第91話.熊鍋
「すげえな、タカは」
「なんだ」
「綺麗に一発。肝も肉も汚れてない」
息の根の止まった羆を見ながらウナが言った。
弾丸は顎の下、喉から入って脊髄を破壊して後ろに抜けている。無駄に損傷させることなく、確実に動きとその命だけを断ったのだ。
明而陸軍の小銃は良い。個体差があるようではあるが、私の手にあるものは出来が良い。
「ああ、まぐれだよ。いつもこう上手くいくとは限らん、運もある」
羆がまさに立ち上がらんとする瞬間を狙い撃てるのが良かった。顎をあげて首元が見えたからな。
しかし、今回はそれに加えて不思議な事が起こった。まさに引き金を引かんとする瞬間に、弾道が見えたのだ。
弾丸が描いた軌跡ではない。これからなぞるその線が、銃口をから標的まで伸びるその線(ライン)が、はっきりと空中に見えたのだ。
だから発射の刹那、手元を調節できた。
目に写っていた蜘蛛の糸のような細い糸を、なぞるように弾丸が飛翔し、それは羆を貫いた。
これから通る弾道が見える。
そうなればもはや未来視だ。オカルトの世界である。一体あの線は何だったのだろうか、ただの見間違いかそれとも……。
何はともあれ狩りは成功だ。今はそれを喜ぶ事にしよう。
山で獲物をとるのはいつ以来だろうか。
山の神に祈りの言葉を奏上(そうじょう)する事にした。一つ一つの言葉(フレーズ)なんてはっきり覚えては居ないが、爺様がやっていた場面は良く覚えている。
脳内で彼の動きを再生しながら、いつかの爺様のようにそれをなぞった。
横にいるウナも祈りが始まると、興奮していた先ほどとはうって変わって静かに目を閉じて黙って聞いていた。
五分もない短い祈りが終わると、彼に声をかけた。
「よし、解体(ばら)すぞ。手を貸せ」
「わかった」
……
その日の夜、熊鍋会が始まった。
でかい鍋に野菜から味噌から入れて煮込んだ熊鍋だ。観測所の兵卒を、階級もなく集めて鍋を囲む。
こういう時に身分の差なく鍋を囲んだり、風呂に入ったりというのは我が国独自の風習のようだ。前世では合同演習の折などに他国とも交流があり驚かれた事があった。はるか昔の事ではあるが。
「熊肉というのは初めて食べました。これは美味いものですね」
「うん、熊は脂身が良いんだ。ちょっとそれも一緒に食(や)ってみろ」
若い兵卒に、真っ白な脂身も進める。彼は「はい」と二つ返事で躊躇なく口に運んだ。
「甘い。脂身は甘いですね、これも美味い」
黙って頷く。
しばらく鍋をつついていると、何か騒ぐ声が聞こえた。ウナが誰かに食ってかかっているようだが。
「おい、まて持ていくな。獲ったのはタカだぞ。先に食べて貰え!」
「何をしてるんだ、お前は」
「これ。タカが一番に食べないと」
熊の頭を指差している、煮られた頭部のようで、かなり迫力のある絵面だ。私に脳みそでも食えと言ってるのだろうか。
「いや、別に……」
実は脳みそというのは苦手だ、上手く調理すれば美味いんだろうが。どうにも受け付けない。
「駄目だ、仕留めたのはタカだから!食えよ先に。頰肉が一番美味いんだ、だからほら」
「ああ頰肉か」
ほろほろと崩れるその部位を適当に食べた。
「うん丁度良い。いや、頭を指差すから脳みそを食えと言ってるのかと思ったぞ」
「ああ、そっか!脳みそは生の方が美味しいから別にとってあるぞ、食べるか?」
「いや、良い」
「なんで」
「いや、良い」
「好き嫌いは良くないぞ」
食え、食えといらぬ世話を焼いてくるウナを抑えていると、一人の男が焼いた肉を持って来た。
「穂高中尉、焼き加減はこんなところで良いでしょうか」
「ああ。良いじゃないか」
獲れたてで熟成の進んでいない肉は、焼くと硬くなる事が多い。焼き過ぎない程度に火を通せ、と焼き係に指示したところうるさい焼肉奉行とでも思われたのか、一々確認に来るようになってしまった。
その後も晩餐は続き、我々は暖かいものを腹一杯食べる事ができた。残った肉も保存して、しばらくは使えそうだ。
羆に食料を荒らされたというのを聞いた時はどうなることかと思ったが、被害も大した事はなく肉も得られた。
災い転じて福となす、だ。
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