十三章4
*
「何よ。あの人、急に怒りだして」
とつぜん、ハシェドがとびだしていって、一人で残されたエルマはわけがわからない。
「失恋したっていうから、なぐさめてあげたのに」
泣きそうな目をしてたのが気にならないわけでもないが、ほんとに泣きたいのはエルマのほうだ。
(エンハート……やっぱり、生きてはいないの?)
エルマは扉の内側から鍵をかけ、窓ぎわに椅子をよせる。エンハートの日記を読むためだ。昨日の荷物のなかに入っていたのだ。
『風の月、アイサラ旬、七日。
今日もエラードは見つからない。彼はほんとにこの砦にいるのだろうか。長い時間、食堂のわきで待っていたけど、彼らしい人物は見あたらなかった。もし彼がここにもいなければ、私はどうしたらいいだろう』
『風の月、アイサラ旬、十日。
近ごろ、ダルネスがしつこい。仕事をさぼるのをごまかしてやるというので、何度か寝てやったのだが、私をすっかり愛人にした気でいるので、イヤになる。私はけっきょく、どこへ行ってもこの生きかたしかできないのか。エラードに醜いと言われるはずだ』
『地の月、ユイラ旬、一日。
エラードの夢を見た。彼は夢のなかで、私を愛していると言いながら、私の体を剣で切りきざんでいった。優しい、おだやかな微笑のままで。私は身動き一つできず、彼に殺された』
『地の月、ユイラ旬、五日。
私はファルシスが憎い。彼は死んだ今となっても、かたわらに立ち、私の心を憎悪で黒く染める。彼を生涯、ゆるさない。私があのみじめな幼少時代をすごしていたとき、彼は何不自由なく、誰からも愛され、大切にされて育った。なのに、その上、エラードの愛までさらっていくのは、あまりにも不公平ではないだろうか。ファルシスが幸福な子どもだったから愛され、私が不幸な子どもだったから愛されないというのは。
虚構だらけの私の人生のなかで、エラードへの愛だけが本物だった。私は誰にも愛されない子ども。誰からも見すてられた性技人形。私は私にふさわしい生きかたを、ようやく見つけた。もし、ここでほんとにエラードに会えたなら、そのときは……』
そのときは、どうするつもりだったの? エンハート。
エルマは自分が涙を流していることに気づいた。指さきでぬぐっていると、扉の外で声がする。
「エンハート。私です。クルウです」
クルウと言われても、ピンと来ない。が、その声を聞くとホッとした。アルメラの少女たちの憧れだった騎士隊長。
エラードがエンハートを憎み、おとしいれたことは、しかたないことだった。エンハートはそうされるだけのことをした。だから、エラードを恨んではいないのだが……。
エルマは鍵をはずし、彼を招き入れる。
「ナイショ話は終わったのね」
「ナイショというわけではありませんが、不確実な情報で、あなたを惑わせるわけにはいきませんので」
クルウは室内を見まわす。
「分隊長はどうなさったんです?」
「なんだか知らないけど、急に怒って出ていってしまったわ」
「怒った? 分隊長が?」
「そうみたい」
「あの人が怒るなんて、よほどですよ。まさか、彼をブラゴール人だと言いましたか?」
「言ったわ。あなたみたいなブラゴール人、見たことないって」
クルウは嘆息した。
「それは、あなたがいけません」
「どうして? わたしが知っているブラゴール人は、みんな、ブラゴール人であることに誇りを持っていたわ。でも、あの人はそうじゃないみたいなんですもの」
クルウの静かな光をたたえる瞳がエルマを見つめる。
「分隊長はユイラ育ちのハーフなんですよ。アルメラでは外国船が多いから、あまり偏見はありませんがね。他の地域では差別がひどいようですよ」
エルマは頭をかかえた。
「きっと、気にしていたのよね?」
「でしょうね」
「失敗したわ。わたし、どうしたらいいかしら?」
「あなたはどうしたいのです?」
反対に聞かれて、戸惑う。
「謝った……ほうがいいわよね?」
「そう思うなら、そうしたらよいでしょう」
「わかった。謝る。でも、彼が聞く耳持たなかったら、力を貸して」
エルマが手をあわせておがむと、クルウは白い歯を見せる。
「あなたは素直で可愛いお姫さまですね。少々、無鉄砲ではあるが」
「なんですって?」
「いえ。あのエンハートと同じ家で育ったとは信じられない」
——お父さま。どうして、エンハートはいつも一人なの?
少女のころの思い出がよみがえり、エルマはまた涙が浮かんできた。
「エンハートはわたしの兄ではないの」
「ウワサは聞いております」
「あなたが言うのは、わたしのウワサね? 皇都の貴族の落とし子だって。それはほんとよ。でも、それだけじゃないのよ。父はね、わたしの血筋をうしろ盾として利用してたけど、それ以上に、わたしのウワサのかげで、エンハートの真実が
エンハートはエラードだけにはその事実を知られたくなかっただろう。
(でも、わたし、違うと思うのよ。あなたは自分のありのままの姿を知られると、侮辱されると考えていたようだけど、エンハート。わたしは逆だと思うの。あなたのほんとの姿を見たら、あなたを憎める人はいなくなる)
これ以上、エンハートがゆいいつ愛する人に憎まれているのは、エルマには耐えられなかった。
「エンハートは養子なのよ。あの美貌を買われて、ひきとられた、
エラードは顔をそむけた。
「なぜ……そんな話を私にするのですか?」
いつも動じないエラードの声が、そのとき、たしかにふるえていた。
「エンハートの演技は見事だったでしょ? 生まれながらの貴公子。その美しさで思いどおりにならないことはない。誰からも甘やかされて、すべての人をひざまずかせてきた。そう見えたでしょ? 仮面の下では泣いていたのにね。彼はわたしのことも恨んでいたのだと思う。同じもらわれてきた子どもなのに、なぜ自分だけがヒドイめにあうのかと。父はわたしには甘かったから。なんでもワガママを聞いてくれた。エンハートのことを言うと、すごく怖い顔をしたけど、それ以外では優しかった。だから、わたし、負いめがあった。エンハートが心の闇に囚われて、間違ったことをしだしたとき、わたし、彼を止めることができなかった。だって、わたしも、エンハートを苦しめたなかの一人なんだもの」
エルマはエラードの手をにぎりしめた。かさねた二人の手の上に、熱い涙がしたたりおちていく。
「誰も、あなたを責めません」と、エラードは言うが、
「わたしは責めるわ! 彼を助けてあげられなかった。ずっと彼を愛していたのに。鏡の牢獄に囚われた、かわいそうな男の子。あの子を救ってあげたかったのに。彼に嫌われてもいい。止めるんだった。エンハートの苦しみを知ってるのは、わたしだけだったのに……」
エラードの手がエルマの肩を抱く。エルマはエラードの胸で泣いた。
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