第79話 寄り道
紗来ちゃん、今日って何時に終わる?
要さんからそんなメッセージが届いたのが、インフラチームとの打ち合わせが終わってすぐのことだった。
今日は定退日なので残業はしないつもりです
じゃあ18:15にこの前と同じ駅の改札で待ち合わせでいい?
わかりました
今日は要さんの部屋に泊まることになっている日で、一緒に帰ってどこかに寄り道でもしたいということなんだろうか。
まあ同じ家に帰るんだから一緒の方がご飯をどうするかとか相談しやすいし、いいかな。
それよりも明日はお客さんとのキックオフがあることの方が気鬱だった。
今までは精々1ヶ月に1回行くくらいだったけど、しばらくはほぼ毎週行くことになる。一人じゃないにしろ、それに毎回国仲さんは同席できないので不安しかない。
お客さんの担当者は怖い人じゃないけど、前に立つことはほんとにいつまで経っても慣れない。
会社を出て、そんなことを考えながら駅に向かうと要さんは既に到着していた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
要さんは目元を緩めて笑顔を見せてくれる。抱きついて来なかったのは、会社の関係者が使うことも多い駅だからってことを考えてくれたんだろう。
「今日は早く出られたんですね」
「わたし、残業なんか本当はしたくない方だからね」
「残業してない方が少ない気がしますけど」
要さんは大抵私よりも帰りが遅い。
20時くらいにはそれでも帰ってくるのでそこまで遅いわけじゃないけど、IT業界に残業はつきものだった。
「それは周りが定時前に限ってばたばたして巻き込まれるからなの」
行こう、と要さんが先に歩き始めて、続いて定期のついたICカードで改札を通る。
「どこかに行くんですか?」
「行くっていう程じゃないかな。寄り道くらい? 先週のお詫びみたいなもの」
要さんはいつも通勤で使っているホームに立って、家に帰るための電車に乗る。
どこかで途中で降りるのかな、と思いながらこの時間の電車は会話をする余裕がないくらいに混んでいる。
ターミナル駅で3分の1くらい人が降りて、なんとか要さんの隣に並ぶことができるようになった。
でも、この駅で降りようとは要さんは言わなかった。ここから先は住宅街が多くなるので、どこで降りるんだろう。
要さんから、次で降りるから、と声を掛けられたのがいつも使っている駅の1つ前の駅だった。
駅の名前は馴染みがあるけど、どんな街なのかは私は知らない。
「ここに何かあるんですか?」
駅を出て、こっち、と要さんに手を引かれて、そのまま道を歩き始める。
お店は点在しているけど、商店街というほどでもなくて、薄暗くなった道を外灯の明かりが照らしている。
4月とは言ってもちょっと肌寒さはある。
でも、要さんの手の温もりが寒さを上書きしてくれていた。
5分くらい歩くと川沿いに出る。
視界に入ったものに要さんの目的がこれであると、すぐに分かった。
土手沿いに植えられた桜の木々は、満開の時を迎えている。
同じように桜を見ようと集まった人がいて、要さんと私も流れに従って桜の下を歩いた。
「こんな場所が隣の駅にあるなんて全然知りませんでした」
「わたしもテレビでちらっと見たことがあっただけだったから、来るのは今日が初めてなの。先週寒かったから花が保ってくれたみたいで丁度よかった」
「なんか社会人になって、通勤路に桜もないので、咲いてるって季節感を感じることもなくなってました」
「1日が短くて、気づいたら季節が変わってるだよね」
「振り返って見ると、要さんと付き合い始めて、もうすぐ半年なんですよね。あっという間だった気がします」
キスをするのは今でもどきどきするけど、誰かと愛し合うことが日常になるなんて思いもしなかった。
要さんが隣にいることがもう当たり前になっている。
「じゃあ、初めての春を一緒に迎えられたから、来年も一緒に桜を見られるように頑張るかな」
「そうですね。でも、要さんってバーチャルで花見すればいいんじゃないってタイプかなって思ってました」
「それもありだけど、紗来ちゃんと一緒に見るってことが大事でしょう?」
嬉しいけど、人がいる場でさらっとそんなことを言わないで欲しい。
「じゃあ、来年も要さんが連れてきてください」
これくらいならいいかな、と要さんの腕に自分の腕を絡ませる。
「うん。来年も一緒に見ようね」
「キスしたいのを我慢してるので、それ以上言わないでくださいね」
「この通りを抜けたら10分くらいだから、ちょっとだけ我慢して」
要さんに手を引かれるままマンションまで帰って、要さんの部屋に2人で入る。
靴を脱いだところで要さんに捕まって、抱き寄せられてしまう。
「紗来ちゃんがあんなこと言うから我慢できなくなっちゃった」
「キスしたいって言っただけで、それ以上はしたいって言ってませんよ?」
口にはしたものの、要さんが放つ色気に私は勝てる気がしなかった。
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