丁寧に包んだハンカチを眺め、どこに入れるかを考える。財布や携帯のように尻ポケットに入れたいところだが、座ったときに割ってしまいそうだ。というか、ジーパンのポケットにクッキーを入れることが間違っているのか。悩んだ末、パーカーのポケットにいれることにした。


「げげげげ、現くん!」

「うおっ、あぶねえ! どうしたどうした。いつも元気だけど、その四割増しじゃん」

「大変大変、たいへんなの!」

「絵空、とりあえずどいてほしいでで、まじ、いてぇ!」


 クッキーを包んだハンカチをパーカーのポケットに入れたと同時に、小さな衝撃が背中を襲う。不意打ちに耐えることできず、地面に向かって倒れそうになった。このままだとパーカーのポケットに忍ばせたクッキーが割れてしまう。それだけはなんとか阻止せねば! と、寸前のところで両手を身体の前に出す。俺の反射神経もまだまだ捨てたものじゃないと自画自賛した瞬間である。

 二人分の体重を支える俺の腕。ぷるぷると震えるが崩れることなく支えてくれる。意外と優秀だ。絵空が軽いから成せた技とも言う。……手のひらに刺さった小石のせいで我慢の限界も近いけど。

 とりあえず絵空にどいてもらおうと声をかけると冷めない興奮の勢いに手加減なしで背中を叩かれる。めちゃくちゃ痛い。絵空に何度か叩かれているけど今までで一番痛いぞ、これ。この衝撃をとどめに倒れそうだ。

 限界を察した俺はゆっくりと肘を折り、右側のポケットにいれたハンカチを潰さないように左側へ傾く。それから仰向けになり、絵空を腹の上に乗せる。うん、絶景かな。


「で、どうしたんだ」

「にゃんこ!」

「え」

「にゃんこ! つまり猫!」

「うん、それは分かるんだけど」

「いるの! にゃんこが集会をしているの!」


 にゃんこが集会をしているの。

 絵空の言葉を一言一句違わず繰り返す。それがどうしたというのだと首を傾げる。俺の疑問に構わず、興奮の冷めない絵空は両手をぶんぶん振りながらすごく可愛い猫とか、いっぱいいたのとか伝えたい感想をとにかく口にする。

 感想は分かったけど、何が起きたのかはいまいち分からないので一度落ち着いてほしい。本当は大々的にサプライズをするつもりだったのだが、仕方がない。俺の声が耳に入らないほど大興奮した絵空を落ち着かせるにはこれしかないと、ハンカチに包んでいたクッキーの花びらを一枚割って、絵空の口に放り込むことにした。


「んむっ」

「よーく味わえ。これがクッキーだ」

「え、なんでクッキー? というかサクッポリッて感じでおいしい!」

「だろだろー」

「それにそれに」

「うん」

「ほんのり麦茶の味がする。面白いね!」

「え、まじか」


 紅潮した頬のまま、晴れやかな笑顔を浮かべた絵空は想像していなかった感想を述べ た。そんなまさかとさっきと同じように花びらを一枚割って口の中に入れる。

 ポリポリとした歯応えはイメージ通りで理想的。噛み砕けばほんのりと広がる甘みと麦茶の風味。しまった。途中できんっきんに冷えた麦茶が飲みたいと思ったから味に影響したんだ。

 抹茶味ならぬ麦茶味のクッキー。そんなものあまり聞いたことないけど、これはこれで意外といけるんじゃないか。喜ぶ絵空を見てそう思うことにした。美味しければ何味でもよかろうなのだ。


「これ、どうしたの?」

「絵空がひょうたんにオレンジジュースを入れたときと同じことしたんだよ」

「すっごーい。現くんにもできたんだ!」

「できるように練習したんだよ」

「最近、変顔してお花を見ていたのは練習中だったんだ」

「変顔してたつもりはないんだけどな」

「こーんな顔してたよ」


 眉間に皺を寄せ、唇を尖らせる。それから小さく頬を膨らませ、めいいっぱい顔を力ませた。絵空がやればこれもまた可愛らしい顔となるのだが、俺がやれば確かに変顔だ。というか、最早不審者だ。

 納得すれば絵空は現くんの真似、似てるでしょなんて言ってきゃっきゃと笑う。どうや猫の集会を見つけたという興奮は落ち着いてきたらしい。

 ひとしきり笑った後、絵空は俺の上からどいて、近くに咲いているオレンジ色の花を指差す。そして、これまた可愛らしいおねだりを口にした。


「これでジャムがのったクッキー食べたいなあ」

「ハードルが高いなあ」

「……だめ?」

「いや、頑張ってみる」

「やったあ!」


 可愛い女の子がこてんと小さく首を傾げ、おねだりをしたら、断れる男がいるだろうか。しかも上目遣いだ! 世の中にはいるのかもしれないが、当然俺は断れない。

 身体を起こし、絵空が指差すオレンジ色の花の前にしゃがみこむ。すかさず俺の隣に座った絵空は焦げ茶色の目をきらきらと輝かせている。この笑顔を守りたい。何がなんでも期待に応えねばならない。

 和紙をくしゃくしゃに丸めてから伸ばしたような花びら。丸みを帯びた花だからこの中心にたっぷりとオレンジのジャムを注ごう。ツキミソウにしたときと同じように両手で覆ってジャムクッキーのイメージを始める。


「このお花はね、ポピーって言うんだよ」

「公園でよく見かけるやつだよな」

「うん。ポピーにはたっくさんの種類があって、ポピーにそっくりで違うお花もいて。とーっても個性豊かなお花なんだあ」

「人それぞれ、花それぞれってやつだな」


 まるで人のような例え方に笑ってしまう。

 人と違って、花はどんな個性でも綺麗だとか可愛いだとか言われて愛でられることだろう。人の場合、個性的とは時には褒め言葉になることもあるが基本的にオブラートに包んだ悪口として使われる。

 花はいいな。生まれ変わったら花になりたい。一生は短そうだけど、自殺を図った俺が一生の長さを語るべきではないか。

 花の個性について考えながらジャムクッキーを具体的にイメージしていく。

 ジャムがこってりしている分、クッキーは甘さ控えめの方がいい。しっとりしていて、口の中にいれたらほろほろと崩れる柔らかい生地。花もだけど、クッキーも種類によって甘さや食感が異なってなかなか個性的だと思う。


「っしゃあ!」

「すごいすごい! 現くん、天才だよ!」

「おいおい。天才なんて安易な言葉で片付けず、努力の賜物と言ってくれ」

「じゃあ努力家さんだ! 」


 雄叫びをあげて二度目のガッツポーズをする。大きな拍手をして盛大に祝ってくれる絵空にドヤ顔をするが、絵空の視線は全力で喜ぶ俺に三割、できたてほやほやのジャムクッキーに七割といった感じだ。心なしか涎が垂れているように見えるぞ。

 そうだよな、食べたかったものが目の前にあれば俺よりもクッキーに目がいくよな。ここで焦らすのは意地悪というもの。

 俺のことは気にせずどうぞとジャムクッキーを勧めれば、絵空は黄色い悲鳴をあげて両手を合わせる。食前の挨拶を済ませるなり茎の上で咲き続けるジャムクッキーを摘まみ、口の中に入れる。

 ゆっくりと、ジャムクッキーを味わうように咀嚼する。そして、んまーっと感動の声をあげる。ほんのりと赤らんだ頬に両手を添え、浮かべられたにこにこ笑顔。とても可愛らしくて心をくすぐられる。


「ところで絵空。さっきまで興奮しながら猫がどうのこうの言ってたじゃん」

「……あー! そう、そうだよ、にゃんこだよ!」

「猫がそんなに珍しいのか?」

「猫が珍しいというか、最初に言ったでしょう。夢の世界には何度も来ているけど、自分以外で初めて人を見たって。人どころか動物だっていなかったよ」

「そういえば祭りでも玩具の金魚や亀だったもんな」

「現くんがいたことも衝撃的だったのに、あったかい生きてるにゃんこがいるなんて!」

「そう言われると確かに」


 ジャムクッキーに夢中になっていた絵空は大きな声をあげて立ち上がる。ぴょんぴょんと飛び跳ねたり、ぱたぱた足踏みをしたり、再び落ち着きなく動き始める。いくら見ていても飽きない絵空の姿を眺めながら、手を顎に当てて考える。

 空に一羽の鳥も飛んでいないし、犬小屋のある家に犬がいるところを見たことがない。確かに、絵空が言った通りだ。夢の世界に訪れてからというもの自分と絵空以外の生き物を見たことがない。……俺を生き物とカウントしていいかは分からないけど。

 話を聞いている限り、絵空が夢の世界に訪れるようになってから随分と経つ。そんな彼女が一度も見たことがないというのに、どうして今更。


「とにかくこっち来て!」

「分かった、分かったからちょっと落ち着いて」

「落ち着けるわけないじゃん。はやく、はーやーく!」

「うおっ」


 考え事をしながらゆっくりと動く俺をじれったく思った絵空はもう待ちきれない! と言って俺の手を掴む。そして目的地まで一直線に走り始める。

 そういえば、いつもは景色を楽しむようにゆっくりと歩いているから絵空と走るのは初めてだな。絵空って走るんだなあ。

 そんなことを暢気に考えられていたのは走り始めただけ。ビュンビュンと風を切る音が鼓膜を震わし、見慣れてきた景色があっという間に流れていく。走ったことなんてなさそうな絵空の足がこんなに速いなんて思っていなかった。これも夢の世界だからこそできる技なのだろうか。


「ここだよ、ここ!」

「うわ。まじで猫だらけ」

「そうなの。マネキンでもおもちゃでもない、本物のにゃんこなんだよ! 」

「ひい、ふう、みい……多いなあ」

「しかもね、すごぉく人懐っこいの」


 急ブレーキをかけるようにぴたっと止まる絵空。勢いを殺しきれなかった俺はつまずきかける。クロールを泳ぐように両腕をばたつかせてバランスをとることでなんとか耐える。格好悪いところを見せずに済んだ。

 転倒を必死に耐えた俺に対して、絵空は遊んでないで、あそこ見てよ。なんて、頬を膨らませ、ぷんすかしながら指を差す。猫よりも可愛いと声をあげて拍手をしたい。その思いはいつも通り口に出ていたようで、きらきらと輝いていた絵空は目が据わる。これはいけないと咳払いを一つ。絵空が指差した方に目を向ける。

 暑すぎず、涼しすぎず。ぽかぽかとした日向が心地良い砂利の駐車場。敷かれているものが砂利ではなく芝生であればこれ以上適している場所なんてないだろうと断言できる昼寝スポットだ。そこで十匹は超えるだろう猫たちは各々好きな場所で昼寝をしたり、座り込んでぼんやりと一点を見つめている。

 まったりとした猫の集会の中に絵空は無遠慮に踏み込む。絵空の言う通り、人に慣れているようで、猫たちは人間の来訪に動じない。唯一反応したのは白い車のボンネットの上で同化するように身を丸めて昼寝をしていた白猫だった。体を伸ばし、小さな牙をチラつかせながら大きなあくびをするその白猫は話しかけてくる絵空の肩に飛び乗る。それに驚いた絵空はわわっと声をあげて数歩後退するも尻もちをつくことはなく、飛び乗ってきた白猫に頬を寄せながら向日葵のような笑顔を浮かべる。

 眼福、眼福。ほっこりした気持ちで胸を温めながら周囲を見渡す。そこでふと、俺は引っかかりを覚える。来た道は絵空が通う中学校から続く細い道。中学校周辺は絵空と何度か散策した。けど、この駐車場には一度も来たことがない。


「…………絵空」

「なあに?」

「この道の先にこんな場所あったっけ」

「ううん、なかったよ。朝のお散歩してたら初めて見る道があって、探検してたらこの子に出会ったの」

「その猫」

「可愛いよねぇ。オッドアイのにゃんこなんて初めて見たし、にゃんこに触ることも初めてだから幸せ」


 肩に乗った猫を両腕に抱き、俺に見せてくれる。

 前足が泥で汚れ、茶色の靴下を履いているような白猫。絵空に顎の下を撫でられて気持ちよさそうに喉を鳴らし、細められるのは青と黄の左右色違いの目。オッドアイの猫は幸運を運んできてくれるのだと言っていたのは誰だったか。高校生のときにつるんでいた同級生だった気がする。

 高校時代の同級生。ああ、そうだ。どうりで魚の小骨が喉に刺さったかのように、記憶に引っかかりを覚えていたわけだ。差し出された白猫の頬を手の甲で撫でながら、絵空に尋ねる。


「現くん、どうしたの?」

「この道の先さ」

「うん」

「俺の勘違いじゃなきゃさ」

「うんうん」

「……俺が住んでいた町だ」

「そうなんだあ。現くんの住んでた町に来れるなんて嬉しいなあ。……って、え」


 目を丸めて固まった絵空。撫でる手が止まったことに不満を抱いた白猫はひと鳴きしてから絵空の腕の中から飛び降りる。華麗に地面に着地した白猫。前足に力を入れ、お尻をつきあげ、ぐぐっと背中を伸ばしてからもう一度あくびをする。そして再び白い車のボンネットの上に登った。

 白猫にとってそこが定位置で、車の持ち主が困り果てた声をあげていたのを高校の帰りによく聞いていた。それを見て、同級生と今日もやっているなと何度か笑っていたものだ。

 そう、俺はこの場所を知っている。見間違えるはずがない。


「その猫も、この猫の集会所も。俺、見覚えがあるんだ」


 なんたって、ここは高校時代に毎日汗水たらして自転車で漕いだ通学路なのだから。


▷▶▷


 現くんの生まれ育った町を見てみたい。そんな絵空の希望を叶えるべく、俺たちは散策を始めた。

 ゲームで言うところの新たなマップ解放だなと笑えば絵空は首を傾げた。入院歴の長い彼女だが、どうやらゲームはあまりしないらしい。


「あの店は量がバグってるんだ。山盛りならぬマウンテン盛りみたいな」

「あれ。マウンテンって山の英語だよね。意味同じじゃない?」

「なんかニュアンスの違いっていうか」

「確かにマウンテンの方が多そうだね!」


 とろとろの卵に絡みついたぷりっぷりと鶏肉が格別で白米が止まらなくなる親子丼がたまらない鳥料理屋。昼間は学生の財布に優しいリーズナブルな価格で男子高校生の無限の胃袋を満たし、日が暮れたら働き疲れた社会人たちの空腹を煽る匂いを漂わせて客を招き入れる居酒屋になる。

 幼い頃から祖父に連れられて以来、長い付き合いの店だ。


「あそこは店主が気前良くてね。頼んでいない天ぷらまで付け足してくれるんだ。金欠のときに救われる」

「えびさんとか?」

「いやあ、さすがにそういう王道で人気なものはつけてもらえないな。シソとかイカとかきのこ類とか」

「好きな人はすっごく好きそうだねぇ」

「夜にいくとあまりものの野菜でかき揚げたんまりとかな」


 もっちりとした麺は弾力があって噛み応えが最高だし、腹にたまりやすい。つるんとした喉越しは疲労困憊、体調絶不調のときでも飲み込みやすい。出汁がきいたつゆは身も心も温めてくれる。ほっと一息をつけるうどん屋。衣がさくさくとした天ぷらがつゆに浸かってしみしみになったところをかぶりついたときの満足感といったらもう言葉で表しようがない。

 足を運んだ俺を見るなり顔色が悪いじゃないかと体調を心配して、体調が悪そうな相手にたんまりと天ぷらを付けてくれた店主は今も元気だろうか。


「あっ。あのお店は知ってるよ! ハンバーグがおいしいんでしょ」

「そうそう。チェーン店だから見たこともあるだろうな。ちなみに入ったことは?」

「当然ありません! あっちの桃のお店は中華系だっけ」

「そうそう。台湾カステラが美味い」

「ラーメン屋さんも多いねぇ」

「なんか密集するんだよな。系統が違うからやってける技か」


 ゆるやかな坂を下りながら目についた店をひとつひとつ教える。意外と覚えているものだし、話していて思った。記憶に残っている店はどれもこれも店主や店員の個性が強い。この場合の個性的とは褒め言葉だ。

 散策開始時からずっと目をきらきらと輝かせている絵空は俺の説明に大袈裟すぎるくらいの反応とコメントをくれる。

 生まれ育った町はどこにでもあるような、なんの変哲もない場所だというのに、喜ぶ絵空のおかげで特別な場所に思えてくる。


「なんか、食べ物のお店ばかりだね」

「車通りが多いからかな。入ったことのない店も多いけど、意外と再現されてるものなんだな」

「こだわりのクロワッサン屋さんに黄金比のフルーツ大福、それに種類たくさんなケーキ屋さん! いいなあ、どれもこれも食べてみたいなあ」

「そこら辺は入ったことがないからなあ。ただ、クロワッサンなら俺の頑張り次第では」

「頑張って、努力の天才!」


 パチン。顔の前で合わせた両手が乾いた音を鳴らす。力いっぱい目を瞑ったせいできゅっと眉間に皺が寄る。全身で伝えてくる絵空の食べたいという欲求。

 いつも通り、よしきた任せろと頷いてやりたい。しかし、絵空ほど想像力豊かではない俺が食べたことのないものを再現することはできない。絵空だって形は再現できても味はじゃがいもそのものなポテチとかゴム味のラーメンとか。

 わざわざパン屋に入ってカタカナで名付けられたおしゃれなパンとかお高くて良質なパンとか食べたことない。俺の知っているクロワッサンといえばコンビニで売っているふにゃりと柔らかいやつ。棒チョコが中に入っているやつは安物と侮ることのできないくらい美味しいんだけどな。

 スイーツについては語るまでもない。せいぜいコンビニスイーツが限界だし、疲れ切った脳が求めた糖分を得るために適当に買った程度。そのたびに美味しいとは思ったけど、それまで。それ以上の感想を抱くことはなかったせいで詳しく思い出すことができない。そんな俺が専門店ならではの美味なスイーツを再現するなんてできるだろうか。絵空のためにするしかないんだけどな!


「あとはあとは? 食べ物系以外で……遊ぶ場所とか!」

「あー、映画館とかゲーセンとかかな」

「ゲーセンってあの、いわゆるゲームセンターってやつだよね!」


 映画デートとか夢見ていた時期もあったな。結局一回も実現することはなかったけど。思い返しただけで悲しくなってきたぞ。野郎まみれの青春時代か……。

 今までの話からすると、映画館なんて人が密集するようなところに絵空は行ったことがないだろう。この機会に映画館に行ってみるのはどうだろうかという口実に学生時代の夢を叶えることを目論む。

 そんな下心いっぱいの考えは絵空の無邪気な笑顔で打ち砕かれた。

 ああ、この反応。絵空は映画館よりもゲーセンに興味津々だ。目がかつてないほど輝いている。ここで空気を読まずに映画館に行こうなんて言う勇気、俺にはない。というか、映画館はあっても映画が流れるとも限らないし。


「あっち、駅近くにあるはずだから行くかあ」

「やったあ! 私ね、クレーンゲームやりたいの。動画で見かける二個取りとか!」

「ゲーセン初心者にそれはハードルが高いだろ」

「そこは私の腕の見せ所だよ!」

「それは期待しないとな」


 力こぶを作るように細い腕をむきっと曲げる。ぺちぺちと叩いて主張された二の腕は見事な水平を描いている。いっそ盛大に哀れみたくなるくらい筋肉がない。筋肉どころか脂肪もない。けど、真っ白な肌はきめ細かくて撫で心地は良さそうだ。ガン見して考えていると、絵空は頬をほんのり染めて二の腕を隠した。

 隠された二の腕を惜しみながら、ゆるやかな坂を登り終える。平坦な道になってすぐに見えた横断歩道に設けられた信号はパチパチと青色で点滅している。立ち止まってしばらく見ていると、赤色に切り替わる様子は見られない。延々と点滅している青信号ってなんか嫌だねと話しながら渡り始める。横断歩道を渡り切れば目の前に大きなゲームセンターが現れる。カラフルなステッカーで装飾された自動ドアをくぐると、多種多様なゲーム機が鳴らす音が飛び交い始める。


「わあ、いろんな音がガヤガヤしてるね」

「いろんなゲーム機が存在をアピールしてるからな」

「なんだか合奏みたい!」

「確かに。音の殴り合い合奏だ」


 お菓子のタワーが積まれた回転式クレーンゲーム。アニメキャラクターのマスコットがつめこまれた小さなクレーンゲームから大きなぬいぐるみがマシンの中心にどんと置かれたものまで。幅広い層に人気のあるゲームが入口の傍に設置されている。その少し奥にはリズムに合わせてボタンを叩いたり、身体を動かしたりする音楽ゲームがある。その周辺に並ぶのは種類豊富なメダルゲーム。そして一番奥には客層を選ぶものの、昔から愛されている格闘ゲームの箱がある。

 軽快な音楽があちらこちらから流れ、混ざりあう。音の暴力とはまさにこのこと。この空間に慣れていないと音に酔いかねない。行ったことがないと言う絵空の様子を窺えば、彼女はいつものようにぴょんぴょん跳ねてはしゃいでいた。興奮でアドレナリン放出中といったところか。これなら問題なさそうだ。


「あのぬいぐるみ可愛いなあ。欲しいなぁ」

「やってみるか?」

「そこは、俺がとってやるよじゃないの?」

「クレーンゲームは得意ってわけじゃないから約束はできないなあ」

「こういうゲームができる男はモテないの?」

「具合による。こういう場のガチ勢はモテるどころかドン引きされることも多いからな」

「お祭りの的当てよりも女の子と来るよりも可能性は高いと思うんだけどなぁ」


 黒歴史を指摘されたことにうっと呻き声をあげ、胸に手をあてながら蹲れば絵空は慌て始める。的確に心を抉ってきた仕返しだ。けど、絵空にとっては冗談で済まない冗談だったようで、今にも泣きそうな顔をしていたので結局俺の方が慌てて謝ることになる。

 やっていい冗談と悪い冗談があるんだよと怒る絵空は涙目で俺を睨み、先程可愛いと言っていた大きなうさぎのぬいぐるみを取ってくれたら許してあげると、なんともまあハードルの高い条件をつけられた。

 苦手だと言ったけど、ここはやるしかないとクレーンゲームと向き合う。そこで問題が発生する。俺は財布を持っていない。これではゲームをやることができないじゃないか。

 どうしたものかと悩み、クレーンゲームの残り回数が表示されているところを見ると数字がくるくると変わっていた。まるで壊れたルーレットのように回り続ける表示を見て、俺はもしかしたらと淡い期待を抱いて操作ボタンを押す。


「おっ、動いた」

「じゃあ取れるまで挑戦できるんだね!」

「つまり取れるまで帰らないってことだな」

「うん!」


 元気な返事だった。何がそこまで絵空の心を動かしたのか分からないが、うさぎのぬいぐるみが取れるまでてこでも動かないだろう。俺の期待通り、このクレーンゲームは無料で無制限にやれるみたいだし、いずれかは取れるだろう。

 なんて考えをしていた自分を恨むようになったのはクレーンゲームを始めて数十分くらい経ってからのこと。何十回と挑戦して少しずつうさぎのぬいぐるみの位置を動かしているが、未だに取ることができずにいる。もしお金が必要だったら三千円くらいは使っている。

 もうこれ、普通に玩具屋さんに行った方が早いんじゃないかと言ってみたが、絵空は断固拒否。これじゃないと嫌だとわがままを言う。


「あとちょっと、あとちょっと……」

「ここをこう引っかけたら……あっ」

「わ、わ、わ」

「ッシャオラァ! どうだ、見たか!」

「わー! みたみた、現くんすごい! 本当にこんなおっきいうさぎさん取れちゃったよ!」


 これが何度目なのかを数えることをやめた頃、ようやくうさぎのぬいぐるみが落ちる。花をクッキーに変えたときよりも大きな声をあげ、力いっぱいにガッツポーズをする。興奮した絵空は俺の腕に引っ付いて飛び跳ねていた。

 お金がかからなかったからこその成功だが、達成感が半端じゃない。落ちてきたうさぎのぬいぐるみをいそいそと取り出し、絵空に渡せばふにゃりと嬉しそうに笑い、もふもふとしたお腹に顔を埋める。


「えへへ。現くんからのプレゼントだ」

「プレゼントって」

「だって現くんが取って、私にくれたんだもん。プレゼント同然じゃん! 初めてゲームセンターに来た記念品にするんだあ」


 頬を薄紅色に染めて隠すことなく喜びを表現する絵空に心臓が鷲掴みされた。

 そうかそうか。このぬいぐるみは諦めて玩具屋さんに行こうという提案を断ったのは記念品が欲しかったからなのか。くっそ可愛いことを言いやがるなあ。

 思わず抱き締めたい衝動に駆られ、腕を伸ばすが寸前のところで堪える。したいと思うのは自由だが、実際にしてしまえばセクハラになってしまう。それだけは避けねばならない。

 伸ばされた腕を不思議そうに見つめて首を傾げる絵空には喜んでくれて良かったと言って、頭を軽く撫でることで誤魔化した。


「現くん!」

「わ、吃驚した。そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよ」

「だってぼーっとしてるんだもん」

「そんなにぼーっとしてたか?」

「うん。意識が飛んでいく感じにぼーっとしてたよ。そんなことしていないで他のゲームでも遊ぼうよ。早く早く! 時間は有限なんだよ!」

「あ……う、うん。そうだな」


 絵空の言葉に足を止める。メダルゲームに駆けて行った絵空は俺が足を止めたことに素早く気付き、振り返るって俺を呼ぶ。背負われたうさぎのぬいぐるみが絵空の動きに合わせてもふんと耳を揺らす。

 絵空と大きなうさぎのぬいぐるみ。可愛いと可愛いの組み合わせはさり気ない一言で動揺した気持ちを和らげてくれるなあ。

 などと、いつものようにしょうもないことを考えて、胸につっかえたままの絵空の言葉を見て見ぬふりをした。

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