第二部 彼女の理由

序章

 遥か頭上に、小さな窓が穿うがたれただけの狭くて空間は、常に湿っぽく薄暗い。

 その窓からわずかにうかがえる青い空を、彼女はいつも見上げていた。

 実際はそれほどの高さはなかったのかもしれないが、彼女の小さな身体からすれば、それは空を飛びでもしない限り手の届かない、彼方の世界だった。手の届かないその窓には、しっかりと鉄格子がめられていた。


 周囲は冷たい石壁に囲まれ、出入り口はここにも鉄格子のついた扉一つのみ。その重い扉は常に鍵がかけられ、自分の意志で出入りすることは叶わない。


 与えられるのは、その年齢の子供に必要な庇護ではなく、〝実験〞と称して加えられる苦痛と、最低限生きのびることができる程度の、古くて硬くなったパンと、野菜くずの入った薄いスープ。

 日が落ちれば、申し訳程度に敷かれた茣蓙の上で、ごわごわした毛布にくるまって眠った。しかし、床から忍び寄ってくる冷気はその程度でしのげるものではなく、両腕で自分の体温を抱き込んでも、安らかな眠りはなかなか訪れなかった。


 その頃感じていたものの名前を与えてくれる者は彼女の周囲にはなく、彼女は自分が何を思っているのかすら、認識することができなかった。あるいは、考えるという行為そのものが、彼女には不可能に近いものであった。彼女には、世界を形作る〝言葉〞を与えてくれる者がなかったのである。


 言葉は事象を定義し、思考を形成する。その手段が彼女には与えられなかった。

だから彼女は、自らの周囲に起こる物事に名前を付けることができず、それ故全ての出来事は霧散し、曖昧になって捕まえられずに消えていった。


 残っているのは、細部がひどく滲んでぼやけてしまった絵のような記憶と、思い出すと胸の底がざらりと苦しくなるような感情。

 その一つが、暗い空間に穿たれた小さな窓と、それを成す術なく見上げる幼い自分だった。


「あの時と、同じ……」


 記憶の底にある景色と同じ、鉄格子の嵌った小さな窓を見つめて、彼女は一人ごちた。

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