第28話 余白

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【ある年の冬。いつまでも海が荒れ狂い、海辺の家々も舟も、吹き付ける波しぶきが全てを飲み込むような厳しい冬。「神様はお怒りだ」人々はそう信じていました。そうして、何羽ウサギを捧げても、神の怒りが鎮まる様子はありませんでした。


 誰かが

「毛皮売りのせいだ」

 と言いました。

 すると口々に、「そうだそうだ」「違いない」と聞こえてきました。

 誰かが

「お望みはウサギではないんじゃなかろうか」

 と言いました。

 すると人々は「そうか。ウサギなどではないのか」と言いました。


「きれいな娘が欲しいのだ」


 聞こえてきました。確かに、誰かが言ったのでした。

 毛皮売りは「ではきれいな娘が必要だ」と言いました。

 からっぽの小さな舟を造りました。丁寧に美しく。

 きれいな娘が連れられてきました。村にいた一番美しい娘でした。

 その船が神に届いた次の日から、海は穏やかになりました。】

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「これ、杏が作ったん?」

 朝、居間のコピー機から出力した紙が床に散らばっていたらしい。昨晩プリントアウトの操作をして、そのまま眠ってしまったのだ。

「ごめん、つい、読んでしもうた。…白兎屋の物語?」

遅くに起きてきた杏にひきかえ、母の一日はすでに折り返し地点らしい。もうあらかた掃除機をかけている。


「…ねえ、『誰か』って、誰だと思う?」

杏の問い掛けに、桃子が掃除機のスイッチを消したから、急にしんとなる。

母は答えない。


「誰か?…ええっと、この文章の中の?」

 母は掃除機を置き、拾い上げた紙を繰って、どれどれ、と読み始める。


「毛皮売りが生け贄の娘を型舟に入れたんだよね?やっぱり、罪に問われるのは実際に生け贄の娘を、ウサギたちを、海へ流し続けた毛皮売りだよね?いくら誰かが提案しても、それを実行した、止めなかった」

 桃子は何も言わない。


「鳥居があちこちにあるの、見るが?」

 母はそう、切り出す。

 何を言い出すんだ、と杏は訝しげに母を見つめる。


「ウサギは海を鎮めるために生け贄として神にささげられた。そして海から山を駆け上がってくる恵をもたらす風のことを群レウサギ、と言う。ウサギは神となって戻ってくる、と言われた」

 母は一呼吸置く。

「…でもな、始めからウサギはかみさまだったんじゃないんかな」


(始めから?生け贄になる前から?)


「神様はでも。神様が、ウサギを欲しがる、って設定じゃが」


「神様は自分を犠牲にしたんよ。海の向こうに神様はいなくて、こっち側におったん。ウサギじゃったん」


 —生贄のウサギは立派な左右対称の耳を持っている。その耳に大きな孔を開けられる。あの世とこの世、両方の声を聞くために—


「ウサギは、神様に『仕立て上げられた』、という表現の方がいいんかな。神様にしてしまえば、感情も欲も、痛みも全部なしの、超越した存在だと思い込めるもんなあ。そっちの方が、こっち側の、生きてる側が、楽じゃもんなあ」

 だんだん独り言のように内へ向かって発せられる言葉は多分まだ桃子自身も納得しきれていない。

「生け贄なんて、ほんとうは止めたかったん。でも『誰も』言わんかった。『誰か』がほしいと言うから」

 今ここにはふたりしかいないのに、重かった。ここまで続いた全員の「毛皮売り」の目で見張られているくらい、重かった。


「いや、誰か、のままじゃいけん」

 桃子は唐突に言った。

「やっぱり、はっきりさせんと、いけん」

ふうっと息を継ぐ。

「自分じゃないって思いたかった。おまえのせいだとわめかないから、ウサギだった。舟に載せる時暴れても抑えられるから、幼い娘だった。何も言わないから聞こえないふりをした。何も言わなかったから弱い存在だと片付けた」

 桃子は杏に、ウサギのところに行ってみよう、と外へ出た。


「聞こえる?」

「何が?」

「ウサギの声」

 ふたりでじっと耳を澄ます。

「静かに」

これ以上どう静かにすればいいのか。

「何て聞こえる?」


 静寂は輪をかけて二人を包む。ウサギが発する以外の音が次第に濃く強い存在感で浮かび上がる。

唐突に母は声色を変えて言った。

『あたしらを預かったくらいで罪滅ぼしだなんて百年早いわ』

「いや。違うな。そんな軽くない」

母は今のは取り消し、と宙を振り払う。

『ずっと聞いてほしかった』

『なかったことに、しないで』

 母はそこですいっと杏を振り返り、心配そうに言った。


「もしかして学校で、誰かに言われたん?生け贄をしてた家だとか。なんだとか」

「ううん。誰も言わない。きっと、知らない」

「そうよなあ。わたしが子供の時も、そんなの話題にもならんかった。島自体の負の歴史っていうんかなあ。大人が伝えんかったら子どもに伝わらん。当たり前じゃけど」

「伝えないと、いけんこと?」

「それは、杏が決めたらええ。杏がおばあちゃんになった時、考えたらええんよ」

「わたしの考えは、」

 杏は自分の中身を点検するように目を閉じ、諦めて打ち明ける。

「わたし、気持ちがどす黒くて汚くてどうしようもなく鋭い刃物みたいになることがあって。やっぱり、生け贄に関わってきた家の子だからなのかなって」

 杏は今まで衝動的に転換する自分の気分や思考を何とかコントロールしたくて書き連ねた文字を思い返す。拙い文章でまとまりもしない言葉たちはだけど、何とかそこで、その白いノートの上だけで鎮まろうと杏を押しとどめてきたと思う。

「そんなん。母さんもいつもそう。鬼みたいな言葉も行動も選択肢にいつも並んどる」

 意外だった。娘を安心させるために合わせているだけだろうか。余裕しゃくしゃく、という言葉がぴったりの母なのに。

「年長者のアドバイス、ができるとしたら。杏のその、『白いノート』を、ぎゅうぎゅう詰めにせんこと、かな」

桃子はいたずらっぽく杏に笑った。

「余白をとって、そこに潜んでいるはずのウサギたちにじっと耳を澄ますん」

「澄ますん?」

「そう。澄ますん」

「杏のノートは、母さんにとってそれは、最中のなか、かな。からっぽの方の」

「何にもない方の最中のなか?」

「そう。そのからっぽの中で、聞いてみるんよ。いつも母さんはじっと」

遠くを見つめた母は俄かにぱん、と手を打ち鳴らし、言った。


「一緒に作ってみる?」


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