第101話.青目ノ女
奈落の底へ転げ落ちていく感覚。
痛いだとか、辛いだとかいうことを考える余地はない。視界が回って、浮遊感。
あっという間に暗闇だ。
どれ位の時間が経っただろうか。
気がついた私は、ゆっくりと上体を起こして辺りを見回した。
滑落している間に、いくらも身体を打ち付けたようだ。折角の軍服が泥と血だらけだ。それに何かぶつかってくれたのか、左目が開かない。打ち身や擦り傷は無数にあるが、幸運にもどこも動くらしい。
どこから落ちたのか、崖上を見上げても定かでは無い。絶壁のようになった部分もあるし、ここを登って復帰するのは不可能だろう。
『うぅ……』
呻き声が聞こえる。
すぐ近くに、あのルシヤの女が仰向けに倒れていた。危険性は無いのか、それを確認する必要がある。
ゆっくりと慎重に近づく、起き上がってくるというのも考えられる。その姿を覗き込むと、同じように全身に怪我を負っていた。特に足が酷い。出血もそうだが、素人目にも骨がどうにかなっているのがわかる。武器を持っていないか検査していると、彼女は目覚めた。
「どうやら目覚めたようだな」
いつでも取り押さえられるように注意しつつ話しかける。
『ああ、いや。もう戦う気は無い』
私の顔を見て、自らの手足を確認して、彼女は再び仰向けになった。
『さあ殺せ。そして私の勝ちだ』
「何?聞き間違いか、勝利だと言ったのか」
私よりも重傷に見えるがな。
『小さき鷹の眼を奪ったんだ、私の命なんて安いものだ。父よ母よ、私はやりとげた』
そういって、彼女の青い瞳が涙で潤んだ。
目を奪ったというのは私の左目の事か、開かんからどうなっているのかはわからんが、良くは無いようだな。
「何だ、何がどうなってる」
『鷹よ。私はな、貴様と同じだ。識者だよ』
彼女はどこか遠くを見るような目で、虚空を見つめながら話し始めた。もはやこれまでであると理解しているのだろう。
『私は前世で、すぐ先の未来を見てきた。貴様の存在が、たった一人の男の存在が、日本にある鷹の存在が、巨大なルシヤ帝国の障害となった未来を』
識者だと?こいつがそうか。ルシヤの識者。
しかし話し振りだと私の知る前世とは、また別の歴史の未来のようだが。
私は未来が一つだと理解していた。当然そうだ、自分が見た平成が全てだと。そしてこの現世は、明而は何かのキッカケで歴史が変わった姿だと思っていた。
だがこいつはどうだ。ルシヤだと、この世界の延長の歴史を見たような事を言っているではないか。果たして識者の数だけ未来があるのか、それとも何か別の法則が。
『貴様の所為で父は無能の烙印を受けて処刑され、母は迫害を受けた。挙句に残った私は戦死だよ』
その運命を変えるべく、再び同じように軍に入り、同じように身を立て、同じように日本と戦争をして。そして私を道連れに身を投げた。そういう事か。
『鷹は、貴様は強かった。いや、強すぎた。十人送り込めば十人死に、百人送り込めば百人死んだ。殆どの者はその姿も見ることが出来ずに死んだ。徹底的に武器や将校を狙ってくるため、機関銃手は忌み嫌われ、将校は帯刀することを恐れた』
仰向けのまま、呆然と話し続けている。
『たった一人の男に、大国ルシヤが翻弄された。ありえない事が起こったのだ』
「それで戦争は、この戦争の行く末はどうなった。私の活躍で日本は勝てたのか?」
『知らん。本当に知らんよ、戦争が終わる前に私は死んだからな』
ふぅと一息ついて、言った。
『あぁ貴様の眼を奪ってやって本当に気分が良い。我が家の名誉は晴らした。さあ、殺せ』
「武装はしていないな」
『もう何もない。鷹相手では白兵戦でも敵わないのは分かっているからな。さあ、もういい殺せ』
布切れを取り出して、女の出血のある足に巻いてやる。血が止まれば、何とでもなるだろう。
「ならば貴様は捕虜だ。殺さんし、殺せん。捕らえて連れて行く」
『無理だ』
彼女は上体を起こして、私に意見した。虚ろだった瞳は、こちらをはっきり見ている。
『そんな事が出来るわけがない』
「できる。貴様も先進国の兵隊ならば受け入れろよ。ルシヤの将校だろうが、誇りがあるだろう」
彼女は何か考えるような仕草をした後、両手を上げて言った。
『……わかった。投降する』
殺せるはずが無いだろう。情報は命だ、こいつからはまだ聞きたい事が山ほどあるのだ。
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