第32話 告白②


 ほぼ顔を合わせない父の顔は覚えているようでいつもわからなくなる。今日は父の日で、お父さんの顔を描いて明日学校に出さなきゃならないのに。父の大きな手は仔ウサギを渡すと、「おまえのだ」と言ってまた朝早く仕事に行ってしまった。


 その日からミミの世話は僕の役目になった。

急に「ぼくの」になったウサギは身に覚えのない成り行きに戸惑っているようだった。最初はのらりくらりと闇雲に哺乳瓶をくわえていたミミも、日が経つにつれ哺乳瓶がなくても僕に寄り添うようになった。僕はミミが大好きになった。

その頃、今とは似ても似つかない僕は、どこにも権力を持っていなかった。ただの「か弱き存在」だった。

 歳の離れた兄たちは僕を都合の良いおもちゃのように扱ったし、母は僕が兄たちに比べて貧弱なのが自分のせいみたいに謝るだけだった。

父はそうなってほしい未来の形から僕がずれつつあることを後悔しているようだった。

ミミがまず、外を駆けまわる大型犬ではなく、家のなかで丸くなるウサギだったこと。ぼくがどんどん家の中で一緒に丸くなること。そのウサギを渡したこと。それらを父は、あとになって悔やんだみたいだ。


 ぼくが小学生高学年になると父は、自分が見ていなかった一週間のことを報告しろ、と僕に強要した。

 報告は別に口で言わなくてもいい、と、間もなくわかった。 

父の前に一週間分のノートと、テスト類を並べておけばいいのだ。

 父は僕の、ごく一部に興味があるだけだった。よい成績を修めて、男子として恥ずかしくない進路をとること。

 父の部下と同じ部分で僕は評価される。見たんだ。部下が仕上げた報告書。何が書いてあるかさっぱりわからなかったけど、下にいくにつれて数字がどんどん多くなっていく表だった。効率が大事なんだ。僕が効率よく成長し、効率よく成績を上げること。僕は父の部下と話がしてみたいと思った。父の机の上で重なり合った僕のノートと報告書。募った親近感が、一週間の報告をする時の僕の支えだった。


 ミミの存在は僕にとって、それだけで完結していた。

 僕の存在はいつまでたっても完結しない。欠陥品で生まれてきた僕は父の評価に値する人間には程遠い。

 ミミの静かな息の音。

 僕は眠る時、一定のリズムで繰り返されるミミの呼吸が、どこかに新しい世界を少しずつ創造しているのではないか、と思った。それはこの世界とは違う方法で空間を膨らませる。そこにはこの世界とは全く違う価値観がある。

 ミミがふいに呼吸を止めたら。

 ミミはその世界を閉じ込める。

 想像力はそこで限界だった。

 僕はふっと眠りに落ち、ミミの作った世界の入口で、自分自身の「価値」を全て並べる。どれも、生まれてから少しずつ持たされた持ち物だった。どれが大事で、どれが不必要か、自分ではわからない。

 でもここでは、とりあえず全て、地面に下していい。それで自由になって、自分のかたちを再確認する。他人が僕に見出す価値が、僕の価値だろうか。


 じゃあ、僕が僕に見出す価値は。

 そんなものがあるだろうか。

 僕がこの家で僕のかたちをしてここにいることが、家族である印なんだろうか。もし僕が僕でなくなっても、大事にされるかどうか不安だった。例えばウサギなら。明日の朝、ウサギになっていたら。

 おそらく父は気が付かないだろう。そうして僕を探し続けるだろう。価値ある僕を探し続ける。僕がすぐ近くでじっと見つめていても、それが僕とは気が付かないだろう。


 ミミはある朝死んでいた。普通のウサギよりずっと短い寿命だった。

 虚弱だったから仕方ない、と父は言った。

 ミミが死んだとき、はじめて「誰かを失ってもう二度と会えない」時の気持ちを味わった。それが「悲しみ」だと知った。

 悲しみは一種のエネルギーを消耗した。それは僕にとって猛烈な消耗だった。それが巡り巡って自分自身の糧になるだなんて殊勝なことを思えるわけがなかった。

もっと十分に悲しむ時間があれば、何か違っていたかもしれない。

涙をぬぐう余裕もなく、僕には塾に向かう時刻が迫っていた。

「何で泣いてるの」

 プラスチック製の塾の教室で、こどもたちは冷ややかに尋ねた。

「別に」

 ミミが死んだんだ。そう話したところで誰が共感するだろう。彼らがここにいるのはただ、成績をあげるためであって、日常の出来事を共感するためではないのだ。いじめもない代わりに完全に感情を排除した場所。放課後の大部分をここで過ごした。 仮に、他人に自分と同じような感情が存在するとして、ここはその感情自体に蓋をして、それ以外の感覚で過ごす場所。それ以外の部分が、大きく人生に関わる。脳の神経ニューロンの繋がりをより複雑に、活発に。


ミミは死んだ。

ミミはウサギ。ミミ、ウサギ。ウサギの名前。僕の、一緒にすごしたウサギのなまえ。

そういう回路を作ってそれでおしまい。

もういない。ウサギのなまえ。


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