第9話

 自暴自棄に陥った私の耳に、なぜか懐かしく感じる機械音が届いてきた。

 再度、鳴らされる。呼び出しのチャイムであった。

 ぴんぽーん、ぴんぽんぴんぽーん、となんとも気の抜けた調子で鳴り続けている。

 玄関にひとりの男が佇んでいるのが、庭からでも確認できた。その男が、しきりにチャイムを鳴らしているのだ。実際、玄関からでもなかの状態は分かるはずなのである。なぜかしこまってチャイムなど鳴らしているのだ。頭おかしいんじゃないか。

 その間の抜けた行為に対して、苛立ちがつのってくる。こちらは今現在、生死をかけた戦いの真っ最中なのだ。そのヒーローをこともあろうかチャイムで呼び出そうとするとはいったいどういう了見だ。


「待ってください。特殊部隊の皆さん」

 誰も出ないなら仕方がない、といった調子で、しきりに頭を下げながら、スーツの男が顔をのぞかせた。庭に足を踏み入れてくる。

「皆様の気持ちもわたくし重々承知いたしておりますのでありますが、その、いかんせん上からの命令でありましてその……」


 その語尾の濁し方で、私は気付いた。

 先程電話に出た〈ロマンティック〉の渉外係だ。間違いない。そのことに思い当たり、さらに今の対応と電話での話が加味され、私のなかで男に対する怒りは何倍にもなっていく。この現状をまねいたこと自体が全てその男の責任なのではないかとまで思えてきた。


「何だこのやろう」

「邪魔する気ね」とオカマ

「手柄を横取りする気か」

 揃って顔を真っ赤にして鼻息荒い男達に迫られ、渉外係は逆に蒼白になっている。


「いや、ですからですね。特殊部隊の皆様におかれましては上からの評判も上々でしてですね、ハイ。ただそれとは別件で参りましたわけでありまして、なお、あ、その、決してわたくし皆様の手柄を横取りしようなどとそんなそんな……」

 相変わらず何が言いたいのかさっぱり分からない。


「なんだあんたは。いったい何しに来やがった」

「横取りね」

「なに」

「けしからん」

 男達はずいずいと距離を詰めていく。完全に狼狽してしまった渉外係はもはやなにを言っているのか日本語としても意味をなしていないようなセリフを吐き出しながらじりじりと後ずさり始める。

 と、一瞬、その体が消えたかに見えた。良く見ると、ただ躓いてこけただけだったようだ。その拍子に眼鏡が飛んでいったらしく、土の上に四つんばいになってしきりに手許を探っている。すぐ目の前にあるにも関わらず見えないようである。極度の近眼なのだろう。その額には汗が浮き出し始めていた。

 渉外係の右手が眼鏡を握ったのと、男の足がその眼鏡を踏みつけたのがほぼ同時であった。鈍い音を立てて、渉外係の眼鏡はその右手と一緒に粉砕された。渉外係が反射的に手を引っ込めその拍子に横向けに倒れる。はらり、と一枚の紙切れが、ポケットから落ちた。気付いた渉外係がその紙切れに、今度は左手を伸ばす。必死の形相である。

 しかし、紙切れに届く前に、その左手はオカマの足に踏みつけられた。

 もう一人の男が、紙切れを手に取りゆっくりと中身を確認する。


「契約 ヒーローが液状化している際には手を出してはならない。悪の組織〈ロマンティック〉……なんじゃこりゃ」

 男は首をかしげているが、私はその衝撃に、身震いした。水面が大きく揺れ動いたことだろう。

 男は律儀にも上に掛け合ってくれたのだ。そして、見事契約をものしてくれたのだ。


「ですからですね。その、その通りでありましてですね。今しがた会議により決定された契約内容でありましてですね。その、皆様におかれましては大変上の評判も良くですね……」

「それはもういい」

「要点だけを明確に言え」

 ぴしゃりとやり込められた渉外係はガラス部位が完全に割れてしまいフレームもいびつにゆがんでいる眼鏡をしきりに弄り回しながら、すいませんすいませんと頭を下げている。


「その、とどのつまりは、今皆様があちらの……」

 というと、渉外係が私の方を指差す。

「液状化ヒーロー様に手を出すとですね、結局のところ、皆様の負けになってしまうのでありましてですね、その……」

「なに、それは困る」

「そうだ、負けは駄目だ」

「それは許されん」

 口々に発言する男達に押される形で、渉外係の説明が煙に消えていく。

 男達は状況を理解したらしく、思い思いの体勢でその場で待機することにしたようである。


 かくして、私はぎりぎりのところで救われたのだった。液状化しているときに手を出さない、という契約さえあれば、こっちのものである。元に戻ってもこちらの数的不利は絶対的なものであるが、そこは私にもヒーローとしての長年のノウハウがある。どれだけ敵が多かろうとも、最後にはヒーローが勝つのだ。世の中、そういう風になっているのである。その仕組みのもと、世界ヒーロー協会、悪の組織〈ロマンティック〉共々、絶妙の均衡を保ちつつ、もちつもたれつなのだ。



 どれほどの時間が経過したのか、私にはわからなかった。いつの間にか深い眠りに落ちていたようである。

 周囲に注意を向けると、待機中の男達が視界に入ってきた。その視界が、なぜか分からないが、いつもよりもかなり暗い。一枚だったヴェールが、5、6枚重ねられたような気分だ。男達の輪郭はなんとなく認識できるのであるが、その顔かたちまではまったくと言っていいほどわからない。


 寝起きだからか、と一瞬は思うが、今まではそんなことは無かったのである。いったいどうしたと言うのであろう。

 体を包む違和感が増していく。体が元に戻りつつあることはなんとなく認識できたのであるが、いつもと決定的に異なっている。嘔吐感にも似た不快な感情が、体の隅々から送られてくる。

 視線が次第に高くなっていることから、人の形に戻りつつあることは間違いない。ただ、なにかが違う。まず、意識レベルが回復しないのだ。いつまで経っても辺りを包むヴェールが剥がれてくれず、触覚も聴覚も戻らない。どこか遠くでさざなみが起こっている。他人の耳鳴り。ガラス越しの風景。


 ふと気付くと、目の前の割られた窓から、見覚えのある部屋の風景が広がる。セミダブルのベッド。散乱する化粧品。間違いない。2階の部屋だ。2階? なぜ目の前が2階なのだ。地面が陥没したのか、家屋が倒壊したのか。


 ――いや、違う。


 私は足元を見る。正確には、足元と思われる付近である。

 そこには、小人のようになってしまった男達が、私を見上げているようであった。実際にはその姿はおぼろげに輪郭が確認できる程度であるため、彼らの表情は分からない。

 私が巨大化したのだ。私は足を踏み出した。踏み出したつもりであったが、思うようにいかない。体の細部にまで連絡が行き渡らない。

 なぜだ、という問いが、頭の中でぐるぐると回り、そのまま慣性で渦巻きとなってゆく。

 空が異様に暗いということが、夜になったと言うことなのか、それとも視界を幾重にも覆っている膜のせいなのか。私が周囲を見回す。と言っても、首を回すという作業を行ったわけではない。それでも360度どの位置の風景も認識できるのである。


 庭に待機する男達のなかの数人は、傘をさしている。

 傘、ということは、雨、か。

 私はもういちど空に注意を向ける。

 反射的に手をかざそうとするが、すでに自分の中でどの部分に力を入れれば手を動かせるのかが分からない。仕方なく、適当な部分に力をこめてみる。

 しゃばしゃばり、という異様な感覚が、遠くから伝わってきた。私の体の中で、波動のように反射と干渉を繰り返し、少しずつ減退していく。派動が干渉するたびに、脳の中を直接くすぐられているような感覚になる。

 ぐらり、と体全体が揺れた。

 どうやら、先程の部分は足への連絡を司る神経回路だったようである。私は一歩先へと進んだ。目の前の男達らしき人間達は、そのまま同じ距離を後ずさる。


 雨。

 雨……

 あめ……

 声にならない声で呟いているうちに、私には事の真相が見えてきた。

 雨が降ってきたのだ。それも、私が液体になっている間に。

 するとどうなるか。

 当然、屋根も無い庭で液状化している私にも降り注いでくる。

 どうなるか。

 考えれば考えるほど、私の脳裏に、負の感情が渦巻いてくる。もう少しで洪水になりそうなほどだ。それは以前なら、怒りという名で呼ばれていたものである。

 確かに、契約には『液状化している時にはいっさい手を出さない』ということだけしか記述されていなかった。

 しかし、である。

 私は液体となっているのである。当然雨とは混ざってしまうわけである。その結果が今のこの訳のわからない状況だ。

 心の中がふつふつと沸騰してくる。その熱は体中の水分と合わさって拡散していくが、次から次に渦巻く感情が、いくらでも心を沸騰させる。

 雨が降ってきたら、傘をさす。

 そして、傘を持っていない者に対してはそっと自然な仕草で傘をさしかけてくれることぐらい常識ではないか。契約がどうだということ以前に、人間としてどうかという問題となってくる部分だ。契約さえ守っていればあとはどうでもいいのか。そうなのか。本当にそんなことで日本の将来は大丈夫なのか。


 もう一歩、足を踏み出してみる。

 それに呼応するように、男達が後ろに下がっていく。

 いくらでも不満は出てくる。しかし、このままここでしゃばしゃばしていても、何もどうにもならないのである。開き直って前を見るしかない。私はヒーローなのである。

 私は足と思しき部位に力をこめて、自分の家の塀をまたぎ超えた。

 なにかしなければならないことがあったはずである。ヒーローとしてだったか。それとも個人的事情だったか。


 高野山に助けに行かなければならない。


 不意に、私の脳裏にひらめいた。

 そうだ。高野山だ。高野山で私の助けを待っているのだ。行かねば。


 しかし、いったい誰が?

 次々に足を踏み出しながらも、私は思い出してみる。断片的なフレーズが現れては泡のようにはじけていく。私は鈍い思考をなんとか渦巻かせる。


 歩を進めるたびに体内で津波が起こり、さらに新しい津波と合わさり大津波となり私の思考を覆い尽くしていく。いったい何がどうなっているのか、しだいに曖昧になっていく。自分がヒーローであるということはなんとなくわかるのだが、だからといってこの現在の状況の説明にはならない。


 私はなぜにヒーローとしてしゃばしゃばしているのだろう。

 そもそもヒーローとはいったいなんなのだ。

 ヒーローと対を成すように現れる〈ロマンティック〉というフレーズ。なんだ、その〈ロマンティック〉というのは。新手の波の名前なのか。

 津波、渦巻き、大しけ、洪水、高野山……。


 高野山。

 そうだ、高野山だ。高野山に行かねば。

 なぜ。

 誰かが、助けを待っているのだ。

 誰が。


 うろうろと思考を彷徨わせていると、すぐ近くに難破船のように漂うフレーズがあった。私はそれを捕まえる。


 織田信長。

 そうだ、織田信長だ。

 私は高野山に織田信長を助けに行くのだ。

 何者かに連れ去られた織田信長が高野山で私の助けを待っているのだ。なんとしてでも助けねばなるまい。

 そうだ。そうに違いない。

 そうときまれば、行くぞ、者ども。

 敵は高野山にあり。

 であえ、であえー……。

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液状化ヒーロー 高丘真介 @s_takaoka

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