11月22日(火)

 霧だ。薄い霧が世界を覆っていた。俺の住むこの地域は四方を川で囲まれているため、霧の朝は川面から水蒸気が立ち上るのをどこでも見ることができる。子供の頃から見慣れた光景だから、今となってはそう珍しくもないが。


 霧の中、慣れているとはいえ一応気をつけながらチャリを漕ぎ、学校へ向かっていると、橋のすぐ側で信号待ちしている霧の美少女を見つけた。


 タツミだ。黙っていればただの清純な美少女は、霧の中で幻想的な雰囲気を湛えている。一層その美しさに磨きがかかっていた。タツミはこの世のあらゆる要素がプラスに働く固有スキルの持ち主なのだ。


 俺はその隣に並び、声をかけた。


「おいっす」


「おはよ。今日は霧だね~」


 そう言って、タツミは指で俺の頬を突いてきた。その手はミトンの手袋をはめていたから、指で、というよりはソフトの手刀だった。


「そんな分厚い手袋いるか?」


「正直に言っちゃうと、別にいらないかも。でも、せっかく貰ったものだから、つけるべきかなぁ~? って」


「へぇ、カレシか?」


 自分で言っておきながら、自分の言葉に何故か焦ってしまった。もし、そうだったらと思うと……。


「ううん、叔父さんからだよ」


「ああ、あの……」


 あのポルシェ叔父だ。頭の中にポルシェとタツミの叔父が並んで立っている姿が浮かんできた。


「ねぇ、見て見て、あれ」


 タツミがすぐ左手側、橋の下の川を指さした。そこにはカモの群れがいた。これも別に珍しいものじゃない。


「ああ、カモだな」


「ただのカモじゃないよ。ほら、あれあれ」


 なるほど、何羽か子ガモが混じっていた。川霧立つ水面で、小さいカモが必死に足をばたつかせ、親鳥の後をくっついてゆく。


「かわいいね~」


 タツミは見惚れている。俺はその横顔に見惚れる。カモよりタツミの方が断然可愛い、そう思った。思うだけで口には出せない。これが口に出せたなら、俺も立派なプレイボーイになれるんだろうか……? 別になりたくはないが。


 気がつくと、信号が青になっていた。俺たちは気付くのが遅れた。周りはもう、信号を渡り始めていた。先に行く人たちの背が、霧の中へと吸い込まれて朧になっていく。


「タツミ、信号だ」


「あ、変わったんだね」


 俺たちは信号を渡った。


 薄い霧の中、俺たちはいつもより少しだけ速度を落としてチャリを漕いだ。たまにはまったり漕ぐのもいい。


「そういえば……」


 俺はふと、映画の『ミスト』を思い出した。スティーブン・キング原作の傑作だ。あれも霧の話だった。今俺たちを包んでいる霧は映画ほど深くはないが。


「そういえば、なに?」


 タツミが興味津々といった顔でこちらを見た。


「『ミスト』って映画を思い出したんだ。霧の中で怪物が出てくるお話」


「なにそれ面白そう」


「面白いよ。霧の中に得体の知れない怪物が現れ、主人公親子とたくさんの人間がスーパーマーケットに立てこもるんだ。でも、スーパーマーケットも危険になり、主人公たちは生き残るためにスーパーマーケットを脱出し、怪物潜む霧の中へと繰り出すというホラー作品なんだ。いざというときの勇気と決断力とリーダーシップの大事さを教えてくれる大傑作さ。ぜひタツミにもみて欲しいね」


「へぇ、そんなに面白いんだ。サブスクにあるかな?」


「あるある。早速今夜にでも見てくれ。絶対に損はさせないから。早くタツミの感想を聞いてみたいし」


「ふぅん、そこまで言うなら、今夜あたりみてみようかな」


「それがいい。ぜひそうしてくれ」


 霧の中、俺はタツミにはわからないくらい小さく笑った。名作を勧め、それに興味を持ってもらえるのは、なかなか気分が良いものだ。良いことをした朝の空気も美味い。隣には美少女。言うことない。


 霧の中を漕ぐ。学校に近づくにつれ、霧が濃くなった。しかし、それも後一時間程度のことだろう。いずれ霧はかき消える。今のところは霧だらけだが、怪物の出る気配もなさそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る