第29話 新年。−3

 花田さんと付き合って、もう一ヶ月くらい経ったのに。今、木下さんとキスをしているのか…? そしてずっと俺の体についていた花田さんの匂いが、いつの間にか木下さんの匂いに変わっていた。まさか、俺が寝ているうちに襲ったりしたのか…?


「……」


 ところで花田さんはどこに…?


「うん? 答えてみてよ〜」

「いいえ。それはちょっと…、いくら木下さんの話だとしても…花田さんを裏切るようなことはできません」

「菜月のことがそんなに好きなの?」

「はい…。今日のことはなかったことにします…! もうやめてください…」


 倒れたまま、木下さんを見つめていた。

 ちょっと怒ってるような顔をしているけど、俺が言ってるのは何一つ間違っていない…。今は早くこの状況をどうにかしないと…、花田さんが帰ってくる前に木下さんを納得させないと…、俺が花田さんに怒られてしまう。


 それがとても怖かった…。


「どうして…?」

「はい…?」

「なんで、私の物にならないの? 私の方がもっとお金持ちだよ…? 私の物になれば、あんなバイト…しなくてもいいんだから!」

「いいえ…。そんなお金いらないんです…。どうして木下さんみたいなすごい人が私にそんなことを言うんですか? しかも、友達の彼氏なのに…」

「欲しい…」

「はい…?」

「菜月の前で甘える柏木くんが欲しい…、私にもあんな風に甘えてほしかった…」


 俺の体を抱きしめる木下さんに、捕まってしまった…。

 清水のことを思い出させるそのやり方…。木下さんから目を逸らすと、彼女は力尽くで俺と目を合わせた。全く…、こんなやり方は一体どこから学ぶんだよ…。


「やめてください…。木下さん」

「ワンちゃんみたいに私の前で尻尾を振ってくれない?」

「何を言ってるんですか…? 本当にっ…」


 それから何度も、何度も…木下さんにキスをされてしまう。

 俺は指一本も動かせないほど、精神的に追い詰められていた。どうして、俺にこんなことが起きるんだ…? 何もしてないのに、どうして俺だけがこんなひどい目に遭うんだ…。誰か俺に教えてくれよ…!


「どう? これでもダメ…?」


 お金持ち…、もし俺が木下さんに抵抗したらいろんなことで責められるかもしれない。お金は権力みたいなものだから、何もできなかった。


「なんなら、私とやってもいいよ? 菜月とやったことあるの?」

「もう…いいから、木下さん…」

「私は菜月とやったのか聞いたよ?」

「……」


 高橋さんが言ったのはこれだったのか…。


「その反応は…。もしかしてやったことないの…? へえ…、菜月とやってないんだ…!」

「なんで、嬉しそうな顔を…」

「だって、尚くんの初めてを食べるのが私だから…。嬉しくなるのが当然でしょ?」


 木下さんは俺の話なんか聞いてくれなんだ…。

 自分のことばっかり言ってる…。


「……」


 ガチャ…。

 静かにドアを閉じる菜月。


「私、柏木くんのその顔好きだよ?」

「……」

「好きだよ? 柏木くんも言ってくれない?」

「……」

「嫌です…」

「言ってよ!」

「……」


 なんか…、木下さんの後ろから人の気配が感じられる。


「でも、そろそろ菜月が帰ってくるかもしれないから…。先に連絡先を交換しよう! 後で連絡するからね?」

「いいえ。木下さんとは連絡したくないんです…」

「また断るの…? ひどいね…」

「ひどいのはあんただよ」

「—————っ!」


 その後ろから花田さんの声とともに、スパークの音が聞こえた。


「ナツッ…キィ…」


 目の前で倒れる木下さん、あっという間に気絶したのか…?

 そして倒れた彼女を見つめる花田さんは、あの時と同じ目をしていた。しかし、手に持っているそれは…、もしかしてスタンガン…? あんな物を持っている人が本当にいたのか…? 護身用で売っているのは聞いたけど、実際目の前で見るのは初めてだった。


「困る…。私の尚くんに手を出すのは困るよ…。シャイモンの木下エル」


 シャイモンなら、テレビで見たことあるあの大手コスメメーカー…?


「……尚くん?」

「は、はい…」

「私がいないうちに何かあったよね…?」

「……」


 彼女の手に握られたスタンガンを見て、俺はこの状況で素直に答えてもいいのかと悩んでいた。


「怖かったよね…? 尚くん」

「は、はい…」

「なんで、敬語? いつものため口でいいよ?」

「うん…」

「怖かったんでしょう? こっち来て! 私の尚くん!」

「うん…」


 これは俺のせいじゃないから、ちゃんと話せば分かってくれるはずだ…。

 そう考えていてもこの怖い感情は変わらなかった。目の前で人が倒れてしまったから、この高まる緊張感をどうにかしないと…。落ち着かないと…。何もしないから…花田さんは何もしないから…落ち着け、柏木尚…。


「……尚くん?」


 花田さんの赤い瞳を見ただけなのに…。なんだよ…このプレッシャーは。


「ごめんね。友達が変なことをしちゃって、びっくりしたよね?」

「う、うん…。ちょっと怖かった…」

「ごめんね…。こうするとは思っていたけど、エルが本当に犯すとは思わなかったよ…」

「うん…? 今、なん…っ…!」


 花田さん…?


「尚くん…、おやすみ…」

「はなだ…さん…」


 すごい衝撃に目の前がぼやけてしまう…。

 最後に覚えたのは…、花田さんに抱きしめられた時の温もり…。


「ど…うして…」


 俺はそのまま気を失って、倒れたと思う…。


「尚くん…、ちょっとだけ休んでて…」

「……」


 ベッドに尚を寝かせた菜月は、床に倒れているエルを睨んでいた。


「やはり、こうなると思ってたよ…。最初から私の物に手を出すつもりだったよね?」

「……っ」

「木下エルさん、私とお話をしましょう」

「な、菜月…」

「今から、私の物に手を出した罰を与えます。覚悟しておきなさい」

「菜月…」


 エルの髪の毛を引っ張りながら、静かに部屋を出る菜月。


「死なない程度でやってあげる…」

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