#4
アンジェリカは目を覚ましたが、まだ部屋で休んでいる。エディリーンは、腫れてしまった頬を水で濡らした布で冷やしていた。
グレイス夫人は、じっとヨルンの顔を見つめながらその話を聞いている。夫人は眉一つ動かさない。日頃の穏やかな様子とは打って変わり、その表情からは何を考えているのか読み取れなかった。
ヨルンが話し終えると、夫人は静かに口を開く。
「話はわかりました」
そう言って、一旦言葉を切る。次に何を言われるか、ヨルンは緊張した面持ちで目を伏せ、同席していたエディリーンたちも、固唾を吞んで見守る。
「この件については、不問とします」
それを聞いたヨルンは目をむく。
「しかし……!」
夫人の言葉に一番納得いかないのは、他でもないヨルンだった。夫人に向かって身を乗り出すが、夫人は頬に手を当てて首を傾げる。
「そうは言ってもねえ……あなたの罪状は何になるのかしら?」
グレイス夫人はとぼけた様子で続ける。
「取り引きの記録を改竄したというけれど、あなたはブラント商会が横領した分を差し引いたもの……正規に取り引きされた記録をきちんと残していたのでしょう? それならば、何も罪に問うことはないわ」
そう、ヨルンはやろうと思えば、全ての取り引きが正常に行われているように見せかけることもできたのだ。しかし、ブラント商会からの指示を無視して、不正が行われていることがわかるようにした。
家族を失い、孤児院で育った彼を、グレイス夫人は屋敷に引き取って働かせてくれた。その恩に、精一杯報いようと思っていた。しかし、ブラント商会からの資金援助が打ち切られれば、孤児院に残っている子どもたちは困窮してしまう。二つの間で、板挟みになってしまった彼は、自分にとってぎりぎりの選択をしたのだった。
「ですが……! 僕は、ダミアンにソムニフェルムの苗を渡しました。これは申し開きのしようがありません」
それは、グレイス夫人がソムニフェルムに関して何か起こっていると怪しむきっかけになった、そもそもの発端となった事件だった。ソムニフェルムの畑が荒らされた一件。あれは、ダミアンが畑に忍び込み、ヨルンにそれを見咎められてのことだったのだ。株分けをし、自前で栽培すれば、グレイス家から横領する手間が省ける。
ヨルンはそこで自分を見逃し、ソムニフェルムを渡すよう脅され、従ってしまったらしい。そこから、一連の事件が始まったのだが。
「ああ、あれね。あれはね、違うのよ」
ふふふ、とグレイス夫人は微笑む。
「ちょっと来てくれるかしら」
そう言うと、夫人は困惑する一同を引き連れて、外へ出る。
屋敷の裏から山を登り、向かったのはソムニフェルムが植えられている一角だった。収穫の最盛期は終わり、来年の分の種を採るために残された数株が、寂しく風に揺れている。
「よく見てちょうだい」
夫人は前掛けのポケットから、油紙の包みを取り出す。その中から出てきたのは、乾燥したソムニフェルムの花だった。夫人は、それと目の前に植えられている花とを比べるように促す。
夫人の手にある乾燥した花は、茎に細かな棘があり、花弁も葉も大振りに見える。比べると、目の前に生えているそれは、茎がやや細長く、葉も細かく枝分かれしており、花も小ぶりである。
不思議そうにする面々に、夫人は微笑む。しかし、エディリーンだけは、最初にここを見た時に気が付いていた。
「これは、似ているけれど別物なの。こちらは観賞用で、一部の層にだけれど、一般にも出回っているわ。もちろん、中毒性のある薬なんかは作れない、無害なものよ。これ自体はそれほど値の張るものでもないし、観賞用の花を一株くらいはねえ。花泥棒に罪はないとも言うし」
すると、ダミアンは偽物を掴まされたことになる。ソムニフェルムを自分たちで栽培するという目論見は、失敗に終わったわけだ。
ここを訪れた時に気が付いた、光の屈折を操ってものを隠す魔術。本物のソムニフェルムは、おそらくそこにあるのだろう。使用人を信用していないわけではないのだろうが、大事なものを無防備な状態で置いたりしないところは、おっとりしているように見えて抜け目がない人だと思った。
「ヨルン、あなたが心からわたしに仕えてくれていることは、よくわかっています。わたしも、使用人という以上に、あなたを大事に思っているわ。だから、これからも変わらず仕えてくれたら嬉しいわ」
それでいいかしら? と、夫人はアーネストに問う。
「……今回の主犯はブラント商会で、グレイス家に直接の非はありません。家の中でのことは、当主の裁量にお任せします。ユリウス殿下も、おそらくそう仰るでしょう」
「グレイス夫人……」
ヨルンは肩を震わせて、その場に泣き崩れた。
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