六章3



 ——ザヴィーナ。おまえは色子宿に売られるところだった。それはわかっているな?


 話し声がする。


(誰だ?)


 暗闇に小さな光があった。光のなかに、ぼんやりと人影。背の高い男と、まだ幼い子どものようだ。


 ——私がひきとらねば、おまえは母と同様、町の最下層で男を相手にその身を売らねばならなかったのだ。私に感謝するがいい。


 ——ぼく……お母さんのところに帰りたいよ。


 ——おまえの母は死んだ。おまえに帰る場所はない。


 ——お母さんはぼくを置いていったりしないよ。


 男の大きな手が、子どもの頬をぶった。


 ——おまえには最高の教育をあたえ、贅沢な暮らしをさせてやる。浮かれ女の私生児のおまえには、もったいないほどのな。だが、おまえは私に逆らってはいけない。逆らえば、代わりの子どもを見つけてくるまでだ。


 冷たく、白い目。

 子どもは泣いていた。


 ——ぼく……ぼく、帰りたいよ。お母さん……。


 男の声が膨張ぼうちょうし、無気味に低く、しだいに遠くなっていく。


 ——おまえは誰よりも美しく、気高い貴公子にならねばならない。今日から、おまえの名は……。


(何?)


 すでに男の声は聞こえなくなっていた。

 砦の自分の部屋。西の空の夕映えが、室内をオレンジ色に染めあげていた。


「隊長。お目覚めですか?」

「ああ」


 ハシェドに声をかけられて、ワレスは起きあがろうとした。そのとたん、殺人鬼に追われる美少女みたいに、ものすごい悲鳴をあげてしまう。ワレスのとなりに、ロンドが眠っていたからだ。


「うわあああッ。なんで、こいつが!」

「すみません。勝手に入ってしまって……出そうとしても出ないんですよ。ロンドの手には吸盤がついているのかもしれません」と、ハシェド。


「ああーん。わたくしは、ワレスさまがうなされていたから、介抱してさしあげたかったんですぅ。おぐしが短くなっちゃって、可愛らしいですよ。もう、食べちゃいたい」


 ちゅう、とヒルのようなものが首筋に吸いついてくる。


「離せ!」

「んん、やっぱり口からは吸いやすいわ。美味しい」


 ワレスはゾッとした。


「きさま、ほんとは人間のふりした化け物だな?」

「誰が妖怪蛭人間ですか。失礼な」


 ほうほうのていでベッドをはいだす。


「なんだって、きさまがこの部屋にいる!」

「迎えにきたのです」


 あっさり言い返されてしまった。


「うっ。いらんことをするな。行くときは、こっちから声をかける」

「ほんとに? ほんとにほんと? そんなこと言って、わたくしを置いていくんじゃありませんか?」

「…………」


 目線をそらすと、ロンドは袖をかんだ。


「やっぱり、そうなのですね。口惜しい。ああ、口惜しい」

「おい、こいつをつまみだせ」

「それができれば苦労しません」


 ハシェドに言われ、ワレスはあきらめて身支度をした。短くなったので、髪は手でなでつけてもいいようなものだが、いちおうくしの目をかける。ヘンルーダのように砦の聖者にはなりたくない。


「食事をしてから裏庭に行く」

「ホルズとドータスには伝えておきました。さきに食堂へ行っているそうです」


 本丸一階の食堂で夕食をとるあいだ、エミールには髪を笑われ、ロンドは男がいっぱいと浮かれ、なんともにぎやかだった。


「おう、隊長。今度は裏庭だって?」

「ああ。また、おまえたちに頼む」

「剣の通用する相手なら負けないぜ」


 威勢よく胸をたたく。

 彼らをつれて裏庭の庭園に入ったのは、ちょうど西の森のかなたに太陽が沈むころだ。


「スノウンは?」

「さきに行っていると言ってましたよ。魔法使いには魔法使いのやりかたがあるからって」

「おまえも少しは見習ったらどうだ?」

「あら、アトラーさんがいる」


 ロンドはちっとも聞いてない。よろよろした足どりで亡霊みたいに走っていった。


「あいつはどうせ、あてにはしていないが。おれたちは近衛隊とは別行動で、独自に監視するとしよう。被害者はおもに第二区画で夜間、いつのまにか姿を消し、朝になって変死体で見つかっている。狙われるのは見張りの兵士。つまり、今この場所には、自分でそのつもりはなく、おとりになってくれている者が大勢いる。それらをかげから見張っていよう」

「おお、さすが隊長。頭いい」

「よっしゃ。任せとけ」


 調子のいいことを言っているが、しかし、ワレスは半刻とたたないうちに、人選ミスだったことに気づいた。ホルズたちは実戦型。剣と剣をまじえる白兵戦にはむいているが、こういう根気のいる待ちの仕事にはむかない。グロテスクな像の流行った五百年前の装飾の庭園の片すみで、木陰から松明を持つ兵士を見張っていたものの、じきに退屈してさわぎ始めた。


「なあ、隊長。いつまでこうしてるんだ? このうちに、よそに出やしないか?」

「まさか朝までずっとじゃねぇよな?」


 これでは待ち伏せの意味がない。

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