10月20日(木)

 数学が苦手だ。理由は単純、数学なんてものがわけのわからん数字と記号と式の羅列にしか見えないから。


 そんなわけで俺の数学の点数はいつもギリギリの綱渡りだ。少しでもバランスを崩せば赤点へと墜落死してしまうほど危険な領域なのだ。


 タツミは俺よりマシだ。タツミは俺より数学を理解している。だが、それでもマシというレベルで、俺の目から見てもお世辞にも得意とはいえない出来だった。


 そこで俺たちは一計を案じた。


「「そうだ、トキさんだ!」」


 トキさんは学年一位の優等生。もちろん数学もバリバリできる。俺なんかとは月とスッポン、天と地ほど出来が違う。そんなトキさんがたまたま隣の席だったのが我が身の幸運だった。もし俺とトキさんの接点がゼロだったら、数学の教授を頼んだところで、体よく断られたことだろう。


「トキさん、一生のお願いがあります! 不肖、マツザキリョウスケに何卒数学をご教授ください! お礼はミスドで!」


 トキさんは二つ返事で引き受けてくれた。神様仏様トキ様、なんと寛大で仁愛に厚いお方なのでしょう。トキさんにすがるしかない俺にとって、まさにトキさんは救いの神だった。


 その日の放課後、俺たちは早速トキさんからご教授頂いた。空き教室の一室にて、俺とタツミとトキさんの三人で仲良く勉強会……となるのを想像していたのだが……。


「マツザキくん! 何度言ったらわかるの!? そこはそうじゃないでしょ! 先にこれをこうしないとダメでしょ!? あー、それも違う! ちゃんと公式を覚えなさい! 公式を覚えないのは、銃の撃ち方を知らない人間が戦場に出るようなものよ! テストという戦場で敵を倒し、生き残りたければきちんと基本を抑えなさい! いい? わかった!?」


 トキさんが俺の机のすぐそばで仁王立ち、俺の頭に向けて、厳しい言葉を容赦なく叩きつけてくる。


 そう、トキさんはスパルタだった。ハートマン軍曹ほどじゃないがかなり手厳しい。俺が少しでも間違うと、


「違う! そうじゃない!」


 とか


「ダメダメ! ほらまたマッチャン、ダメダメダメダメ……! 間違いだらけのダメダメ攻撃!」


 とか


「ホワイ? どういうつもり? 一体何がしたいの? テルミー?」


 等々、厳しいお言葉の嵐が吹き荒れるため、俺は凄まじい緊張感をもって勉強へ励まなければならなかった。


 俺の目に、今のトキさんはかの映画『300』の『レオニダス』ばりのマッチョ鬼教官に見える。まさにスパルタの化身だ。教室はさながらテルモピュライ、俺は蹴散らされるペルシャ兵のごとく戦々恐々だった。


 しかしそんなトキさんも、タツミには全然厳しくない。むしろ別人かと思うくらい丁寧だ。不公平だな、と一瞬思ったりもしたが、冷静に考えてみると、ただの生徒の出来の差の問題でしかなかった。出来が良く、教えたことをすぐにちゃんとこなせる生徒には厳しくする必要なんてない。トキさんが俺に厳しいのは、俺が不出来だからであり、俺を思ってのことだった。それに頼み込んで教えてもらっている立場で、トキさんの態度をどーこー言うの憚られる。


 厳しいが、トキさんは教え方も上手い。俺が間違えると烈火のごとくだが、それまではきっちり丁寧に教えてくれるし、そんなときのトキさんときたらキリリと引き締まった横顔がとても綺麗で可愛らしい。そんなトキさんが俺のすぐ傍まで迫ってくるから、どうしても男としてはそっちにも注意がいってしまい、ついつい単純ミスを繰り返してしまう。だから俺が不出来なのは、半分はトキさんのせいでもある……なんてのは言い訳にしてもヒドすぎるか。


「ちが~う! マツザキくん! 何度言ったらわかるの!? こうでしょ!?」


 突然、トキさんは俺の手をがっちりと掴んできた。


「頭がダメなら身体に覚えさせてあげる! こう! こう! こう!」


 俺のペンを握った手をトキさんの小さな手が握る。本当に小さくてすべすべしていた。トキさんが俺の手を動かし、俺の手が公式と数式をノートの上に描く。俺はされるがままだ。正直なところ、女の子に手を握られて、ちょっぴり緊張していた。身体で覚えるどころの話じゃなかった。


「わかる? こうなの。こうきたら、こうなるの。それが数学なの」


 トキさんが耳元で言った。俺は頷いた。しかし俺はほとんど理解していなかった。なぜなら俺の全神経は耳元のトキさんの声と吐息と、かすかに香る女の子の甘い香り、そして俺の背中に密着するトキさんの身体の熱を感じることでいっぱいいっぱいだったから……。


「ね? こういうことなの。意外と簡単なの。マツザキくんは難しく考えすぎてるの」


「はぁい……」


 腑抜けた声が出たのが、自分でもよくわかった。


 そんな俺たちの様子を見て、


「くすっ」


 とタツミが笑った。


「なんだか仲のいい姉弟きょうだいみたい!」


 タツミはニコニコして言った。その言葉で、俺とトキさんのロマンスは男女間の接触ではなくなり、児戯的なじゃれあいになってしまった。興奮は一気に冷め、緊張は一挙に緩和されてしまった。


「……もちろん俺が兄だよな?」


 一応、聞く。


「ううん、マツザキくんは絶対に弟! 手のかかるやんちゃで元気な弟だよ! で、お姉ちゃんのトキさんにめちゃめちゃ甘えるの!」


「いや、甘えないから」


 そのとき、


「ま、マツザキくんは……」


 トキさんが急に顔を赤くして、


「私に、甘えたい……?」


 ポツリと呟くような小さな声で言った。


「えっ……」


 なんて答えればいいのか……そりゃどんな男でも、女の子に甘えたいときがある。それは俺も例外ではない。けど、じゃあ面と向かって「甘えたい!」とは言いにくい。しかし、まさかトキさんがそんなことを言うとは思わなかった。照れたように、頬を染めるトキさんは、さきほどの鬼軍曹な雰囲気から打って変わって野菊のように可憐だ。


 沈黙。なんともいえない静寂が、ほんの少しの間訪れた。


「ご、ゴメン! 今のナシ! 忘れて……!」


 トキさんが慌てたように手を振りながら言った。白い顔が茹でたてロブスターくらい真っ赤になって恥ずかしそうにしている。こんなに取り乱すトキさんも珍しい。今日は俺の知らないいろんなトキさんが見られる『トキさんデー』なのか。


「トキさん! マツザキくんはきっとトキさんに甘えたいと思うよ!?」


 タツミがいつものごとく、わけのわからんことを言い出した。


「おいおいおいおい、場を余計にカオスにするな」


「マツザキくん、自分に正直になって! 男の子はいつだって女の子に甘えたい、そうでしょう?」


 こいつ、さっきの俺の心の中を読んだのか!? ってくらい、的確な指摘。こう見透かされては俺も素直に兜を脱ぐしかない。


「ま、まぁ、男ってのはそういうもんだが……」


「トキさん! 二人でマツザキくんをうんと甘やかしてあげよっ! 両サイドからツープラトンアタックだよ!」


 タツミは席を立ち、俺の隣、トキさんとは反対側に立って、俺の頭をなでなでし始めた。


「おいおい……」


 俺はもう何をどうツッコンでいいのかわからなかった。今日のトキさんも少しおかしいが、タツミはいつにも増しておかしい。いや、ある意味いつもどおりだが……。


「さぁ、トキさんもご一緒に!」


 タツミにノせられてトキさんも、


「こ、こう……?」


 トキさんは俺の顎の下、喉との間をさわさわ指先でかきはじめた。俺は猫か。思ったけど言わなかった。もう何がなんだかわけがわからなかった。数学も難しいが、この状況はより理解が難しい。


 かわいい女の子が二人が両サイドから俺を撫で回す。俺はされるがまま、ただこの状況を甘んじて受け入れた。意味はよくわからないが、そんなに悪い気もしないし、これからこんな機会もそうないだろう。つーか、もう二度とないだろうし、このカオスを味わえるだけ味わってみた。


 意味不明状況はたっぷり五分以上続いた。一つだけわかったことがある。飼い猫もきっと、こんな気持ちなんだろうな、そう思った。猫可愛がりって言葉もあるが、人間相手にはどうかな? そんなことも思った。

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