第二章 籠の鳥は、
#1
その後、エディリーンはこの男とは面識がないということで、なんとか口裏を合わせさせた。グレイス夫人に用があって来た、ということで納得してもらったのだ。
夫人にはこの際知られても仕方ないが、アンジェリカや他の使用人は、エディリーンのことを、勉学のためにやってきた薬草師見習いだと思っている。王子の近衛騎士と面識があるなどと知られては困るのだ。
ジルもアーネストも見て一瞬驚いた顔をしたが、何も言わずに目礼するに止めた。アーネストは時折何か言いたそうな視線を送って来るが、知らぬふりを決め込む。
なし崩し的に、アーネストも含めて夕食を囲むことになった。ここでは、使用人たちも全員で同じ食卓を囲むらしい。人数も少ないのに、わざわざ別々に食事を摂るのは効率が悪いし、一緒に食べた方が美味しい、というのが夫人の言だった。
エディリーンとジル、そしてアーネストも、客人として歓待された。焼きたてのふかふかと温かいパンに、香草をまぶして焼いた肉、野菜のたっぷり入ったスープや、サラダなどが食卓に並ぶ。果物や果実酒も供された。この屋敷の人たちの雰囲気も相まって、温かく和やかな食卓だった。――少なくとも表向きは。
そして、屋敷全体が寝静まった夜更け。エディリーンは手燭に明かりを灯したまま、部屋の寝台に腰かけていた。寝間着に着替えてもいない。
しばらく待って、そろそろかと思った頃、予想通り部屋の外に気配を感じた。立ち上がると静かに、だが素早く扉を開けた。
そこには、扉をノックしようと手を上げた姿勢のまま固まったアーネストが立っていた。
「夜這いとはいい度胸だな。妙な気を起こしたらただじゃおかないと言ったはずだが」
声は抑えているが、口調は刺々しい。アーネストの後ろでは、それを聞いたジルが忍び笑いを漏らしている。二人も屋敷の空き部屋を提供されて、逗留することになっていた。
「……どこの世界に父親を連れて夜這いに来る男がいるんだ?」
アーネストは嘆息して肩を落とした。
元よりエディリーンは、この男がそんな考えを起こさないであろうと思う程度には、信用していないこともなかった。二度と会うことはないだろうと思っていた矢先の再会に、嫌味の一つも言いたくなっただけだ。
「……まあいい。入れ」
ここで話していては、屋敷の人間に聞かれてしまうかもしれない。エディリーンは二人を部屋の中に招き入れる。自分は寝台に腰かけて、男二人は椅子に座らせた。
「で、あんた何しに来たんだ? グレイス夫人に用があったわけじゃないんだろう?」
「ええと……ベアトリクス殿から連絡は受けていない?」
「何も」
エディリーンは怪訝な顔で首を傾げる。
アーネストは軽く頭を掻いて気を取り直すと、本題に入ろうとする。
「急ぎの用件だ。ジル殿、あなたにも聞いていただきたい」
言って、エディリーンを見つめ、声を一層低める。
「帝国が、君の身柄を要求してきている」
思ってもみなかった答えに、エディリーンもジルも言葉を失った。
「………………何故?」
長い沈黙の後、ようやく一言だけ絞り出す。
「それはこちらが聞きたいくらいだ」
アーネストは首を横に振って、事の経緯を語る。
先日の帝国との国境での戦の後、帝国側から使者が一通の書状を携えてやってきた。その書状の内容は、レーヴェに所属している青い髪の魔術師を、こちらに返還してもらいたい、というものだった。
その魔術師はフェルスの国民だったが、諸事情により長らく行方が分からなくなっていた。此度の戦で偶然にも刃を交えることとなったが、本来は争うべきでない相手であった。代わりに、皇帝の弟君の姫を、ユリウス王子の妃として差し出す。それをもって、我が国と貴国との関係の安寧を願わんとする、という、冗談なのかふざけているのかわからない内容だった。
しかし、それを冗談と突っぱねることもできないのが、大国との外交というものだった。
「……なんでそうなる? しかも〝返還〞って……」
いかに小国とはいえ、一国の王子に皇帝の弟の娘を嫁がせようというのも馬鹿にしているし、何の地位もない魔術師の一人を欲しがるというのも、理解に苦しむ話だった。
「だから、それはこちらが聞きたい。……先に言っておくが、こちらはそんな要求に応じることは断じてできない。ユリウス殿下に皇帝の弟の姫をあてがわれるなど
「そんなわけないだろう」
エディリーンは即座に否定する。
「そんな人間はいないと言えばいいんじゃないのか? 素性の知れない流れ者なんだし」
「それが、そうもいかない。君の姿は、大勢の人間が見ている。戦局を変えた、風の精か何かのようだったと」
エディリーンは顔をしかめて天を仰いだ。
目立つのは、やはりこの髪か。空のような、透ける薄青の不思議な色合いの髪。黒などの目立たない色に染めようとしたこともあったが、すぐに落ちてしまうし、面倒になってやめていた。誰も気に留めないだろうと高を括っていたが、それがこんな形で
「……やっぱりこの国を出た方がいいか……」
ぼそりと呟いたエディリーンを、アーネストは慌てて止める。
「待ってくれ。先程も言ったが、恩人にそんなことはさせられない」
「どうして? 根無し草の傭兵の一人くらい、どうなろうと放っておけばいいのに」
とはいえ、許可なく国境を超えるのは、犯罪である。商人や旅人には、手続きをすれば通行手形が発行されるが、今回は当然、彼女に手形を発行することはできない。それなしに無許可で移住などすれば、真っ当な生活を営むことはできない。
「だから、君にそんなことをさせて平気でいられるほど、こちらも恩知らずではないつもりだ。そこでだ。ジル殿、一つ確認させていただきたい。エディリーンとは血が繋がっていないと言っていたが、一体どういった経緯で?」
アーネストはジルに向き直る。ジルは困ったように髭を撫でた。
「どうと言われても……行き倒れているのを拾った。それだけです。当時のこの子も、まともに喋れる状態じゃなかったんでねえ……。それ以上のことは何も」
雨の降りしきる中、衰弱して倒れていた小さな子供。あのままでは、間違いなく命を落としていただろう。そこに差し伸べられた、温かく大きな手。それが、彼女の中にある、最初の鮮明な記憶だった。
けれど、どうしてあの場にいたのか、それ以前はどこでどうしていたのかは、ひどく曖昧で言葉にすることができなかった。
「わたしだって……知らない」
思い出そうとすると、胸の底に深い穴が空いて、そこへどこまでも落ちてしまいそうな気分に捕らわれる。それは冷たく、決して快いものではないという確信だけがある。
唇を引き結び、微かに声を震わせた彼女を、アーネストは真剣な瞳で見つめていた。やがて視線を緩め、エディリーンとジルをゆっくりと交互に見る。
「帝国と関わりがないのであれば、一つ提案がある。あの時ユリウス殿下が仰った、宮廷魔術師の件……受けてもらえないだろうか」
「はあ?」
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