第80話 跡
「要さん、明日お客さんのところに行くんですけど」
夜、就寝前に歯磨きをしたところで、胸元にうっ血した跡があることに気づく。
もちろんつけたのは要さん以外にない。
「襟が開いたシャツを着るの?」
「流石にキックオフなので、ちゃんとスーツを着ようと思っています」
「この当たりがライン?」
首筋から胸元に掛けての肌の上を要さんの指先が辿る。
「そんな感じです」
跡がついているのは胸に近いあたりで、明日着るスーツ用のシャツは、襟が開いているのでぎりぎり見えるか見えないかだろう。
「じゃあそれ以外だったらいいんだ」
要さんに背後から抱きつかれてベッドに引き込まれる。
腰元からキャミソールを押し上げられ、そのまま胸の下に唇が触れる。
しかもわざと跡が残るように要さんは強く吸い付いてくる。
「要さん!」
「ちょっと匂わせておこうかなって思って」
「誰に対してですか」
「だって、紗来ちゃん、今逆ハーレム状態みたいでしょ?」
何のことを言っているのか検討もつかなかった。
「紗来ちゃんの今のプロジェクト男性ばかりじゃない。しかも全員未婚だよね?」
「未婚かどうかまでは知りません。それに、逆ハーレムって、普通に仕事してるだけですよ?」
そもそも女性が少ない職場なので、男性が多いことを気にしたこともなかった。
「そんなの、いつどうなるか分からないでしょ?」
「考えすぎです。私、もてたことないですし、私には要さんがいるんですから」
「本当に?」
私の胸に吸い付いていながら、何を心配してるんだろう。
こんなこと要さんとしか絶対できないのに。
「そんなことを言うなら、要さんだって有瀬さんと距離が近い気がしましたけど……」
「有瀬さんは、全然スコープ外だから。上司に頼まれてなければ、近づきたくないタイプ」
今日の打ち合わせで、有瀬さんはちょっと気が強そうで自信家っぽい所は見られた。要さんはそういうのはいまいちらしい。
「でも、有瀬さん可愛いじゃないですか」
「焼きもち? 紗来ちゃん、可愛い。わたしには紗来ちゃんの方が何万倍も可愛いからね。毎日隣の席に座っていても、これが紗来ちゃんなら天国なのになあって思ってる」
要さんは上半身を顔の位置まで伸ばしてきて、私を横向きのまま引き寄せる。すぐ近くに要さんの顔があって、視線が合うとキスをされた。
「……仕事にならないのが見えてます」
「やっぱり? そう思うと叶野さんと国仲さんは仕事はきっちり分けててすごいよね」
「要さんはもうちょっと理性って言葉を学んだ方がいいんじゃないでしょうか」
「紗来ちゃんが冷たい。紗来ちゃんをそれだけ好きなだけだよ?」
甘えモードで言われて、それを拒否できない私も私なのかもしれない。
だって、要さんはキスすることも触れることも、私からの誘いは全部受けてくれる。
「それは知ってますけど……有瀬さんって要さんがレズビアンだってこと知ってるんですか?」
「言ってないけど、部内ではかなり知ってる人多いから聞いてるんじゃないかな。あと、わたしに今彼女がいるってことも部内でオープンにしてるからね」
それは初耳で、流石に黙ってはいられない。
「…………なんで、そんな思いっきりプライベートなことをいちいち部内でオープンにしてるんですか」
「別に言いふらしてないけど、聞かれたから答えただけだよ。おまえは分かりやすいってよく言われる。でも、紗来ちゃんだとは流石に言ってないから」
「言ってたら別れます」
同期の見上くんから連絡も来ていないし、多分大丈夫だろうとは思う。
「紗来ちゃんはわたしよりも会社を取るの?」
「そんなこと言ってませんけど、同期に知られたりしたら会社に行けませんからね」
「うん。そこは気をつける」
「ばれたら胸も触らしてあげませんからね」
「じゃあ、今一杯触っておこう」
「何がじゃあなんですか」
折角お風呂に入ったのに、明日の朝私はシャワーを浴びてから出勤になりそうだった。
翌日のお客さんとのキックオフは16時からで、15時過ぎに国仲さんと2人で会社を出る。
上司は別の客先に行っているので現地合流になっていた。
「それ、楠見さんだよね?」
「……そうです。分かりますよね、やっぱり」
私の胸元を見て、国仲さんは溜息を吐く。
スーツを着てもどうしても隠しきれなかったので、苦肉の策として胸元に絆創膏を貼った。
「負担になってない?」
何のことだろう、と考えて、楠見さんとの体の関係しかないかな、とは思い当たる。
「昨日のは私が誘っちゃったみたいなものなので……」
「1年前の都築さんなら、そんな話題が出ただけで真っ赤になっていたのにな。すっかり大人の世界に馴染んじゃったな」
「すみません」
「都築さんが謝る必要ないよ。付き合ってるんだから、仲良くするのはいいことだし、見えるところに跡つけて主張するなんて、楠見さんが子供っぽいだけ」
「私はもてないので、心配はいらないって言ったんですけどね」
「都築さん可愛いから、こっそりいいなって思ってる人はいるんじゃないかな。でも、最近は恋人がいそうな雰囲気出てるから、周りが近づけないかな」
「…………どんな雰囲気ですか?」
「幸せオーラ?」
「出してるつもりないですけど……」
「そういうのは本人は気づかないものだから」
「叶野さんはちょっと分かりますよね?」
叶野さんは時々見ていても分かるくらい上機嫌な日がある。
今更思い出して、そういうことなのかと思い当たる。
「あ……気づいてた?」
「やっぱりそういうことなんですね」
「大抵そうかな。でも、都築さんにも分かっちゃうって、ちょっとクレームだしとく」
叶野さんと国仲さんの関係は知っているけど、リアルに想像してしまった。
やっぱり、要さんと私がしてるようなことを、叶野さんと国仲さんもしてるよね。
「お2人の仲を悪くさせる気はないですからね」
「毎日近くに居すぎて、ワタシはちょっと麻痺してるから、いいの。いいの」
国仲さんを焚き付けてしまった。
ごめんなさい、叶野さん。悪気はなかったんです。と胸の内で謝りながら、私は客先に向かった。
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