第三章 見つめた先に

#1

 グレイス子爵家では、束の間の穏やかな日々が過ぎていた。

 エディリーンたち三人は、数日間屋敷の仕事を手伝っていたが、本来の目的を忘れてしまいそうなほど、平和な日々を送っていた。グレイス夫人を始めとする屋敷の 人々の雰囲気もあって、よそ者扱いされて肩身の狭い思いをすることもなく、程よい距離感で受け入れられていた。仕事があるというのは、良いことだった。

 しかし、今はこの春の収穫の最盛期で、三日後にはブラント商会との取引が控えている。エディリーンはその取引に同行する予定だった。

 ブラント商会は、グラナトに居を構え、グレイス家の薬草を卸している。ソムニフェルムを扱うことを許された、国のお墨付きの商家である。

 だが、先代は慈善家としても有名だったが、今の当主に代替わりしてからは良くない話が多いと、街で囁かれていた。

 そこで何が行われているのか突き止め、可能なら証拠を掴む。目下の目的はそれだった。


「ところで、エディリーン。今回の報酬のことなのだけれど」


 エディリーンはその日の午後、一人で薬草を木箱に詰めていた。その仕事が一段落したところ、グレイス夫人がそっと声をかけてきた。


「報酬など結構です。魔術師の間の問題でもありますから」


 そう。真面目に修行に取り組まず、怪しげな薬物に手を出した挙句に失踪するなど、魔術師の面汚しである。そのような人間は、見つけ出して罰を与えねばならないし、薬の出所も叩かなければならないのだ。


「そういうわけにはいかないわ。仕事には、代価を支払わなければ」

「本当に結構ですから」

「でも……」


 エディリーンは首を縦に振ろうとしないが、夫人もなかなか引き下がらない。困ったように頬に手を当てて、何やら考える仕草をしている。

 やがて何か思い付いたように、ぱっと表情を明るくした。


「そうだわ。ちょっと見てほしいものがあるの」


 言ってエディリーンを促し、屋敷の奥へ向かう。

 案内されたのは、一階の奥、食堂などとは反対側に位置する部屋だった。扉を開けると、壁一面と床面にも棚が三列ほど設えられており、その全てに本や何かを書き付けた紙の束が並んでいる。書斎と思しきそこは、個人の持ち物にしてはなかなか圧巻な光景だった。

 手前側は薄暗いが、奥には窓があって、そこに大きくどっしりとした机が置いてあった。そこだけは日当たりがよく、昼間は気持ちがよさそうだった。古い紙とインクの匂いに、虫除けのためだろうか、何かの木のような香りがした。

 遠目から背表紙を軽く眺めただけでも、広い分野の書物を網羅しているのがわかる。魔術書や薬草学、医術に関する本の豊富さはもちろん、歴史や天文学、経済、地理、宗教、哲学に物語の本まで揃えられており、グレイス家の人々の博識さがうかがえる内容だった。


「金品は受け取れないと言うなら、この中から好きなものを持って行ってくれないかしら?」


 思わぬ申し出に、エディリーンは驚いて夫人を振り返る。


「そんな……いただけません」


 書物など、興味のない人間にはただの重い紙の束でしかないが、わかる人間にはその価値は計り知れないだろう。しかしそれ以上に、この家にあるものはグレイス夫人にとって、家族との大切な思い出の品であるはずだ。言葉の端々から、それは読み取れる。

 けれど、夫人はゆるゆると首を横に振る。


「わたしがいなくなったら、国に管理されるか、別の領主のものになると思うけれど……。わたしには魔術書の価値はよくわからないけれど、貴重なものもあるはずよ。主人も息子も大事にしていたものだから、必要としてくれる人の手に渡ってくれたら嬉しいわ。次にこの屋敷を管理する人が、大事にしてくれるとは限らないもの」


 ね? と夫人は微笑んで首を傾げる。

 そこまで言われては、受け取るべきだろうか。それに、単純にこの蔵書を見てみたい気もした。


「作業は一区切りついているでしょう? 自由に見て構わないから、夕食まで休憩してらっしゃいな」


 夫人はそう言い置くと、エディリーンを残して書斎を出て行った。扉が閉まると、部屋全体に静謐な空気が満ちる気がする。

 書物は、金銀宝石ほどではないが、なかなかに高価な品物であった。

 木の板に文字や絵を掘り、それにインクを付けて印刷する木版印刷が普及しつつあるが、大量に作れるものではない。魔術書などは、魔術師が全て手書きで書いた一点ものがほとんどだった。生産に手間がかかる分、高値で取引される。

 しかし、書物の価値はそこにあるのではない。先人の遺した知識や思いの価値は、金銭では到底表せない。

 そして、エディリーンにとって書物は、世界を知る術を与えてくれた道標だった。言葉がなくあやふやだった彼女の世界に、名前を付け、思考することを教えてくれた。一つ物事を知る度に、世界が鮮やかに色付いていった気がする幼い頃の記憶を、今でも思い出せるのだ。


 エディリーンは、書棚の間をゆっくりと歩いた。ベアトリクスもなかなかの蔵書を持っていると思うが、これほどのものを拝む機会は今後訪れないかもしれない。せっかくなので、堪能させてもらうことにする。

 ふと、本棚の一角から何かの気配を感じて立ち止まった。悪いもののではないと思う。春先の風が頬を撫でるような感じだった。

 気配の元を探すと、何冊かの魔術書を見つけた。それは、精霊が封じられた書だった。

 だが、以前に関わったような、禍々しいものは感じない。穏やかに眠っているような気配だけがしていた。

 きっと大事にされているのだろう。封印の綻びもなさそうだし、このまま放っておいても問題はないだろうと判断した。

 一通り見て回り、とりあえず魔術関連の本を何冊か取って、机に積んだ。こちらも日々きちんと掃除がされているようで、埃一つ落ちていなかった。

 軽く目を通しているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまう。気が付くと日が落ちて薄暗くなってきていた。さすがに切り上げようと席を立つ。

 そこに、ベアトリクスからの知らせと、ユリウス王子からの使者が相次いで到着したのだった。

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