021 「青カビの活用レシピ」
またあれから2週間後の朝、また紅龍さんがやって来た。
また顔の下一面を無精髭にして。また目の下に隈を作って。
そして目線があった瞬間に、今度は紅龍さんの方がすぐに理解して、私に何もせずに女中を呼びつけた。
まるで犬を躾けている気分だ。
(紅龍さんって、悪役だけどギャグキャラ属性持ちの悪役よね)
少し憎めないのは私も悪役側だからだろう。
そしてその日のおやつの時間の頃、前回と同じように紅龍さんと対面している。
机には、前回と違って私と、最初から紅龍さんの分の三時のおやつまで置かれている。
解せぬ。
「ねえ、そろそろ話して良い?」
「ん? 少し待て。うまいなこれ」
私以上にショートケーキをパクついている。これで3ピース目だ。この体格と勢いだと、ホールでも出しても食べてしまいかねない。
そして本能的焦りから、私も次のケーキに取り掛かる。
晩御飯に怒られるのはすでに確定だろうが、スイーツ勝負で負けては乙女が廃る。
そして数分後、お互いに優雅にティーカップに口を添えながら話し始める。
「良い? これは英国のアレクサンダー・フレミング博士が研究されている事よ」
「海外か。その名は知っているが、知己ではない。ドンとこい」
「……あっそ。でもね、実は作ろうと思うと、ご家庭でも作れてしまう薬なの」
私の言葉に、カップの向こうから八の字眉の顔が覗く。
「何だ、またお婆ちゃんの知恵袋か。今度で第三弾だな。それで?」
「材料と作り方はこれ。たまには説明しましょうか?」
「そうだな。たまには聞いてやろう」
「何で偉そうなのよ。まあ良いわ。用意するのは、青カビ、芋の煮汁、米のとぎ汁、菜種油、炭、お酢、重曹、寒天。あと実験台になってもらう哀れなブドウ球菌ね」
「……炭と最後の一つ以外は、どう見ても何かの料理の材料だな。しかし、ついに青カビ登場か。青カビをどうする?」
やや胡散臭げに聞いてくる。確かに材料だけだと私もそう思う。
けど、私が見た聖典(漫画)にそう描いてたんだから仕方ない。その後で、本当かどうかそれなりの専門資料を見た記憶もあるが、こっちでも良い筈だ。
「この材料で、この紙に書いた通りに抽出したものとブドウ球菌を合わせて、ブドウ球菌が繁殖しなかったら成功。多分というか確実に、地味で同じ作業をすごーーーっく沢山しないとダメよ」
「沢山ね……特殊な青カビという事か。それがブドウ球菌を繁殖させない効果を持つ・・・って、ちょっと待てっ!!」
めっちゃ目を見開いて、全身で驚きを表現している。
リアクションが大きすぎて、アメリカ人もびっくりなほどだ。
「さっすが紅龍叔父様。もう分かったんだ」
「分からいでかっ! これでも私は細菌学を学んでいる。だがこれは何と表現するべきだ?」
「私の見た夢だと『抗生物質』、『antibiotics』って言っているわ。肺炎、梅毒とか色々なものに効果があるの。場合によっては合併症とか他の細菌が関わる病気にも。ただし、経口は胃で消化されて効果なくなるから厳禁。それに副作用が強いから、簡単に使えないらしいわね」
「らしいって。大量生産されれば、間違いなく人類を救う薬になるぞ」
「ええ。だから、世界がひっくり返るって言ったでしょ」
「確かにその通りだ。しかし、フレミング博士が開発中なのだろう?」
「あと4年先に偶然発見。けど、単離したり薬にするまで、そこからさらに10年くらいかかっているわね。しかも別の人が」
「だがこの紙には、薬にするところまでが書かれているわけか」
「そうよ。あと、もとが細菌だから、探せば他にも色んな効果のある細菌が沢山あるわよ。詳しい事は、殆ど知らないけど」
「殆ど、か。まあ良い。まずはこれだな。それで、この薬が青カビと呼ばれていたわけか?」
「そうね。青カビの学名からとって『ペニシリン』」
「では完成の暁には、その名は使わせてもらうとしよう」
「気が早いわね。その特殊な青カビ見つけるだけで、どれだけかかるか分からないのよ」
「そんなもの、」
「あーはいはい。天才ならすぐ見つかるのね。まあ、気長に待っているわ」
「言ってろ。すぐに見つけてやる! では、サラバだっ、また会おう!」
そう言って、いつものように去って言った。
「あっ、そういえば、ビタミンB1の結果聞くの忘れてた。けど、何も言わないって事は、うまくいったか、まだ結果が出てないかね」
そう思って特に気にせず、私は日常へと戻った。
今の私には予言まがいの事を言うか、それを待つくらいしかできないのだから。
一方では、なるべく早く良い結果が出ればと思った。何しろ、これで3回も悪魔に魂を売ったに等しいのだ。
未来に見つかる薬で一人でも多くの人が助かってもらわないと、未来チートで他人の業績の横取りで地獄直行が確定であろう私としては割に合わない。
それに加えて、薬ができれば私の一族、いや今は家族と言って良い人達が早逝せずに済むのだ。
だから、神様か何かに密かに祈った。
(どうか、紅龍さんの薬作りが上手くいきますように)
なお、その後しばらく紅龍さんは、私の前に現れなかった。
当たり前すぎるが、流石に2週間で発見とはいかなかったようだ。
その代わりと言うべきか、曾お爺様に集めてもらった情報や噂話から、晩秋くらいになると鳳病院で使っている経口補水液の噂が、まずは東京から関東全域に広がりつつあった。
そして紅龍さん当人も、さらに詳細な論文や研究結果を学会などに提出していた。ペニシリンの研究の合間に書いていたとしたら、やっぱりとんでもない人だ。
ただ、紅龍さんは東大医学部とその巣窟である医学会を酷く嫌っているので、私立病院中心だったりとあまり褒められない広がり方だった。
一方、脚気関連の方は、理化学研究所に実験結果と方法を記した論文を持ち込んでいた。しかもその論文などは、見返りなしで鈴木さんに渡してしまっていた。
自分で一通りした後の精度の向上とか面倒な事は全部丸投げする事で、研究者の一人としての名前の明記すら拒んだらしい。
「偶然見つけたので、お知らせしただけ」とは、その時の紅龍さんの弁だそうだ。
恩を売ったか理研に名前を売ったと思えば良いのだろうが、あの人のプライドが許さなかったのかもしれない。
「まあ、ペニシリンに関しては、プライドとか関係無さそうだけど」
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理研
理化学研究所 (りかがくけんきゅうしょ)
理化学研究所は、アジア最初の基礎科学総合研究所として1917年に設立。
戦前は大河内正敏の元で、経営成果を武器に経営を拡大。理研コンツェルン(財閥)となっていく。
ペニシリン
1928年にイギリス・スコットランドのアレクサンダー・フレミングによって発見された、世界初の抗生物質。
フレミングはこの功績によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。
半ば偶然に発見されたそうだ。
抗生物質
厳密には、細菌の増殖を抑制する働き(除菌作用)、直接細菌を殺す働き(殺菌作用)をもつ薬のことを「抗菌薬」。代表的なものにサルファ薬。
そのうち、細菌や真菌といった生き物からつくられるものを「抗生物質」とされる。代表的なものにペニシリン、ストレプトマイシンなどがある。
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