藤木和弘という男

(1)

 階段を早足で駆け上り、振り向いたところで敬礼する柴塚。


「お待たせいたしました。叶署刑事第一課の柴塚巡査部長です」


「うん、本部長の藤木です。ご苦労様」


 柴塚の引き締まった姿勢と声に対して、藤木はあくまで柔和な応対だった。


「今日は非番と聞いたので伺ったんだが、外出中だったんだね。呼び戻す真似になってしまってすまなかった」


「いえ、お待たせして申し訳ありませんでした」


 存外に気を遣われて、柴塚は逆に返答に窮する。何をどう切り出せばいいかを大急ぎで組み立てようとする前に、藤木の方から切り出された。


「まあ、色々聞きたいかもしれないが、場所を移さないかね? 近くにちょうど良い公園もあったことだし」


 穏やかに微笑んで、藤木は柴塚に近づき、すれ違って、階段へ足をかける。いっそ優雅と言ってもいい所作でそこまで進み、「妹さんに一声かけて安心させてあげなさい。先に行ってるよ」と言い残して、藤木は階段を下りていった。


 藤木の姿が階下へ沈んだところで、柴塚は携帯から奏へ一度電話し、奏がドアを開けた。


「本人だった?」


「ああ。少し話してくる」


「うん」


 後は戸締りして帰るなりするように言い残して、柴塚は公園へと向かう。

 公園手前までは走り、そこから早歩きに変えて公園内へ。平日の正午手前、そもそも探す必要があるような人数がいるわけもなく、視線を横薙ぎに払うだけで先着者は発見できた。

 勢いよく繁る楠の下、辛うじて日陰になっているベンチに、その姿はあった。『辛うじて』とはいうものの、日差しが凶悪なため陰は濃い。


 陰が、藤木の顔を隔てる。


 同じ公園内だというのに、先ほど小野寺と話していた喫煙スペースが、遠い。

 セミの狂声が、あちらこちらから自分勝手に沸き起こっている。何重にも被った瞬間は、鼓膜が間違って共振してしまうらしい。

 ほとんど傾きの無い直上からくだかたちの無い力場が、足下に広がる土塊つちくれやら砂礫されきやらを絶え間なく振動させている。柴塚人間には感じ取れないは、地面に潜んでいた霧を蒸気に変えて引きずり上げていくかのようだ。


 ゆらりゆらりと立ち上る陽炎が、藤木の姿を揺らしている。

 

 そちらへと手早く移動して、2歩分の間を空けたところで、柴塚は再び敬礼をとった。


「お待たせいたしました」


「いやいや、早かったね」


 足下から沸き上がる小さな乱気流が光をねじ曲げて像を揺らしシュリーレン現象を起こして、安定している上半身とを分かつ。

 土台が不安定にも関わらず、総体としては確固とした存在と向き合っている、とでも言おうか。もっとも、その声は険のない緩い空気のようで、一瞬、柴塚は現実感覚をいじくられている気分になった。


「理解が速い妹さんだ。学業でも優秀なんだろう――いや、お兄さんのことを信頼しているのだね」


 柴塚は「恐縮です」とだけ返した。

 

 ……余計な事は口走れなさそうだ。


 今、藤木は「学業」と言った。の進路を知っている。を把握している、ということだ。

 しかし、一方で、単にカマをかけている可能性もある。さて、どちら――


「K大学の文学部近代歴史学研究科の博士課程だったかな? 兄としても鼻が高いだろう。ご両親を亡くされてから縁者や施設で苦労された、が、よく兄妹共に立派になられた」


 ――も何もなかった。ばっちり調べ上げられている。

 これが、藤木和弘本部長、か。

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