第9話 外れた首輪

 エーギル・レッドクラブ。そう名乗った男は胡散臭さの塊のような相手だった。ノルンが「博士」と呼んだので、研究者であることは間違いないようだ。痩せぎすで不健康そうなエーギル、エボに負ける要素はない。


 だがエボはエーギルの気配を感じ取れなかった。エボが感知できなかったのはこれで三人目である。エボは己の能力への自信を失いつつあった。



「……初めまして、エーギル殿。王国軍一等兵、エボ・グリムハートです。いつからそこに?」


「おお、怖ぇ。んな怒んなよ。そーだな、特定魔物被災種族のとこからかな?」


「盗み聞きなんて最低。人間の屑」


「んなこと言ったってよ、ノルン。オレだって王国の猟犬に会ってみたくてよー」



 エーギルの発言にエボは目を細める。嘘臭い。最初から聞かれていたと考えて話すべきだろう。加えて二つ名まで知られている。


 何か目的があって近づいてきたに違いない。エボは警戒を強めた。



「……エーギル殿は研究員だそうで。どんな研究を?」


「ん」



 エボの質問に言葉も発さず、エーギルは積み重なった本に指を指す。本の表紙にはエーギルの名があった。エボは思わず二度見する。



「魔物の研究者! 王国に魔物の研究機関なんて聞いたこともないですが?」


「公表されてないだけ。エボくんの大嫌いな狼蜘蛛おおかみぐもだって、当然研究してる」


「……どこまで俺のことを知っているんですか」


「十三年前の狼蜘蛛おおかみぐも襲来での魔物災害孤児ってことぐらいかな? それにほら、何度も軍に魔物討伐案を出してるっしょ。そりゃオレの耳に入るよねー」



 エーギルが白衣の懐から紙の束を取り出す。それはエボの出した嘆願書だった。


 わざわざ持ち歩いているとは、とエボは苦笑する。



「そうですか。それで、魔物の殺し方は分かったんですか?」


「そう急かすなよ。ま、先に答えてやるか……結論から言えばムリ。いくら削っても復元するし、そもそもサンプルが手に入りにくいのが痛いね」



 エボはため息をつく。所詮こんなものか、と。そもそも機関が公表されていない時点で大したことが分かっていないのではないかという疑念はあった。落胆は小さい。


 そんなエボの態度に、エーギルはにやけ面をやめて顔を近づけた。



「てか、その聞き方。まるで自分は知っているみたいな言い方だな?」


「……そんなわけないでしょう。知っていたら、とっくにぶっ殺してます」



 しばしの間、沈黙が場を支配する。エボは何も話さない。ミシャから聞いた情報を与えるつもりはなかった。約束だから、だけではない。ミシャはまだ何か隠していることがある。聞き出す前に姿を眩ませられたら、もう二度と見つけられない。そんな予感があった。



「それもそうか。ところでエボくん。オレのところで働く気はないか?」


「俺は軍人です。科学の知識はないですよ」


「それじゃその体、ちょいと調べさせてくれるだけでもイイんだけどさ」


「それが狙いですか。話すことはもうありません。さようなら」



 エボは立ち上がり、書庫から出ようとする。自分の体の謎は気になるが解剖されるつもりは毛頭ない。



「ああ、冗談だってジョーダン。ジョーク。鬼神みたいな強い体には興味はあるけど、でもそれはまた別。君の怪力が借りたいんだよぉ」


「お断りします」


「そう言わずに、さ。協力してくれたら、これまでの魔物についての研究資料を見せたげるよ。あとはそうだなぁ……軍を動かして魔物討伐、とか」


「……な!?」



 振り替えったエボはエーギルの目を見る。本気の目だった。


 魔物の研究機関の人間がなぜそんなことができるというのだろうか。ふとノルンに視線を移す。ノルンはエーギルのことを博士と言った。助手ではなく、このエーギル自身が主任である可能性は極めて高い。


 だが、それでも。魔物に軍隊をぶつけたところで意味はないとエボはすでに知っていた。



「お断りします」


「……あっそ。ま、別にいいけど。あーもったいねー。まじもったいねーなー」


「博士、振られた。いい気味」


「るっせーぞノルン! ……おい、猟犬。それじゃ最後にいいこと教えてやるよ」



 部屋の扉に手を掛けたエボに、エーギルは口の端が切れそうなほど嗤う。



狼蜘蛛おおかみぐも、王国の近くまで来てるぜ」




 * * * * * *




「おかえりエボ義兄さ……義兄さん?」



 帰宅を知り迎えに行ったルーナは、目を血走らせたエボにたじろぐ。


 何も返さずにエボはずかずかと一直線に突き進む。二階、三階へと昇り、向かったのは義父の書斎。扉を力任せに開け放ち、テュールの座る机をバンと両手で叩いた。



「テュール隊長殿。狼蜘蛛おおかみぐもが王国近くまで来ているのは本当ですか」


「はぁ……誰が漏らした。ブルバンではあるまい。ヴァーリか?」



 テュールはやれやれと首を振ると、手に持っていた書簡を机に置く。顔を上げ、今にも殴りかかってきそうな息子に目を向けた。



「そんなことはどうでもいいでしょう。知っていて黙っていましたね」


「お前が策もなしに突っ込んでいくのが目に見えてるからな。息子の自殺を止めるのが、そんなにおかしなことか?」


「どこで目撃されたんですか。場所は? 何か手は打ってるんですよね?」


「話を聞いていたか? 教えることはできない、機密情報だ」


「そんなことはわかってます。で、場所はどこですか?」


「……はぁ。わかってはいたが、ここまで話が通じなくなるとは」



 テュールはエボの手に目を向ける。腕の裾には血がついていた。おそらく誰か殴ってきたのは明確。屋敷の侍従たちに手を上げたのではないだろうが、あのヴァーリが殴られたとも考えにくい。だとすれば、やはりヴァーリから情報が漏れたのではない。加えて、そいつは口を割らなかったと見える。


 どこの間抜けが口を滑らせたのだと、テュールは頭を抱えた。



「……この書斎ひっくり返せば指令の一つでも出てきますか?」


「諦めろ。当然、全て暗号化している。お前が知らない暗号だ」


「まあ、ですよね。テュール隊長なら、そうする。だったら、もう、いいです」



 書斎から出ていこうとするエボにテュールは飛び掛かる。首に腕を巻き付け、頭を抱えるように体で覆う。振り下ろされないように、足は胴を捉えていた。頭に血の昇っていたエボは突然の襲撃に対応できず、完全な形で技が決まる。


 だが、テュールの力をもってしても、その首を絞めることは叶わない。首の周りが固い鉄で覆われているかのようだった。



「……流石、軍神と呼ばれた人ですよね。椅子に座っていたのに、こんな攻撃ができるなんて。剣が折れても戦えてこそ軍人、でしたっけ。でも前線を退いたアナタが俺を止められるはずもない」


「やはり、無駄か」


「離してくれませんか。俺はこのまま街を歩いたって構いませんよ」


「もう日は暮れている。夜遊びになど行く息子は親として止めねばなるまい」


「アンタは! 俺の父親じゃねぇよ!」



 エボは頭をぶんと振り回す。その勢いはロデオの比ではない。ましてや片腕の健が切れていては摑まり続けることは不可能。テュールは壁に叩きつけられ、地面へと転がった。辛うじて受け身を取っている。それでも立ち上がれないほどのダメージがあった。



「か、はっ……」


「……俺の父親は、アレに食われちまったよ」


「ま……て。行、くな。エ……ボ」


「お世話になりました、テュール隊長殿」



 地面に横たわるテュールを背にエボは書斎を出ようとすると、背後にはルーナがいた。両手を広げ、出口を塞いでいる。その脚は震えていた。



「エボ義兄さん、行かないで」


「……ごめんな。ルーナ」


「待って!」



 走り出したエボは窓を開け、薄暗闇の空へと飛び出した。慌てて下を覗いだルーナの瞳に、エボの姿は映らない。すでに走り出していたエボの姿をテュールだけが捉えていた。


 エボを呼ぶ声は吹き抜ける風に攫われる。テュールは泣きだす娘を抱え、空を仰ぐ。削れた月が雲間から覗いていた。

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