最終話 休符



 十月に入って、二谷先生が学校を辞めるという噂がたった。

 二学期が始まって一か月経つのに、先生は学校に来なかった。音楽の授業はことごとく数学や英語に切り変わる。


「もう勘弁してほしいわ。だってさ、夏休み、センセイと結構仲良くなったが?あれ、なんだったん?」

 杏は数学のプリントを机に広げ、悶々としていた。杏の本音は、先生がどうこうより、数学より音楽の方が「まし」なだけだ。

 それに先生と仲良くなったのは、いなくなって寂しいのはどちらかというと、自分ではなく。


 …ボタンは無言だった。三年生の一年間だけ着るために新調されたであろう中学の制服はまだボタンを包むのに慣れていない。今月着始めた長袖ブラウスはまだ、なおさらだ。


 まだまだ暑い。けれど空は高く青く、秋めいている。


 少し開けた窓から音楽室のピアノの音がして、ボタンは思わず窓を全開にする。渡り鳥が方向を知るように、風の匂いを嗅ぐ。


(音だ。この音だ)

 

 嗅いだのは耳で、聞いたのは手のひらだ。新しすぎるブラウスの袖口から伸びる新しく細い手は、風を撫でる。仲間がいないと、方向を誤ると、生きていけない渡り鳥は全身の感覚を研ぎ澄ます。ひとりきりになった時、となりを飛ぶ蝶に歌を教わった。

 疲れた時に歌う歌。

 ボタンは急に立ち上がると走り出す。

「ちょっと、どしたん」

 続いて杏も走る。音楽室のピアノは止まない。弾いているのは。

ボタンも杏も、聞き分ける耳を持っていた。

「先生」

 えんじ色の古びた絨毯敷きの床の上に、莉子先生のクリーム色のスカートは広々している。音楽室でもどこででも、ピアノの椅子を覆い尽くして堂々としている。

「先生」

 ボタンはもう一度呼ぶ。

「先生」


 ようやく莉子先生はピアノから顔を上げ、わたしたちに気が付く。

「先生は。先生は。いなくならないで。音楽だけ置いて、行ってしまわないで」

 となりを見ると、ボタンはこらえきれない涙を拭っていた。いつから泣いていなかった涙なのか、辺りは涙で海になる。

「どうしたの」

 莉子先生は、優しい先生のかおをしていた。それが人形だと誰かがいったかおなのか、それとも本当の先生のかおなのか、確かめた人にしかわからない。

「辞めるって、誰か言ったの?わたし、辞めないわよ」

「だって先生、ずっと来なかったから」

「ああ、ちょっと旅行に。日本一周旅行に行っていたから」

とんちんかんな先生の答えは、ボタンをぽかんとさせる。


「やめないわよ。だってわたしまだ、練習しないといけないもの」

 ピアノの鍵盤に指をゆったり伸ばし、肩の力を緩めて深呼吸する。ちょっと日焼けした先生の横顔はきれい。

「わたしは、ずっと何者かになる練習をしてきたの」

 骨ばった指。妙に揃った前髪。広すぎるスカート。そこだけ逞しい足首。

 先生は後の言葉をうまく口には出せなかった。

(頑張って頑張って、何かになれたら。でも、なれなかったら?)

(呼吸をやめたくなった。今まで何度も)


「息を、止めてみる。すると、耐えられなくて、余計に吸ってしまうのよ。だから余計に吐く。繰り返していくと、何故かさっきより楽になっている。吸って吐いて、のその後に、一瞬空白があるの。何もしないその瞬間。お休みの記号。休符があるの」

 その時に、聞く。聞き逃した自分の気持ち。誰かの気持ち。その時しか、聞こえないから。

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ラビット ランド 机田 未織 @mior

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