6-5

 ジェレミーの怒鳴り声が最高潮に達して、俺はハワード爺さんみたいにやつのどこかの血管が切れるんじゃないかと思った。そしたら死体がふたつできあがることになるけど、こいつは納骨堂の小さな入れ物ボックスにはおさまりそうにないし、クリスも始末に困るだろう。

 クリスはその場から一歩も動いていなかった。

 もういいからやっちまおう。狼の姿だから殴れないが、飛びかかれば、その勢いで戸棚ロッカーに頭をぶつけるかもしれない。そうなったらめっけもんだ。

 俺がうしろ脚に力を込めて、わめき続けるやつの肩のあたりに狙いを定めたとき、ジェレミーの頭の上に白いもやもやしたものがうかびあがった。

 それはだんだん固まって、なにかの形――人のように見えた――になった。ロードサイドのダイナーに飾ってある、〈メンソレータム〉の昔のマスコットみたいな、ブルーのワンピースに白いナースキャップとエプロンをつけていて、背中からちっちゃな羽がのぞいている。

 そいつが見えたのは俺だけじゃなかったみたいだ。クリスも視線が上のほうにいっている。気づいてないのはジェレミーひとりだが、まあ頭のてっぺんに目はついてないからな。

 ナース服を着たキューピッドみたいなやつは、手に持っていたクリップボードでジェレミーの後頭部を殴りつけた。

 俺にはクリップボードに見えたが、本当は石板かなにかだったのかもしれない。というのはやつが昏倒したからだ。

「もう、やんなっちゃう、この子ったらわたしの話をぜんぜん聞こうとしないんだから!」

 殴ったやつは腰に両手を当てて、怒った様子で、うつぶせに倒れたジェレミーを見下ろしている。

「あんた誰?」俺は聞いてみた。

「わたしが見えるの?」

 彼女(だと思う)は俺のほうを向いて、なんだか嬉しそうに頬を赤らめた。

「うん。天使キューピッドみたいに見えるけど」

「わたしは天使エンジェルよ。少なくともそう呼ばれてる。名前はアサリア」

「――アサリア?」クリスが喘ぐように言った。「まさか――ええと、あの、ラファエル様の……?」

「ええ、そうよ。はじめまして――じゃないけれど、はじめまして、と言っておくわね、クリス」

 アサリアとかいう天使(ということにしておこう)は可愛らしくにっこりした。クリスはもうどうしたらいいかわからないみたいで言葉も出ない。もしアサリアが手を差し出したら握手でもしたかもしれないが、クリスはその場にひざまずいてしまった。

「天使が人を殴っていいのかよ?」

「インスタント麻酔薬よ。ウリエル様だってヤコブの股関節を脱臼させたことがおありなんだし――あれはさすがに禁じ手だと思うけれど。もしなにかあってもラファエル様がなんとかしてくださる、と思うわ、ディーン」

「俺の名前を知ってるの?」

「もちろん。主はなにもかもご存知なのよ」

「俺が人狼ってことも?」

「ええ」

「神の炎とかいうやつで俺を滅ぼしたりしない?」

「どうして? あなたは神の猟犬だもの。ブラウンさんたち親子を助けてくれてありがとう」

「どういたしまして。犬扱いされるのは好きじゃないけど、その呼びかたはカッコいいね」

「主はあなたにもっと愛されたがっているわ。マクファーソン神父のことを好きなの以上にね」

「俺がクリスのことを好きなのは、クリスが俺を食わせてくれるからだよ」

 アサリアはなにも言わずに目を細めた。

 俺はこのちびっこ天使が好きになってきた。すごく感じがいいし、最初にジェレミーの野郎を容赦なくぶん殴ったのも気に入った。それに、彼女が現れてから、納骨堂の中が、今まで嗅いだことがないくらいいい匂い――甘くて、ちょっと柑橘系みたいなスパイスのきいた香りでいっぱいになったからだ。

「あの……大変失礼ですが、もしお許しいただけるなら……」

 ようやくショックから回復したらしいクリスが声をかけた。

「ごめんなさい、クリス」アサリアは申し訳なさそうに、きらきら輝く大きな丸い眼に哀しげな色をうかべた。

「あなたの聞きたいことはわかるけれど――この場にいなくて、生きてもいない人たちについて話すのは許されていないの。わたしたちが必ずしも、あなたがたが信じたいと思っているほどには強くも完璧でもないということは、たぶんあなたならわかってくれると思うけれど」

「……ええ」クリスは微笑わらって、わずかに引き下がった。

「でも、ラファエル様から、よろしくと伝言を預かっているの。“わたしの同僚が”――というのはミカエル様のことなんだけれど――“いろいろと気詰まりな思いをさせてしまってすまないね”、って。一九五〇年にピウス十二世が警察も任せたものだから、ミカエル様はお忙しくて、なかなかひとりひとりに手が回らないの。――大体、彼に言ったのはこういう意味じゃなかったのに!」

「彼、というのはもしかして……?」クリスが尋ねた。

「決まっているじゃない、この子よ」

 アサリアはまだブッ倒れているジェレミーを指さした。クリスが息を呑むのがわかった。

「たしかに、この世界をここに書かれているようなものにするように、とは言ったけれど、それは寛容の心を持てっていうことであって、世界を火の谷みたいにすることじゃないのに」

「あんたがたが余計なひと言をこいつの耳に吹き込んでくれたおかげで、こっちはえらい迷惑だよ」

「……ディーン!」クリスがひきつったように叫んだ。

「司祭になれって言ったわけじゃないの」

 アサリアはちょっと困った顔をして言った。

「どう解釈するかはその人の自由だから――彼がジャン・ボダンみたいな検事になることを選んだとしてもそれは……悲しいことだけれど、しかたがないの。人間が善悪の木の実をとって食べたあの日から、自由意志というものが生まれたのだから」

 ジャン・ボダンが誰かはわからなかったが、おおかたろくでもない野郎なんだろうってことは想像がついた。

「だけどさっきあんたは、ジェレミーのやつが俺を悪魔呼ばわりして追っ払おうとするのを止めてくれたよね」

「……ほんとうはいけないんだけど」

 アサリアが悪戯っぽくぺろりと舌を出したので、俺はますます彼女(だよな?)が気に入った。

「だってあなたはこの子を助けてくれたでしょ、だから必死に止めようとして声をかけたのに、耳を貸そうともしないんだもの。――ああ、でももう行かなくちゃ」

 お飾りみたいな小さな白い羽がぴょこりと広がる。

「こいつはどうすんの?」

「わたしがここを去ったら、目覚めると思うわ。しばらくしても意識が戻らないようなら、救急車を呼んで」

 ……おいおい、なんて天使だよ。

「……あの、さしつかえなければ最後にお聞きしても……?」クリスが恐るおそる尋ねた。

「わたしで答えられることなら」

「我々は今、主の御使いの顕現を目撃したわけですが、このことをバチカンに報告すべきなのでしょうか……?」

「……うーん、できることならしてほしくないのだけれど」恥ずかしそうに、空中でちょっと身をよじる。

「だって……警察をごまかすのとは違うわけだから、あなたは見たままを伝えなきゃいけないでしょ、そうしたら……なんて言うの?」

「ディーンが人狼なのは伏せておけたとしても、出現した御使いが、ブレナン助祭を……その、クリップボードで殴るのを見た、と言わざるを得ないでしょうね」

「アサリア、クリスは冗談を言ってるんだよ」

「私は本気だよ」

「ええと……さっきも言ったように、わたしたちはあなたがたになにかを強制することはできないの。だから、わたしに言えることは、あなたがバチカンには黙っておいていてくれたら嬉しい、ということだけよ」

「わかりました」クリスは微笑んだ。「ディーンがよく言うように、イメージの問題というものですね」

「ありがとう。主の平和があなたがたの上にありますように」

「ねえ、俺からもひとつ聞きたいんだけどさ」

 彼女はさらにふわりと浮き上がっていた。

「ええ、なにかしら?」

「天使ってのは吸血鬼と違って、礼儀をわきまえてるんだよな? あんたがたもどこにでも出入りできるみたいだけど、他人のプライバシーをのぞき見したりはしないよな?」

「……もちろんよ」

 それじゃあね、と言ってアサリアは消えたが、答える前に顔が赤くなったのと、妙ながあったのはまちがいなかった。

 クソ、こんな子がいるなら神様ってのは案外いいやつなんじゃないかと思った俺がバカだったぜ。

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