ジェノ

 喧しい。朦朧とした意識の中でジェノは静かにそう思った。見慣れた連中が競うように自分の名前を連呼している。


 腹部が熱い。剣は既に引き抜かれたようで体内に異物の存在を感じないが、これまでに経験がないほどのドロドロとしたモノを胸中に感じる。


 それは命の塊だ。吐けばすべてが終わる。


 だがジェノは我慢しようとは毛ほども思わない。醜い姿で治癒の魔法を泣きながら詠唱し続けているノアや、ありったけの秘薬を使って治癒の呪術を施そうとしているメルに悪いが、その程度で助かるほどリフィスに宿っていた呪いは甘くない。


 新品かつ純白の模造熾天使を用いても解呪は不可能だろう。神々が仕向けた呪いはそれほどまでに強力だった。


「どうして……。どうしてこんな……」


 霞の掛かった視界にリンの泣き顔がある。


 計算通りの、しかし計算したくなかった顔だ。


 可能なら全員がジェノを憎みきった状態で終わらせたかった。


 あいつは殺されて当然なことをした。いい気味だ。神様気取りの狂った奴め。そう思わせたかった。


 失敗した。3日前の夕食の席でもっと恨みを買うように挑発しておけば良かった。


 アリスの抵抗を許したのが間違いだった。いくら擁護してくれたからって、いくら嬉しかったからって、あの少女を自由にさせたのがダメだった。


 もっと上手くやれば全員が泣くことはなかったはずだ。ジェノは心からすまないと思う。


 とはいえ後悔はしていない。魔界の門を開こうとしたのも、世界を変えようとしたのも、紛れもない本心からの行動なのだ。


 こうしなければ、ノアかリンが死ぬことになっていた。


 3日前の広場でインテグラは言った。あたかも勇者暗殺の裏話を知ったような口ぶりで、


『教会は聖女様をハリボテの勇者に選ぶつもりだと思いますぞ。彼女の青呪術師や聖女としての知名度は申し分ないですし、正義感の強い少女が卑しい魔王に挑むという物語は民衆を虜にするでしょうよ。幸いにも教会は希有な秘薬を腐るほど持っていますからな。求めるだけそれらを渡して未公開の解呪本リカバーブックも付けると言えば聖女様は承諾すると思いますぞ?』


 インテグラの独白と称した私見をジェノは否めなかった。それは国王に関する話もだ。


『前大司教が献身の翼を勇者様に授けたというお話は教会幹部の中で有名と言わざるを得ませぬ。そして現在の教会は口と頭の軽いバカ貴族の巣窟ですからな。どいつもこいつも仲良しの王族に喋ったんでしょうよ。黒き勇者は第6の魔王に成り得ると』


『なるほどな。ノアが父親の真似事をするのではないか。今の内に排除しておくべきではないか。そう恐れた他国の王族どもがフェイン国王に圧力を掛けたという訳か。ノア・ハミルトンを抹殺せよ。さもなくば貴国が魔王を擁護したと見なし、各国で総攻撃を仕掛けるとな』


 愚劣とはいえ一国の主だ。フェイン国王はクラークを始めとした交友のある司教に相談し、形だけの勇者暗殺計画を企てた。


 しかし待てど暮らせどノアの死は報告されず、再び各国に責められたのだろう。


 ――なぜ国王が一国民に手を焼いているのだ。我々の敵に回る気か?


 だが打つ手がない。勇者として名高いノアに誰が勝てると言うのか。


 元を正せばハミルトンの管理を怠った教会にこそ非があるのではないか。その醜い責任転嫁の果てに誕生した計画が擬似的な聖戦だ。


 ただし目的はライルの読みと違って教会の人気取りではない。


 現実でも。物語でも。勇者と魔王は争いを避けられないのである。


『教会は擬似的な聖戦の後にノア様が魔王の実子だと各地で吹聴するでしょうな。そして、いかに彼が魔王らしくなくとも民衆の3割は退治を願ってしまうのです。世界人口の3割は教徒なのですから』


 噂の力は強い。ノアが危険という虚実は1年もあれば真実にされてしまう。


 その上、もし聖女リネットが魔王ノアと戦うことになっても実力的な意味での結果は見えているのだが、ジェノの読みでは確実に聖女が勝つ。


『国王や教会がリディアを人質に取ればリンはノアに挑むしかない。そしてリンの事情を知ったノアは敗北を選ぶに決まっているのだ。リンを悲劇に巻き込んだ責任を取るためにな』


 しかし首謀者は内情を知るリンを野放しにするだろうか。


 しない。するはずもない。今一度リディアを人質に取るか、山ほどいるリン以上の強者を雇って暗殺を謀るに決まっている。


 必ずだ。困った時のみ頭を下げ、用が済むなり拳を上げるのが王族である。歴史書を紐解けばそんな事例が憶えきれないくらい見つかる。


 初めはジェノが大司教を辞してリンやリディアの護衛になればいいとも思ったが、実際に各国が侵攻してきたら目も当てられない。無関係な人々が戦火に巻き込まれることをあの親子が許すはずもなく、ノアへの攻撃も継続される。それでは何の解決にもならない。


 だからジェノは企てた。すべてが解決される最良の方法を。


 リフィスとアルトは最強の魂と言っても過言ではない。


 その2種を保有していたからこそ第5の魔王は歴代で最強と評価され、教会も正攻法ではなく実子を向かわせるという搦手を使ったのだ。それ以外に勝利を手にする方法がないと判断して。


 よってジェノはノアにリフィスを授けようと思ったが、普通に渡しては意味を成さない。教会が弱体化したジェノを狙い始めたらノアを無敵にしたところで悲劇は起こってしまう。


 つまり。ジェノは先手を打ったのだ。


 ノアは最後の家族までも手に掛けたことで修羅のごとき覚悟を得るに違いない。


 仮にリンやライルが人質に取られたとしても、それを無視して敵対組織を潰す程度のことはやってのけるはずだ。


 なぜならノアはもう充分すぎるほど世界にうんざりしている。脅迫などの行為は彼の魔王化に拍車を掛けてしまうだけだ。


 ジェノは満足だ。これを機に各国の対応は確実に変化する。ノアの逆鱗に触れるようなことは1つもしないだろう。我が身可愛さで自尊心を捨てるのもまた王族の得意技だからだ。


 これでノアの心配はなくなった。


 ただ、死に際になっても解けていない疑問はある。


「……なぜ。なぜ父上は。アルトでなく。リフィスを私に授けたのだろうか」


 今回の騒動はリフィスをノアに授けていれば起こり得なかった。


 アレックスがそうだったように、大司教のジェノならアルトを保有していても教会や各国に忌み嫌われることはなかったと思われる。


 また各国が勇者の暗殺を目指す確率も著しく低かったに違いない。


 各国が恐れているのはノアでなく魔王。堕天使の保有者なのだから。


 ノアがリフィスを、聖なる力を手にしていればこうはならなかったかもしれない。


「……分からないの?」


 リンが涙色の声で言った。教えて欲しい。ジェノはただリンを見つめた。


「父親だからよ。あなたのお父さんは養子とか実子とか関係なく平等に息子達を愛してたの。だから心配したのよ。父親思いのジェノが遺志を継ぎはしないかって」


 リンは溢れる涙を拭い、だが拭っても拭っても瞳に涙が集まっていく。


「正義感の強いノアよりもステラ様の件を気にしてるジェノの方が危ういわ。何かを契機に魔王の道を進む可能性がある。だから世界を守る力を授けたのよ。自分と同じ道を行かないように。あなたのことが大事で大事でしょうがなかったから」


 霞の掛かった視界がさらにぼやけた。左右の頬を熱い何かが伝っていく。


 所詮はリンの推論なのに、それでもジェノの心に父親の愛は深く染み渡った。


「ノアにアルトを授けたのは。実子に遺志を継いで欲しかったからとも解釈できる。父上が私を後継者に選ばなかっただけなのかもしれん」


 無意識に反論してしまった。が、リンは聞き分けのない子供を諭すように優しく、


「バカね。ノアならグレても問題ないからアルトを渡したのよ」


「……なぜだ?」


「だってハミルトンの家には頼りになるお兄ちゃんがいるでしょ?」


 否定するのは不可能だった。なのでジェノは精一杯の減らず口をたたく。


「……ノアが魔王を目指していれば。私は一緒になって暴れていたと思うがな」


「ジェノの嘘は初めて聞くなぁ」


 リンの微笑を眺めながらジェノは思った。止めたに違いない、と。


 なぜならアレックスがノアを誘わなかったからだ。きっと望むところではなかったのである。


「リン。頼みがある」


 ジェノがそう言った途端、どこからともなく光の塊が飛んできた。リフィスだ。


「手伝ってくれるのか。最後まですまないな」


 リフィスは血塗れの懐に侵入し、やがて掌に載るほどの小箱を光で包みながら出てきた。主の手まで運び、ジェノが震える手をリンに向ける。


「終の願いと共にアリスに渡してくれ。不格好だが許せとな」


 リンが頷くのを確認してからジェノは両目を閉じた。


 今度はメルに話し掛け、その次はライルだ。愛する弟の名を発した頃には自分が何を言っているのか分からなくなっていた。


 苦しみはない。ノアを残して逝くのは忍びないが、さほど心配はしていない。つい先程に弟のことを頼むと生意気な少女や心優しき熾天使に伝えたから。


 心残りがあるとすれば。


 国王に言ったあの言葉をあいつに伝えられなかったことだろうか。


『姫をやる? そんなものは要らんよ。私には生涯の伴侶にと決めた女性がいる』


 笑える。過去に縁談を持ち掛けてきた貴族達が一斉に間抜け面を見せてくれた。貴様らの娘は揃いも揃ってあいつに劣ると言ってやることがああも心地良いとは思っていなかった。


 不意に出会った当時のアリスの顔が思い浮かんだ。


 今とは違って両目を開け、今とは違ってまったく笑わない童顔。


 思えば随分と表情が豊かになったものだ。


 最愛の人を思い浮かべると、様々な感情が溢れてくる。


 結婚式を挙げたかったな。


 子供を一緒に育てたかったな。

 

 一人にして、悪いな。


 残酷だとは分かっているが、幸せになってくれ。


 あぁ。


 最後にもう一度。もう一度だけ。抱きしめたかった。


 自分勝手なことを考える内に、少しずつ楽になっていく。


 魔法の飛行とは違った、身体が浮くような感じだ。徐々に音も聞こえなくなる。


 まもなく意識が暗闇に埋もれ、ジェノは最後に一組の夫婦を見た。


 お久しぶりです。迎えに来てくださったのですか。


 ジェノは童子のような笑顔で手を振った。心から愛する父と母に。


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