蟷螂の斧

 加藤かとういつきは、夜の細い通りを全速力で逃げていた。


 逐一通り過ぎる電柱の街灯で目がチカチカする。いつもはなんてことのない光景だが、今はそれすらも鬱陶しい。


 樹はとにかく逃げることに集中したかった。


 一刻も早く、あの場から離れたかった。あの連中から遠ざかりたかった。


 『雷夫ライオット』のジャケットを着た佐竹と、もう一人——『傲天武陣会ゴウテンブジンカイ』のリーダーである「おう」という男。


 を、樹は聞いていたのだ。


 聞いていただけではない。


 スマホの録音機能を使って、話の内容を盗聴していたのだ。


 自分が愚鈍な人間であることは自覚しているが、その時の自分は珍しく判断と行動が冴えていると思った。


 樹は『雷夫ライオット』とはほぼ無関係だ。一応その威光によって守られてはいるものの、それも単なる「見せかけ」だ。実質的な繋がりは無いに等しかった。……そんな樹の口から「傲天武陣会の陰謀」とか言っても、信じてもらえる見込みは薄かった。


 であるなら、その陰謀を口にした人間の声そのものを録音して聞かせればいい——それゆえに樹はスマホで盗聴した。


 それから逃げて、安全な場所に身を隠しながら録音データを送り、それを交えて説明しようと思った。


 自分は『雷夫ライオット』のメンバーと連絡先を交換していない。


 であるならば、録音データの送り先として適当なのは、自分のアドレス帳の中では月波幸人つきなみゆきとのみ。彼は『雷夫ライオット』リーダーである黒河桔梗くろかわききょうと連絡先を交換している。幸人に録音データを送れば、こちらの勝ちだ。


 幸人なら、きっとこの状況をどうにかできる。してみせてくれる。どんな状況でも、おもちゃ箱から取り出すような気軽さで最善の手を考えつき、どうにかしてしまう少年だ。そんな彼が動いてくれること以上に心強いことはない。


 ——しかし、逃げようとした時、存在を敵に気取られてしまった。


 そして今、逃げる自分の後を追ってきていた。


 樹は汗だくになって足を加速させるが、どれだけ逃げても、後ろから追いかけてくる人影は小さくならない。


 特に「王」という男だ。奴の姿は小さくなるどころか、どんどん大きくなってきている。少しずつ近づいているのだ。しかもすでに息切れが激しくなってペースダウンしている樹と違って、速力にが無い。


 追いつかれる未来予想図が、脳裏をよぎった。


 であれば、まだ近付かれていない今のうちに、幸人に音声ファイルだけでも送るのだ。そうすれば、たとえ奴らにスマホを奪われてデータを消されても、すでに幸人には送信済み。こちらの勝ちだ。


 樹は走りながらスマホを取り出し、操作しようとして——それを手から落としてしまった。


「わ……!」


 幸い、落下寸前でキャッチできたので、スマホの損傷は無い。


 しかし、それによって、樹は


 止まっている間に、「王」はぐんぐんと迫り、やがて巻き返しができない距離まで達してしまった。


「あれ? お前……どっかで見たことあるツラだなぁ? どこでだったか……」


 ストップした「王」は、樹の顔を見て、何か思い出しそうな仕草を見せる。……あれだけ走ったというのに、息切れを少しもしていない。


 後方から息を切らせて追いついてきた佐竹が、樹の顔を見た瞬間に驚きを表現する。


「あぁっ! テメェ……加藤か!?」


「加藤? 加藤、加藤……どっかで聞いたことが…………あぁ!!」


 「王」はようやく思い出したと言わんばかりに、樹を指差した。


「そうだそうだ! お前、加藤樹だろ! 月波幸人の腰巾着こしぎんちゃくの! やっと思い出したわー! あんまりにも影が薄くてよ、すっかり忘却してたぜ。いやーすまんすまん」


 樹のスマホを持つ手がぎりっと握力を強める。……ユキの腰巾着か。悔しいけど否定できない。


「ところでお前——さっき何してたの?」


 そう問うてきた「王」の口調は軽やかだったが、その目はヘビのように鋭く、なおかつ値踏みするような感情が底光りしていた。


 ——違う。


 一度、目を合わせただけで分かった。


 この男は「違う」と。


 そこらへんの不良とは別種の凄み。まるで闇の奥底から手を伸ばして引きずり込む機会を常に虎視眈々と狙っているような……深淵じみた気配。


 正直に答えないと、目玉を持っていかれそう。この安全な社会にあるまじき想像をさせてしまう奇妙な威圧感。


 正直に答えたい……心に生まれたそんな一抹の弱さを想像の中で踏み潰し、樹は言った。


「……あんた、武陣会のリーダーなのか」


 それは、息切れから回復する時間稼ぎのための質問であり、同時に純粋な興味でもあった。


 「王」はふふっと鼻で笑い、答えた。


「語るに落ちたな。やっぱ盗み聞きしてたってわけかい。……そうさ。俺は王龍俊おうたつとし。『傲天武陣会』の創始者にしてリーダーだ。ちなみにお前と同じく今年ヌマ高に入った一年だよ、加藤樹くん」


 人を食ったようにそう言う王龍俊に、樹はさらなる質問を投げる。


「じゃあ……あの噂は本当なのか? 武陣会の奴が半殺しにされてから、それをやった奴への報復……数集めてそいつをリンチしてから、そいつの目の前で彼女をっていう……」


 あぁ、と手を叩き合わせる龍俊。それからヘラヘラ笑いながら、


「マワしたってのは噂にオヒレが付き過ぎだって。——素っ裸にしてからヌード撮影会を開いてやって、その写真をネットにバラ撒くって脅しただけだよ。誓って手は出しちゃいない。まぁ彼氏くんには毎月慰謝料持ってきてもらって、撮った彼女ちゃんのヌード写真は俺の仲間のオカズになってんだろうけどな」


「……それでも十分最悪だ」


「最悪? お前ら日本人が俺らにしてきた事考えりゃ、優しいと思うがねぇ」


 変わらずヘラヘラした口調の中に、少し尖ったものが含まれていた。


 樹は龍俊のボカした言い方の意味をすぐに予測し、言った。


「昔の……戦争のことを言ってんのか?」


「お、偉いねぇ。ちゃんと俺らが中国人だって知ってんだな? 予習は大事だよね。——違う違う。日帝うんぬんの話じゃねーよ。だって俺、戦争経験してねーもんよ。つーかぶっちゃけその事でキレてる連中って、ご先祖様の怒りをレンタルしてるだけだと思うんだよね。勢いは凄まじいが、実体験に基づいたものじゃないからどこか薄っぺらい。しょせん大衆たいしゅうだ。ハンナ・アーレントでも読ませた方が良いね。……俺のお前ら日本人への恨みはレンタル品じゃねぇ。自分の人生の中で生み出した「天然モノ」だ。他の仲間もみんなそうさ」


 龍俊が一歩前へ出る。何か寄越せとばかりに右手を差し出す。


「さて、そろそろ呼吸も落ち着いただろ? もうおしゃべりはやめにしようぜ。……、お前がそのスマホを大事そうに握りしめてる理由は。録音だろ? そいつをとっとと寄越しな。もしくは録音データを俺が見える形で消しな。——


 最後の一言は、遠回しな「最後通牒」だった。


 服の下で、素肌が冷たい汗を吹き出す。


 足元がぐにゃりと揺れているような感覚を覚える。


 相手は本物のギャングだ。そこらの不良とは違って容赦というものを知らない。もしも今ここでスマホを渡さなければ、この男は本当に容赦をしないだろう。それからどうなるのかは、想像すらしたくない。


 だけど、もしここで言いなりになれば、間違いなく『雷夫ライオット』は壊滅する。いくら『雷夫ライオット』が強くても、相手は『自転車チャリ乙徒オット』『邪威暗屠ジャイアント』という二つの巨大暴走族の連合だ。圧倒的物量で押し潰されることは火を見るよりも明らかである。


 そうなれば、樹はことになる。


 ——「フリ」だけとはいえ、自分の後ろ盾となって安全なヌマ高生活をもたらしてくれた『雷夫ライオット』への裏切り。


 ——桔梗を恩人と慕う幸人への裏切り。


「オラ、何チンモクしてやがんだ、このチンチンモクモク野郎が! 王さんにとっととスマホ渡せコラぁ!! 死にてぇのかテメェ!?」


 押し黙って煮え切らない樹に苛立ったのか、佐竹が前に出てくる。


 ——佐竹。


 そうだ。そもそもこいつのせいで、自分は……


 どうして、こんな奴の言いなりにならないといけない。


 自分の力で威張ることが出来なくなったからって、今度はギャングのボスの威を借りて威張っている。


 強い相手と闘うことをせず子分に成り下がるだけでなく、その惨めな地位に自ら安住している。


 今の佐竹は、間違いなく、だ。


「テメェみてぇな雑魚が、逆らってんじゃねぇよ。雑魚は黙って従っとけや」


 同時に、に、片足を突っ込んでいる。


 惨めな立場を恥もせず、それと向き合うことからも逃げ、その惨めさを武器として振りかざす。逃げ続けることで、終わらない闇から抜け出せなくなった存在……幸人と出会わなければ、自分もこうなっていただろう。


「……弱いから、諦めろっていうのかよ」


 こうはなりたくない。そう思った。


「弱いから、ただ何もせずに、続けろって……そう言いたいのか」


 気がつくと、樹の心身から震えが消えていた。


 代わりに、どうしようもない怒りの熱が生まれていた。


「あんたよりよっぽど弱いユキは、。弱くても、それでも弱いなりに出来る手を打って、あいつはあんたに勝ったんだ。……俺は、それを見てた」


「……おいテメェ犬野郎、あんまナメた口きいてっとブチ殺——」 


「うるせぇっ!!」


 樹の急な一喝に、佐竹がたじろぎを見せた。


「俺は——あいつに教えてもらったんだ! 弱くても闘えるって! !!」


 スマホをポケットにしまい込み、ハッキリと言い放った。


「宣言してやる。——俺は、お前らに勝つ! どんなに惨めな姿をさらすことになっても、お前らのクソッタレた企みを必ずユキに知らせて、全部台無しにしてやる! !!」


 それは、まごうことなき宣戦布告だった。


「——奪い取れ」


 龍俊は顔色一つ変えず、無感情な声で佐竹に命じた。


 それに従い、佐竹は勢いよく樹へと迫った。

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