第72話 荼毘に付す
俺達は車に乗り、故郷へ向かう。軽い移動手段として使うばかりだったためか、茜は後部座席に膝をついて流れていく景色を食い入るように眺めている。
しかしそれも長く続かず、すぐにシートに寝転がっていびきをかき始めた。そのうちに懐かしい街道が見えてくる。
感慨も大してなく、ただ「懐かしい」と感じるだけ。炎に弄ばれた顛末とは思えない、本当に冷たい人間になってしまった。
それでも店の場所は憶えていた。しかし、店があったはずの建物にはシャッターが下ろされていて、跡形もなくなっている。
やっぱり、俺が手を貸してやればよかった。二人で店を回すことに慣れさせてしまったのは、他でもない俺自身だ。
残念なことだ。もう二度とあの味を食べることができないなんて。
残ったのは、認められたとはいえパクリとしか言い様のない炒飯の作り方。毎日のように茜がせがんでくるため俺はとっくに食い飽きた。
俺は、おやっさんのあの味が食いたいんだ。シャッターを叩こうとする手を止める。
俺の呼び掛けに、なにも返ってこないことが恐ろしかったのかもしれない。もしどこかを患っていたとして、無理に動かしてしまいたくなかったのかもしれない。
いずれにせよ、もう会うことはできない。せめて一言謝りたかったのに。
「ショウゴ~。あの男はもういないのか?」
「...ああ。残念だな。もう店畳んじまったみたいだ。」
「なんだなんだ!せっかく炒飯の口になっているというのに!」
「いつもそうだろ。仕方ない、他の適当な店でも行くか...」
ごねる茜を引っ張ろうとした時、この様子をずっと見ていたのだろう男が近寄ってくるのに気づいた。男は目元に陰を落とすほど伸びた天然パーマの黒い髪を掻きながら、ダッフルコートのポケットに片手を突っ込んでいる。
「お兄さん、ここの常連さん?」
「ここもう潰れちゃいましたよ。私も四年くらい通ってたんですがねぇ。」
「いや、昔バイトしていたんです。店主に会いに来たんですが...」
「あー、気の毒なことですが。」
「亡くなりましたよ。あの人。肺癌で。」
「本当ですか...」
「ええ。去年の夏ごろだったかな。看取る人も居ずに、可哀想でしたねえ。」
冷血を持つからこそ、見えることもある。俺はおやっさんが亡くなった事実よりも、この男が発する違和感で頭が一杯になっていた。
確かに悲しいことだ。だが今の俺は涙を流すことができない。心は動いている。事実、ポケットの中で震えているこの手は晩秋の寒さが呼んだものではない。
この男、顔に見覚えがない。四年くらい通っている常連客だと言ったが、もしそうなら俺がまだ働いている時期、俺は常連客の顔をほとんど憶えているから顔を知っているはず。
だがこんな男は見たこともない。背中の曲がった佇まいからも怪しさが立ち込める。少し、カマをかけてやるとするか。
「ここの炒飯、シンプルで美味しいですよね。完成されているというか。」
「小ネギとハム、あとあの具材が良いんだ、食感のアクセントになって...あれ...なんだったかな...?」
「...タケノコですよ、確か。」
俺はコートの裏に仕込んでいる護身用の伸縮式警棒にゆっくりと手を掛ける。そもそも俺のこのツラになんの反応もない時点でおかしいと思っていた。
おやっさんの炒飯に入っているのは、タケノコではなくエビ。少しでも贅沢な気分を味わってほしいと親切心で加えていたものだ。
答えるまでの
"食感のアクセント"ってワードに引っ掛かりやがったな。これでハッキリした。
警棒を展開し、一歩下がって構える。男は物怖じすることもなくその場に立ったまま。
「お前...何者だ。適当な嘘つきやがって。」
「あはは、やっぱバレますか。流石に騙せないっすね。弟子は。」
ニヤリと笑った男は懐から、炎を象った紋章が刺繍された腕章を取り出す。あの日、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった教団員が身に付けていたものと同じだ。
やっと見つけた。ずっと追い続けた手掛かりを、恩師の終の棲家の前で。
これはチャンスだ。力ずくにでも絶対に捕らえて、洗いざらい全てを話してもらう。
「弟子じゃない、ただのバイトだ。少しばかり付き合いが長かっただけのな。」
俺は男にステップで距離を詰め、警棒を力の限り振るう。狙うは、頭、頭、頭。
まずは動きを止める。ところが、なぜか男は避けもせずあっさりと俺の攻撃を受け、体勢を崩して地面に仰向けに倒れ込んだ。
膝をつき、首に警棒をあてがう。しかし意識と意識の隙間にある一瞬を突かれ、男は腰に手を掛けた。その動きに俺は反応できなかった。
拳銃が油断した鼻っ面に突きつけられる。一瞬遅れて反応し慌てて後ろに下がるが、男は一向に発砲しない。
そして、星の回る微睡んだ目をニターッと歪ませ、銃口を自身の左胸に当てて親指を引き金に掛けた。ふざけるな、そんな逃げ方なんかさせてたまるか。
「来たれ...クトゥグァ。」
だが再び近付こうとした時には既に乾いた銃声が轟き、弾丸は心臓を貫いていた。力を失った身体の下に血溜まりができていく。
その瞬間、動き出した血液は無数の糸のように分かたれ、地面を滑るように伸びて茜の足下に収束する。そしてぼうっと炎が灯り、血の糸を伝いうねりながら茜へ向かっていく。
炎は不気味な揺らめきを持っていて、既知のいかなるものとも逸脱した重圧を放つ。間に合わない。
「なっ、なんだ!?ショウゴ!」
「茜ッ!早く離れ...」
撚られた血の筋が立ち上り、ほどける。蓮の花のように放射状に広がった糸は燃え盛るまま茜の身体を優しく包み覆う。
波打って交差する糸と糸の間にもがき苦しむ姿が見え、茜のけたたましい絶叫がシャッター街に木霊する。警棒を振り回してどかそうにも糸はただ靡くだけ。
成す術なく火勢は増していく。近寄ることが不可能なサイズにまで炎の塊は膨れ上がり、風景は陽炎に曲げられた。
そして、茜の身体を宙吊りにしながら、気球のように天へ昇っていく。塊を中心に羽ばたく不定形の炎の群れが散り散りに飛び回り、辺りにある建物を見境なく焼き払う。
そんな世界の終わりのような様を、俺は呆然と眺めることしかできなかった。
ふと、男の遺した拳銃が目に入る。あの茜を俺が撃てば、この惨劇を食い止められるのではないか。
不確定要素に期待するのは慣れていた。わずかか可能性に賭けてまで解決に導く、それが未だ夢に見る理想形であった。
拳銃を手に取ろうとしたその時、路地の両側からスーツを着た人物が数人向かってくる。
手には銃や刀など、様々な武器を持っていた。それらは猛ダッシュで俺に走り寄ると、一斉に俺の腕を掴み捕縛した。
「ッ、おい!!放せッ!!」
俺が、俺が終わらせなきゃいけないんだ。俺には彼女を引き取った責任がある。こんな形で別れるなら、せめて俺が。
眼前に悠々とした歩みで現れる、金髪にアロハシャツの男。煙草をふかしながら俺に背を向けて立っている。
そして懐から拳銃を取り出し、迷うことなく茜に向けた。
「や、やめろ!!あいつは...!あいつは俺が止めなきゃいけないんだ!!」
「撃てるのか?だったらお前がやるんだな。」
「そいつを放してやれ。貸してやるよ。」
あっさりと俺は解放される。両膝を地面についた俺に、男は拳銃を差し出した。
歯を食い縛りながら、俺が最初に銃口を向けたのは目の前の男だ。いきなり現れたかと思えば、なにを知ったような口を利きやがる。
「俺を撃つか?なら
「責任も果たせずに、あの子は見ず知らずの俺の仲間、お前にとっちゃ他人に、殺される。それでもいいなら撃てばいい。」
「...何を...ッ!!」
震える手で銃口をぶらし、引き金を引く。轟音と共に撃ち出された弾丸は男ではなく、苦しみの声を上げ続けている茜の額に食い込んだ。
もはや誰のものでもない、異形の叫びが響く。火の手が止み、狂乱の宴が終わりを告げる。
空っぽの器と化した茜の亡骸は燃えて塵となり、炎の神は空の中に溶け込むようにして姿を消し、ついには静寂だけが残った。
「...撃てるに決まってるだろ。」
やたらと重い銃を投げ捨て、俺はようやく、久しく見ることのなかった自分の涙に気が付いた。身体が心を置き去りにして、遅れて結果だけがやってくる。
俺は確かに責任を取った。茜を殺すことで、大切な人を犠牲にすることで、この世に維持される平和を優先した。
探偵としてではなく、正義の味方としてではなく。運命に翻弄された一人の少女、その保護者としての責任を、この手で。
「撃つ、か......そうか。お前、名前は?」
「....水上 省吾。」
「水上。俺の所に来い。お前は探偵なんかよりずっと、
「俺は橘 丈一郎。ああいう化け物を専門に扱う、オカルト専門窓際部署の課長だ。」
俺は好き好んで探偵になったわけじゃなかった。壊れた心が唯一持っていたものを意味もなく追いかけてみた結果、偶然たどり着けたというだけの場所だ。
捨てられるなら捨てたかった。続ける理由もなくなった。刑事らしきこの連中が相手取る存在は、どうやら俺と一致している。
橘 丈一郎。俺はアンタを尊敬も信頼もしない。ただ犬として使われてやる。
もし期待したように俺の傷を埋められないようなことがあれば、今回の弾は次に回したってことにしてやる。次に狙うのはもちろんお前の脳天だ。
「ああ、やるよ。こんなものはもう要らないな。橘課長。」
握っていた警棒を放り投げる。吹っ切れた俺に必要なのは、己自身だけが持てる殺すための力だ。神頼みなんか二度としてやるかよ。殺せってんなら誰だって殺そう。
良心に追い付かれる前に、どこまででも逃げ続けてやる。例え地獄に落ちるようなことがあっても、きっとあの炒飯が好物な放火魔なら、ついてきてくれるさ。
なぁ?クトゥグァ。
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