3
燐と巽に会う前に、多少は身綺麗にしておこうかと、不知火を連れて風呂へと向かった。早朝だからか人はおらず、檜で作られた風呂釜は磨かれて綺麗だった。獣状態で洗ってやろうかとも思ったが、誰かが来てはいけないのでやめた。
桶の湯をかけてやる際に、肩口の傷跡に目が向いた。
「ああ、これは、崖から落ちた時の、怪我らしいよ」
「崖?」
話してないっけと言いながら、不知火は湯で濡れた頭を振った。
「母さんは、おれごと崖から落ちたんだ。落とされたのか、落ちたのかは、わからねえけど、母さんはそれで死んじまったし、おれのはその時に擦ったんだろうって、父さんは言ってた。痛くはないよ、動かないってわけでもない」
そうだったのかと思いつつ、不知火の肩を撫でた。ぐるりと振り向いたかと思えば顔を舐められ、悲しい味だとの感想をもらった。
私の村にあった書物と、不知火が父親から聞いた話は、どうしても食い違っている。旅を続けていれば、どちらが本当であるのか、どちらも本当ではないのか、わかる日が来るだろうか。
しんみりしてしまった。不知火は気にした素振りもなく、湯を舐めて変な顔をしていた。
あまり待たせるものでもないので、風呂を出てすぐに待ち合わせ場所へとやってきた。二人の姿はないが、私たちがいると確認してから訪れるとは聞いていたので、欠伸をする不知火と並んで宿前に立った。巽が何処かから見ているのだろう。空を仰いで探してみたが、屋根の上にも、空の中にも、それらしい大きな鳥は見当たらなかった。
手持ち無沙汰だった。まだ気が付いていないのだろうかと不思議に思いつつ、一先ずは待つかと軒下の影に移動した。
「ハル、その、リンとタツミってのは、どんなんだって言ってたっけ」
不知火が辺りを見回しながら、暇を持て余したように聞いてきた。
「燐さんは細身の女の人や。巽さんは灰色の翼が綺麗な大きい鳥で、鷲に似てる気はしたけど書物でも見たことのあらへん形やった。俺の言うこともわかるみたいでな、真っ赤な嘴が目を引く鋭さで……羽は触らしてもろたけど滑らかで触り心地が良かったわ、はよ不知火に紹介したい」
「うん、会いたい。リンって人も、興味あるよ」
なんだか意外に感じる。肝の据わった印象だったため食用には向かないと言えば、食べはしないと言い切った。
「タツミは、多分おれみたいなもんだと思う。そんな匂いが、昨日タツミに触ったあんたからしたんだ。そのタツミがリンと一緒にいるんならさ、リンはハルみたいなもんなんだろ。じゃあ、食っちまったら、タツミが怒る」
「それやと、俺が何かに食われたら、不知火が怒るという話になるけど」
「そりゃあ怒るよ。ハルは、おれのだ」
言い切られてどきりとする。
「俺が不知火のものなんはええけど、燐さんと巽さんがどういう経緯で一緒にいてるんかは、俺もよく知らんよ」
誤魔化しついでに事実を述べると、不知火は頷いて路地の先を見た。
「だから、聞いてみたいんだ。おれとハルもそうだけど、父さんと母さんだって一緒にいたんだし、リンとタツミも二人で過ごしてるんなら、おれたちとあんたたちは、まるで一緒にいられないってわけじゃあ、ないんだ。なら、おれとあんたが二人で過ごすためにどうすると一番良いのか、リンとタツミが相談に乗ってくれるかもしれない」
いつの間にかそこまで考えるようになったのかと、驚いた。路地の先をじっと見つめているその瞳は真剣だ。一抹の寂しさがふっと滲む。いつかは私の手を離れてしまうような、独りよがりの寂しさだ。
しかし、それに勝る嬉しさがある。私と共にいたいと思ってくれている気持ちが、充分に伝わってきた。
頭を撫でてやろうとするが往来なのでやめて、代わりにありがとうと感謝を述べた。不知火はきょとんとした顔で私を見た。
「なにが、ありがとうなんだ」
「色々や、いつも、ありがとう」
不知火はよくわからないと言ってから、私の肩に頭を押し付けた。路地を歩く旅客がちらとこちらを見たが、そのまま通り過ぎて行った。
「……、にしても、遅いな……」
外を歩く人の数はどんどん増えている。早めに到着したと思われる客もいるし、海辺が比較的近い場所だからか、魚や乾物売りの商人もいる。遠くに見える宿場の中心部は更に人が多いようだ。燐と巽のような芸者でも来るのかもしれない。もう昼時が近いのか、食事処が暖簾を出し始めている。
流石に、異変を感じた。二人の性格をよく知るわけではないが、簡単に約束を反故にする理由はないだろう。特に燐は、不知火の存在を把握して、警戒する素振りがあったのだ。直接確かめに来そうなものだが、どうしたのだろうか。
ううん、と思わず唸る。背後の宿を仰ぎ見て、客室の窓辺を確認してみるが、それらしい姿はない。
一度宿の人間に、燐の部屋を聞いてみる方が早そうだ。中へ戻ろうと動きかけるが、腕を掴まれ止められた。
「ハル、灰色の鳥だって、言ってたな」
不知火が私の腕を掴みながら、低く呟くように聞いてきた。
「ああ、おったか?」
「いねえけど、あった」
何が、と聞くよりも早く、不知火は宿の屋根へと飛び乗った。近くを通りがかった人々が、彼の身体能力に対して歓声をあげた。聴衆が増えるのは、良くなかった。早く戻れと叫ぶ前に、不知火はひらりと降りてきた。
「何をしとるんや、どうした?」
「これ、タツミだろ」
不知火の手には、大振りの羽根が握られていた。片側は薄い灰色で、裏側はほとんど黒に近い鉛色だった。
巽のものだとすぐにわかった。不知火は匂いを嗅ぎ、眉を寄せてから、私を見た。
「これ、おれが見つけると思って、自分で抜いていったみたいだ」
不知火と、数秒見つめ合った。何か問題が起きたのだと察するには、充分すぎる置き土産だった。
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