第60話 水底からの風景
直史が投げる、今シーズン最後の先発試合になるかもしれない。
そう思っている多くの人間が、その試合をリアルタイムで見ていた。
もちろんその中で、直史のプロ最後の試合になるかもしれないと、知っているのはごくわずか。
たとえばアナハイムのチームメイトでも、それを知っているのは樋口とアレクぐらいであった。
もっともフロント陣は、オフシーズンでのやり取りから、それについては知っている。
今が最も、選手として充実している時期。
それなのに巨万の富、絶大なる名声、何よりも比類なき栄誉を捨てて、凡百の世界の中に沈もうというのか。
相棒として長らくミットを構えてきた樋口としては、直史がMLBに残るという選択は、ないではないと思っている。
NPBは無理だ。それこそもう理由がない。
ただMLBにおいては結局、直史は大介に負けたまま、この社会から去ることになるのか。
それは本来なら死ぬほどの負けず嫌いである直史にとって、あまり具合のいい決着ではないと思う。
しかし五年間という期間は、直史が厳格に決定したものだ。
逆に言うと五年と期間を限ったからこそ、ハードなシーズンを乗り切ってこれたのだと思う。
樋口から見ると、移籍以降の直史は、かなりの無理をしていた。
ランナー一人さえ出さないというピッチングは、むしろ己の力をしっかりと出すために、必要なことであったのだ。
もしランナーが一人でも出ていたら、その瞬間に直史の集中力は切れていたかもしれない。
それでもコントロールが保てる限り、キャッチャーのリードに従って、そこそこの成績は残せただろう。
しかし去年のポストシーズン、ワールドシリーズでは直史の限界を見た。
肉体的な限界と言うよりは、脳の処理の限界であったろうか。
それもやはり、肉体の一部ではあるのだが。
クローザーとして投げる、直史のわずか1イニングのピッチング。
一試合だけは1イニングにわずかに付け足すものがあったが。
直史は1イニング投げるのも、一試合を完投するのも、負担は同じぐらいではないのかと樋口は感じる。
実際に去年のポストシーズン、ミネソタを蹂躙してからワールドシリーズでメトロズと対戦している間、直史は人間の限界を超えていたと思う。
あとわずか向こうにいけば、もう戻ってこれないような、人間としてのぎりぎりの境界。
それは生と死の境界であり、理性と狂気の境界であったとも思う。
あれだけ少ない球数でありながら、直史はものすごく消耗していた。
他の選手には見せないながらも、樋口だけには知っておいてもらわないと、いざという時に困るからだ。
樋口なら、ボロボロになった直史を、ちゃんとリード出来る。
しかし坂本はそこまで、直史が気を許す相手ではないだろう。
そのあたりアナハイム崩壊の最後の原因となった自分に、忸怩たる思いがある樋口である。
クローザーとしてリリーフする姿を見るたび、どんどんと直史の魂が削れていくのを、樋口は感じていた。
ずっと息を止めて水底に沈み、わずかに呼吸のために水面に出てくる。
深淵に沈む直史の姿を、見極めることが出来る者はいないだろう。
だが樋口は、その直史とわずかに、つながっていたのだと感じる。
肩肘とか、背骨とか首とか、あとはどこかの筋肉とかではなく、直史は自分の野球寿命を削っている。
それは極論すれば誰でもそうなのだろうが、直史はそれを明確に自覚してやっていたのだ。
わずか二ヶ月のメトロズでのリリーフの間に、直史は三年分ほどの野球寿命を費やしたと思う。
あくまで樋口の感覚的なものなのだが、それを確信するぐらいには、樋口も直史を知覚していた。
そうやってメトロズで投げて、ポストシーズン進出を果たした。
1セーブ10万ドルのインセンティブでも、それは直史の野球寿命を削った金額。
果たして安いのか高いのか、それは樋口にも分からない。
だが先発としてならば、あと三年でももっとでも、さらなる記録を作れたであろう直史を、削っていったのは間違いない。
ポストシーズンはパーフェクトを達成しているが、むしろそちらの方がマシであったか。
直史はイニング数や球数ではなく、時間で己を削っていく。
だから短期決戦であると、そのまま集中力が続くため、普段よりもパフォーマンスを上げていけるのだ。
樋口はもう、ギプスは外したがテーピングはしている状態で、アナハイムに戻っている。
別にもう日本に戻ってもいいのだが、最後の対決は直接見たかったのだ。
命か魂か、それとも肉体の寿命を削ってか、直史は投げているように見える。
そんなものを削ってまで、投げる価値はないだろうに。
結局は負けたくないという、男の意地のようなものなのだろうか。
今はアナハイムでリアルタイム中継を見ているが、最終的にはニューヨークにも行くつもりだ。
第四戦以降、メトロズがワールドチャンピオンになるかもしれない試合は、全てチケットを抑えてある。
ただこの第一戦に、いきなり直史は先発してきた。
登板間隔を考えるだけなら、充分な休養と言えるだろう。
だが直史が本当に奥深いところで消耗しているのは、そういうものではないはずだ。
「頑張れ……」
自分の怪我のことなど露とも考えず、樋口はエールを送る。
パーフェクトを続ける、相棒に向かって。
ミネソタは凄いことをしている。
瑞希の認識はずれているが、彼女の規準からすれば確かに凄いことなのであった。
直史のピッチングの特徴は一体何か。
変化球が多い、球速はそれほどでもない、緩急の差が大きい、変化球の変化が鋭い、魔球がある。
それもあるが最大なのは、パーフェクトを簡単にやってくるのでもなく、とにかく点を取られないことだ。
パーフェクトはその延長戦にある。
ひたすら負けないことを考えると、点を取られないことが最初にくる。
そして点を取られないためには、ヒットを打たれることは少なく、ランナーも出来るだけ出さない方がいい。
それが直史の本質であり、球数の少なさというのは、あくまでもそれを安定的に成し遂げる手段に過ぎない。
今年の直史は17試合で、100球以内の球数で完封している。
100球以上投げた試合でも、全て完投完封している。
他のピッチャーに試合の勝敗の下駄を預けなかったというわけだ。
なお樋口が離脱後は、100球以内に抑えた試合は一つしかない。
直史は球数が少し増えたところで、それで崩れるようなピッチャーではない。
だがポストシーズンでは完全に、パーフェクトに100球以内を達成している。
まずはこの球数だけを増やそうと、粘り強いバッティングをしてきた。
昨今のMLBは、とにかくホームランを打つことが大事。
統計の上でもそれは確かなのだが、ミネソタはその長打力を、あえてこの試合では封印したと言っていいだろう。
とにかく直史を崩すために、MLBのトレンドに反した作戦を取っている。
そこまでやってワールドチャンピオンを目指しているのだ。
ただこれぐらいのことは、日本なら高校野球に限らず、あちこちで普通にやっていることだ。
球数を多く投げさせるというのは、普通に他のチームもやってきた。
そして結局は失敗して、あっさりと完封されるのだ。
ミネソタは間違いなく球数は増えていて、それだけでも一つの凄みを感じる。
ここまでして、直史をどうにかしようというのだろう。
普段の直史であれば、それでもコンビネーションを拡大し、上手く打たせて取っていただろう。
しかしミネソタはホームランバッターが多いので事故が起こる危険も多く、そしてメトロズ打線の援護も小さかった。
よって確実性を選ぶために、ボール球を使ってしまっている。
そこまでしてしまっても、直史はそれを上回っているのだが。
確かに球数は多くなっている。
ファールで粘られた場合など、マウンドに立つ時間も長くなっている。
しかし今日の直史は、球速があまり出ていない。
つまり出力を抑えて投げているのだ。
瑞希は去年のミネソタ戦を憶えているので、ミネソタが恐れるものが何かは分かる。
それは直史がリリーフまでしてくることだ。
第三戦と第四戦、リリーフによって打線の強いところを潰された。
この第一戦を落としてでも、直史を消耗させて、下手に便利使いできないようにしたい。
それがミネソタの考えていることなのだろう。
しかしミネソタは、決定的に間違っている。
これはもう、ワールドシリーズなのだ。
去年はまだ、リーグチャンピオンを決めるカードであったため、直史はある程度抑えて投げていた。
しかし今年は、これでワールドチャンピオンを決めるのだ。
限界を超えてしまったところでも、直史は投げるだろう。
このワールドシリーズで、全てを燃やし尽くしてもいいと考えるぐらいに。
だから瑞希は祈るのだ。
直史にとっては、不本意であろうこのワールドシリーズ。
そんな試合で直史が燃え尽きてしまわないことを。
プロの世界ではもう無理で、ずっと先の話になるかもしれない。
だが直史が本当に本気になって、戦う相手と戦えるように。
ミネソタはなんだかんだ言っても、直史の全力を引き出してはいない。
去年の直史は、試合の前日から、己の中の昂ぶりを抑え切れないようなそぶりを見せていた。
五感が拡大し、球場内の全てを掌握するような、そんな感じだと言っていた。
それでも大介には打たれてしまったわけだが。
瑞希は考える。あの敗北は、本当に直史の敗北であったのかと。
ワールドシリーズで既に三勝していて、さらに連投して延長にまで入っていた。
それでもホームランを打たれて負けたのだから、確かに負けには違いないのだろう。
直史自身もそう言って、今年の逆襲を考えていたはずだ。
だがその舞台は永遠に失われてしまった。
今年の直史の、全ての試合を勝利して、一点も取られないというもの。
それはシーズンの前から、完全に野球に対して、コンディションを整えていたからだ。
トレード後も完璧なピッチングが出来ているのも、その延長でしかない。
そしてポストシーズン、まだ完璧なピッチングが続いている。
どうしようもないことだったとは分かるが、これでよかったのだろうかと瑞希は思う。
結局勝負は一勝一敗、NPB時代も合わせれば二勝一敗で、大介との勝負は直史の勝ちだ。
そして全ては終焉へと向かっていく。
この試合もミネソタは粘っているものの、結局一人のランナーも出せていない。
ポストシーズンで三試合連続のパーフェクトなどをすれば、おそらくもう直史は終わる。
いや、終わるつもりで、こんなピッチングを続けているのか。
長く続けていた、直史に関する記録。
瑞希のちょっとした好奇心から始めた、その奇跡のようなピッチング内容。
プロのものはともかく、高校時代の練習時代さえ、ほぼ網羅しているこの記述。
それがついに終わろうとしている。
(日本に帰ったら、ゆっくりしよう)
このワールドシリーズ、瑞希は正直、どちらが勝ってもどうでもいい。
ただ直史だけが、満足のいくピッチングを出来たなら。
ブリアンは素晴らしいバッターで、やがて大介が衰えた時は、MLBで最高のバッターと呼ばれるようになるのかもしれない。
だが少なくとも今の時点では、直史とはまだ対等とは言いがたいだろう。
それでもこのワールドシリーズは、二つのリーグの最強のチーム同士の対決だ。
武史が投げた試合でさえも、負ける可能性はある。
メトロズの首脳陣が、どう直史を使っていくか。
ワールドシリーズの行方は、それだけにかかっているだろう。
そして直史は、どんな使われ方をしようと、それに文句はつけないだろう。
今の目の前にあるのは、おそらく勝利への渇望だけのはずだ。
昔から瑞希に何度も言っていた。自分はただ勝ちたいだけだと。
個人スポーツに手を出すようなことがあったなら、直史はもっと簡単に結果を残したかもしれない。
一方で野球以外で、直史の才能が開花したとは、思えないとも考える瑞希である。
なんだかんだで集団競技を選んだ。
その中で最大のパフォーマンスを発揮する。
それが直史としての、生き方なのだろう。
試合は終わりに近づいていく。
だがワールドシリーズ自体は、まだこれが第一戦なのだ。
瑞希は残りの試合も、このスタジアムの熱狂を含めて、全て記録していく。
だがこのミネソタを覆う、絶望のような感覚もまた、記憶しておくべきことだろう。
直史の投げる試合は負けない。
エースの投げる試合には、負けないのだ。だからこそエースなのだ。
マウンドに立つ姿は、常に孤高。
だからこそそれは、一際目立って輝いて見えるのだ。
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