第24話 膨らんでいく疑心

「捨てられる……? どういうことでしょう? なにを知っているのですか?」


 狼狽するわたしに、王妃は悲しげな微笑を浮かべた。

 リンデル王妃の本質が掴めない。彼女からは野心が感じられない。伝わってくるのは、もっと個人的な感情。——綺麗なものへの憧れ。夫への憎しみ。愛されない悲しみ。美しさに対する嫉妬。容姿への嘆き。自分と同じ不幸な者への同情。


(息子を後継者にするために、画策する人には見えない。けれど、すぐに判断を下すのは軽率だわ。息子を後継者にするためなら、人格が変わることだってありえる。それに王妃に野心がなくても、周囲の人間は分からないもの)


 小窓から西日が入ってきて王妃の横顔を照らし、厚塗りの白化粧がオレンジ色に染まる。王妃は椅子を引いて、影に入った。


「日に焼けるのは嫌いだわ。……この城ね、幽霊が出るの。当たり前よね。だって大勢の人が死んだんだもの。戦争やむごい刑罰のせいだけじゃない。若さと美を追い求めて、乙女の血を飲んだ王妃もいたのよ。浅ましいわよね。私は息子と二人で田舎に移り住んで、穏やかに暮らしたい」


 体がかじかむのは、寒さのせいだけじゃない。この城に漂う陰鬱さの正体が分かった気がして、血の気が引く。

 震える指でグラスを持ち、酸味のある果実酒で唇を濡らす。


「幽霊が出るなんて、嘘ですよね?」

「そういえば……ヴェリニヘルムはあなたを迎えに行った際、酷いことを言ったそうね。愛せないとか、顔を見るのも嫌だとか、別な女性と親しくしているとか。道中も、あなたを無視したと聞いたわ。冷たい男ね。でも仕方がないのよ。ヴェリニヘルムの母親は意地の悪い女だから。ヴェリニヘルムは愛情がどういうものか分からないの。可哀想な人なのよ」

「殿下の母親を知っているのですか?」

「知っているもなにも、親類だもの」


 リンデル王妃は細い指を組むと、遠い目をした。


「夫はね、若くて美しい女性が好きなの。ヴェリニヘルムの母親のミザリーも、とても美しかった。でも怒りっぽくてね、ヴェリニヘルムを叩いてばかりいた。ヴェリニヘルムの体に火傷の痕があるの。ミザリーが火かき棒を押し付けてできたものよ。ミザリーが激昂すると、誰にも手がつけられない。でもミザリーは美しいから、許される。ふふっ、いいわよね。……前妻の子供たちが病で死んでしまい、何人もいる愛人の子供たちの中から、ヴェリニヘルムが跡継ぎに選ばれた。ヴェリニヘルムは感謝して、国王の忠実なしもべになった。だから、ヴェリニヘルムは国王に逆らえない。あなたって、とても可哀想」

「わたしにも分かるよう、説明してくれませんか⁉︎ どうして殿下が、わたしを捨てるだなんて思うのですか!!」


 けれど王妃は真っ赤な唇を歪めて笑うだけで、それ以上話してくれなかった。



 ✢✢✢



 その日の夜。わたしはベッドの上で膝を抱えると、膝頭に顔を埋めて体を縮こませた。

 なにもかもが信じられない。海に木切れが浮いていて、どこに流れ着くのか分からない。そんな途方もない気分だった。


 従者アラモンドはやはり、リンデル王妃に情報を流していた。けれどヴェリニヘルムは、愛せないとか、顔を見るのも嫌だとか、別な女性と親しくしているなどと言っていない。

 アラモンドは密告者として失格だ。言葉を歪め、付け足し、誇張した報告をしている。


 とりとめのない思考は、夕食の席での出来事に思いを巡らせる。

 ノルール国王は同席せず、わたしとヴェリニヘルム、リンデル王妃とその息子の四人で夕食を囲んだ。

 王妃の息子リチャードは、八歳。だが、実年齢より随分と幼い。無邪気で明るいといえば聞こえがいいけれど、知性が感じられない子だった。

 ヴェリニヘルムは心ここにあらずといった様子だったが、リチャードは気にかけることなく無邪気に尋ねた。


「おじさんはユリシスが嫌いなんでしょう?」

「なぜ?」

「だってボク、聞いたもん! 結婚式を取り止めるって!」

「取り止めはしない。延期するだけだ」

「初耳なのですが……延期するのですか?」


 わたしの問いかけに、ヴェリニヘルムは口を固く閉ざした。わたしのことをチラリとも見てくれなかった。


 馬車での出来事が夢に思えてくる。ヴェリニヘルムの膝の上で過ごした時間は、実はうたた寝していただけで、仲睦まじいひとときは夢だったのではないか。


 —— あなたもうじき、ヴェリニヘルムに捨てられるのよ。


 王妃の台詞が鳴り響く。

 ヴェリニヘルムに会いたい。会って話したら、疑心と不安から解消される。

 ヴェリニヘルムは隣の部屋にいる。けれど会うのが怖い。王妃の話が真実だとしたら、わたしはどうすればいいのだろう。


「それにわたしたちは、仮面夫婦を演じているのだわ。なのに部屋を訪問するなんておかしいわよね……」


 ガタガタっと激しい音がして、肩がびくんと跳ねる。

 強風で窓ガラスが鳴ったらしい。リンデル王妃が幽霊が出ると言ったことを思い出し、恐怖で体が震える。


「怖い……誰か、助けて……」


 幽霊が出るという不気味な古城。窓の下は断崖絶壁で、わたしに逃げ場などない現実を否応なしに突きつける。春の夜の寒さが足と手指を氷のように冷たくさせ、不安と心細さと恐怖と不信が窒息しそうなほどに重くのしかかる。

 ヴェリニヘルムは味方となる一派を増やすために、わたしを痛めつけるつもりなのだと、そう兄は話していた。


「仮面夫婦を演じるのは、危険なんじゃ……」


 リンデル王妃は敵意の目を向けなかったけれど、城にいる者たちはわたしとお付きの者たちを嫌悪の目で見たし、侍女のアンリは「目で殺されそうです。怖い」と怯えていた。


 仮面夫婦として仲の悪さを演じることは、ヴェリニヘルムはわたしの味方ではないと周囲に言っているようなもの。

 わたしがもしもヴェリニヘルムに痛めつけられることがあっても、人々はストアディア人に復讐できたと喜ぶだけだろう。ヴェリニヘルムがわたしを殺したとしても、互いを忌み嫌っている政略結婚だから仕方がないで済まされそうな気がする。

 

「殿下に騙されたのかもしれない。わたしの虜だなんて嘘で、愛することができないというのが真実だったりして……」


 

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