第50話 (5)夏休みの出稽古4
目を開けると、見覚えのある天井があった。
あの染みを覚えている。二つの染みが重なり合って瓢箪みたいな形をしている染みだ。
ひょうたん道場。そう呼んでいた道場があった。子供の頃に祖父と一緒に通っていた町道場だった。
あの天井の染みを見つけた日から、おれはその道場のことをひょうたん道場と呼んでいた。
ひょうたん道場は民家の離れを改築して作られた道場で、道場主である乾先生は会社を定年退職したあと、自宅を改築して剣道の道場を作った。
祖父とは古くからの友人らしく、若い頃はお互い良きライバルだったらしい。
たしか、毎週水曜日だったと思う。
ひょうたん道場では子供剣道教室が開かれ、おれはそこに参加していた。
その頃からおれは剣道三昧の毎日を送っていて、ひょうたん道場の子供剣道教室以外にも、警察の剣道教室や地区のスポーツセンターでやっている剣道教室などにも祖父と一緒に顔を出していて、地元でも有名な剣道少年だった。
「そんな竹刀の握り方じゃダメだ。ちゃんと、こうやって握るんだ」
祖父の皺くちゃで大きな手がおれの手に添えられる。大きく温かな手。おれはこの手に支えられながら剣道を学んできた。
「負けたっていいじゃないか。もっと練習をして強くなればいいんだ」
小学生の時に地区大会の決勝で負けて泣きじゃくっていたおれに祖父が掛けてくれた言葉だ。
「本当に大丈夫?」
「軽い脳震盪だと思うけどな」
この言葉は……あれ?
聞き覚えのある声に、おれはゆっくりと目を開けた。
見覚えのある顔がいくつも見える。
「お、目を開けたぞ」
「大丈夫か、花岡くん」
おれのことを見下ろす顔。河上先輩、田坂さん、岡田さん、前田、そして高瀬。
「あれ?」
おれは全員の顔を見回して、どこにもじいちゃんがいないことを確認する。
だんだんと記憶が甦って来る。
たしかおれは、河上先輩の通っているY大学の剣道部の練習に参加さて貰って、岡田さんと試合稽古をしていたはずだ。
「花岡、大丈夫?」
「高瀬……」
面手拭いを被った高瀬の顔がおれの視界を占領する。
「心配したんだぞ、いきなり倒れるから」
高瀬が目に涙を浮かべながらいう。
「え、倒れた? おれが?」
「多分、面を打たれた時の脳震盪だと思うけど」
「悪かったね、花岡くん」
岡田さんが申し訳無さそうにいう。
だんだん、バラバラになっていた記憶のパズルが組みあがっていく。
そうだ、おれは岡田さんの妙な技で竹刀を巻き取られて……。
そこまで思い出して、おれは飛び起きた。
「ちょっと」
高瀬が驚いた声を上げる。
いま気づいたことだが、おれの頭の下には高瀬の袴を履いた膝があった。どうやら、おれは高瀬に膝枕をしてもらっていたようだ。
そのことがわかった途端、急激に恥ずかしくなる。
「高瀬さんは、お前が倒れたのを知って練習を中断して飛んできたんだぞ。まったく、女泣かせな奴だよ、花岡は」
河上先輩がにやにやと笑いながらいう。
「そうか、ありがとう高瀬」
「あまり無理すんなよな」
消え去りそうな小声で高瀬がいう。
いつもは見せないそんな高瀬の一面を見て、おれの心臓は何故か高鳴っていた。
「高瀬さん、花岡くんが回復したなら戻ってらっしゃい。練習を再開するわよ」
女子剣道部が練習している場所から高瀬を呼ぶ声が聞こえてきた。
その高瀬を呼ぶ声に聞き覚えがあり、おれはその声のした方へと無意識に目をやっていた。
あ、佐竹先輩。
そこには間違いなく、佐竹先輩がいた。
高校時代はポニーテールに結っていた髪は肩の辺りまで短く切られていたが、間違いなく佐竹先輩だった。
「それじゃ、わたしは練習に戻ります」
高瀬は河上先輩たちに頭を下げると女子が練習しているコートへと戻って行った。
コートへ戻った高瀬は、佐竹先輩となにやら笑みを浮かべながら話している。
ああ、佐竹先輩。髪を切って大人っぽくなりましたね。大学生になるとあんなにも大人っぽくなってしまうのか。なんか綺麗なお姉さんって感じだよなあ。
そんなことを思いながら、おれは自分の心境の変化に気づいていた。
あれ、おかしいぞ。前までのおれだったら、佐竹先輩の姿を見つけたら、いてもたってもいられなくなっていたはずなのに。
『ごめんね。私には花岡くんは可愛い弟みたいにしか見えないの。酷ないい方かもしれないけれども、恋愛対象外』
またあの言葉が脳裏に甦って来る。
しかし、ショックはもうない。可愛い弟か。それもいいな。そんな風に思えてしまうのだ。
「おい、花岡。お前はどうするよ。見学しておくか?」
「いえ、やります。もう一度、岡田さんと試合稽古をやらさせてください」
「マジで言ってんの、花岡」
「はい」
おれの言葉に河上先輩は苦笑いを浮かべていたが、岡田さんは「いつでも相手になるよ」と笑顔でいってくれた。
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