第七十一話
「よ」
悪魔は何気なくねじ切った右手を床に放り捨てた。
と。
捨てられた右手が小さく床を跳ねた後、徐に拳を握り込み、握り込み、握り込み、指先が掌を貫通して抉り、更に肉の中に埋まっていく。
そうしてぐちゃぐちゃ、と。
ぐにゃぐにゃ、と。
手だった原型をなくし、蠢き、変形し――変身した。
真っ黒な、凹凸のほとんどない――かろうじて、頭部、手足が小さくついているのが判別でき、ぎりぎりで『人型』と呼べるような、真っ黒な『影』のミニチュア版へと。
とてとてとソレが小さな足を動かして歩き、ナナメに近付いて、ズボンの裾を掴み、よじ登って、頭の上へと到達。
「あの……………………なんですか、これ」
よじ登ってくる最中も酷く気持ち悪そうな、ドン引きした表情で見ていたナナメが、たっぷりと間を持たせて、当たり前の疑問を呈した。
「私の端末、とでも申しましょうか」
「いや、こんなの連れて歩いてたら滅茶苦茶悪目立ちするんですけど」
「ふむ、ではそうですね、こういうのは如何ですか」
ぱちん、と悪魔が指を鳴らすと、ナナメの頭上にいた影が真っ黒な蜘蛛へと、一瞬で姿を変えた。
真っ黒であることを除けば、サイズ感など、フラトの頭上にいる蜘蛛のそれと全くと言っていいほど酷似している。
「実際に蜘蛛の持つ能力、糸を出したりなどはできませんが」
「いや、だから、悪目立ちするって言ってるんですけど。私の言葉、聞こえてます? わざとやってますね?」
「ふふふ、そう怒らないで下さいませ」
悪戯っぽく笑いながら悪魔がもう一度指を鳴らす。
と、ナナメの頭上にいた蜘蛛がその場から飛び、空中で姿を変えて地面に着地。
「うっ…………」
見下ろしたその姿にナナメは少し言葉を詰まらせ、言った。
「か、可愛いですね…………。なんか、そう思ってしまうのが悔しいですが」
蜘蛛から姿を変え、床に着地したのは――真っ黒な猫だった。
とん、と跳び上がった黒猫は、今度はナナメの肩に、足をだらんと投げ出して、身体を曲げ、ぐにゃりと腹を乗せた。
「全然重くありませんし」
「ええ、ええ。形はどうあれ私の身体の一部を切り離した端末でございますから、質量なんてのはあってないようなものです」
千切られた手から『影』に、そして蜘蛛になってから猫へ――その変遷というか、変形を目の当たりにしている為に、悪魔の言うことを頭では理解できる。
が、しかし、どうにもその黒猫の外見に引っ張られているようで、ナナメは拒絶しきれない、寧ろ手を伸ばして頭を撫でようとする自分の手を制止したり、けどやっぱり伸ばしたりと、ぐちゃぐちゃになった自身の心中と闘っているようだった。
「で、それがどう役に立つの?」
エンカが疑問を挟む。
「ええ。ソレだけでも、そこら辺の小物は圧倒できるでしょう」
「へぇー」
「更に、有事の際にはあれの首を落とすか、魔術か何かでその身体を粉々にでもして下されば、一瞬で私がその座標に飛びます」
「えぇ…………いや、えぇ…………」
ナナメが心底嫌そうに顔をしかめた。
「なんかもっと他に呼び出し方なかったんですか…………折角可愛いのに」
結局、『可愛い』ということで気持に決着を付けたらしい。伸ばし掛けていた手は猫の頭を撫で、猫も猫で気持ちよさそうにしている。
しかしそうなると寧ろ、猫のシルエットというのは邪魔になるだろう。
流石悪魔というかなんというか――底意地の悪い仕様である。
「まあまあ、それが一番簡単でございますし。有事の際にはそこまで難しいこと、複雑なことなんてできないでしょう? 出来るだけ簡単に、咄嗟にでも行えるようにしようとなると、そこら辺が妥当かと思いますが」
果たして嘘か真か――もっともらしいことをぺらぺらと喋り、その顔に浮かべるにやにやの微笑みは、どうにも胡散臭いが。
ただ、小物すら圧倒できるというその猫が、ナナメの手に寄らずとも破壊されてしまった場合、それだけの強さを持った何者かがナナメに危害を加えようとしている証拠でもあるわけで、そう考えると、現実的な機能なのかもしれない。
「いや、じゃあせめて、そこまでひっ迫していないときに、ちょっと手間が掛かってもそういうグロテスクじゃない呼び出し方とかないんですか?」
「そもそも私を呼び出そうというときが、ひっ迫していない状況だなんてこと、あるんでございましょうか?」
「…………」
ナナメは何も言い返さなかった。
言い返せなかった。反論の余地はなかった。
この悪魔と『ちょっと楽しく雑談がしたくなって』なんて話はないだろう。
「ふふふ」
煽るように悪魔が笑う。
悪魔らしく、悪魔の様に嗤う。
「うぅ…………折角可愛いのにぃ」
「まあまあ、そこまで言うのでしたら――」
悪魔が三度、ぱちん、と指を鳴らした。
が、特に猫に変化はない。相変わらずナナメに撫でられて気持ちよさそうにしているが。
「尻尾を強く引っ張っていただければ、私に用事があるんだと気付けるように致しましたので、緊急性はなくとも何か呼び出したい用事がございましたらそのように」
「むぅ……………………しょうがないですね、そこが妥協点ですか」
「ふふふ。いいですねえその強かさ。但し、ソレがタナツサク様を主と認識し護衛する機能、緊急時の私の瞬間転移などを行うには、今のままではまだ足りませんので、一つ、タナツサク様にお願いしたいことがございます」
「何でしょうか?」
「私と仮の契約が必要になります。今申し上げたのは所謂トリガー、引き金でございますので、それを機能させるための魔術的な繋がりを通す必要がございます」
「魔術的な繋がり、ですか?」
「ええ」
「契約…………悪魔と契約」
「そんな懐疑的な顔をしないで下さいませ。何も言葉巧みに騙して魂を奪ってやろうとか、そういうことではございませんから」
「はあ…………」
「というか、タナツサク様にはなんのデメリットもございません。そこまで深く、近く繋がる必要はございませんので、タナツサク様に私の名前、あだ名みたいなものを考えていただいて、私がそれを了承すればいいだけでございます」
「名前、ですか」
「ええ。では、どうぞ」
「ふぅむ」
そんなにいきなり名前と言われても。
あだ名程度のものだと言われても、考えつくものではないのだろう。
右手を顎に当て、考えること数分。
なんとなく皆で、果たしてナナメがどんな名前を考えつくのかと見守って数分。
彼女は、
「それじゃあハヨクで」
と言った。
「ほうほう、その心は?」
「……………………」
何となく言いずらそうな、渋い表情を見せるナナメ。
そこにフラトが口を開いた。
「聞きたいなあ、所以。自分の『魔眼』を『虹ノ眼』って名付けたタナさんの、その命名の理由、知りたいなあ」
「う…………」
「はーい。私も知りたーい」
エンカも手を上げて、おまけにぴょんぴょん跳ねながらこのふざけたノリに乗ってきた。
因みにトウロウは苦笑いを浮かべているだけに留めている。
「…………む…………ろ」
「「え?」」
ナナメが俯きがちに小さく漏らした言葉は上手く認識できず、フラトとエンカは自身の片耳に手を当てて、しっかり音を拾おうとするような大仰な素振りで、ナナメを煽った。
「這い淀む黒色――で、そこから言葉を抜き出して『ハヨク』です」
「「おお~」」
フラトとエンカが感心したような声を上げてぱちぱちと拍手まですると、ナナメは顔を真っ赤にしてフラトの脛を蹴った。
「いったっ!」
何故自分だけ、と思わなくもないフラトだったが、一応からかっている自覚もあったので、甘んじて受け入れた。
――這い淀む黒色。
ナナメがその『眼』を通して悪魔を見た際、『不快な黒色』だと表現していた際の印象が強かったのだろう。
「ふふふ、中々に不穏な意味合いな気がしますが、けれど、タナツサク様による私の認識が強く出ていそうでいいですね、仮契約に足る命名かと思いますので、了承いたしましょう」
と悪魔が受け入れた途端。
黒い粒子が悪魔の身体から立ち上り、その粒子郡が一つの流れを形成してナナメの左手首に集まり――小さく魔術陣のようなものを刻んだ。
「ちょ、これ…………何でこんなところに…………。内側っていっても目立つじゃないですか」
目を細めてナナメが文句を言うが。
「ふふふ」
「もぅ」
悪魔――ハヨクは笑うだけだった。
変更は認めないらしい。
ともあれ――ということで。
「んじゃ、ここでの用事はもう全部終わったかな」
エンカが言う。
「何か、忘れてたりしてない?」
その言葉に全員が少し考えたような素振りを見せてから、各々大丈夫というように頷いた。
何故ハヨクまで同じ様な仕草をしていたのかはわからないが。
「んじゃハヨク、出口まで頼んだー」
「畏まりました」
恭しく一礼したハヨクを先頭に、再び最奥の部屋へ。
何もなくなってしまったその部屋の片隅、そこでハヨクが右手を持ち上げる。
その手にはいつの間にか、どこからともなく取り出した杖が握られており、その杖の先端を床に軽く打ち付けて乾いた音を鳴らす。
かん。
と、目の前の壁の一部がスライドして開き、階段が出現した。
「こちらでございます」
そのままハヨクを先頭にして階段を昇ること数分。
四人は数日振りに地上を踏みしめた。
濃厚な緑と土の匂い。
見渡す限りの大木と繁み。
「ここは?」
「皆様が遺跡へ入られた場所から少し離れた地点でございます」
足下の階段はいつの間にか塞がっており、完全に風景、環境に同化していた。
「因みに今の通路は一方通行ですから、こちらから中へ這入ることは出来ませんので」
「って言ってもどうせ、どっか別の場所に這入るための通路も確保されてるんでしょ? じゃなきゃ、遺跡の主がわざわざ自分で仕掛けたものをいちいち突破して自身の住家まで戻らなきゃいけなくなるわけだし」
「ふふふ」
「そうやって薄っぺらく、意味ありげに笑っとけば誤魔化されると思うなよー」
辛辣なエンカの言葉にもしかし、ハヨクは相変わらずの微笑みで返していた。
「まあ、もうあの場所に戻る理由もないから別にあろうがなかろうがいいけど…………。んじゃまあ戻りますか。王都に」
「だなー」
「やっと帰れる」
「むせ返るほどの土の匂いが、今は懐かしくてちょっと涙が出そうになりました」
地上に出て、ようやく『遺跡攻略』が終了したんだという実感に安堵を覚えつつ、しかしまだ封鎖地域であるサワスクナ山の中。
四人は警戒心を失くさないように注意しながら山を下りる。
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