第37話.救助

「この辺りか」


高尾教諭がいなくなったと言う場所まで戻って来た。風は止み、雲間からは光も少し射し込んでいる。

天候回復に伴って、見通しは良くなった。しかし不明者の手掛かりになりそうなものは見当たらない。


口からは白い帯が、ゆるりと流れて行った。

立ったまま目を閉じる。にわかに現れたまぶたの裏の情景を無視して、空気の音を聴いた。

しんとした空間で、自らの呼吸音だけが耳に届いてくる。声が聞こえないかと考えたが、何も届かない。雪に音が吸われたのだろうか。


「おおーい!高尾教諭ーっ!」


なるべく大きな声で叫び、呼びかける。昨日から大声を上げ続けで声が枯れそうだ。


「おおーい!いないかーっ!」


その時、小さな物音が聞こえた。


「…………!」


その後に続く小さな声。何を言っているのかは判別できないが、人間であることは間違い無い。希望を抱き、その方向に進む。


どこまでも続くような真っ直ぐな白い地平。かすかに登り坂になっているその場所で、ふと違和感を感じて、ぴたりと足を止める。

正面に雪が崩れたような跡。


ここからでは良く分からないが、これは雪庇(せっぴ)だ。大地があるわけではなく、雪がひさしのように張り出している。脆弱な為、踏み抜くと崩れてしまう場合がある危険な地形だ。登山者の滑落事故の原因としても知られている。


「ここは大丈夫か……?」小さな声で自分に問うた。答えは返って来ない、今の足場が十分安全なものだという保証はない。

つっと背中を冷たいものが流れた。

恐る恐る来た道を少し戻り、回り込んで近くの立ち木の側まで来た。木が生えているから完全に安全、とは言えないが。

頼りないその木の腰に、取り出した縄(ロープ)を巻いて確保した。滑落しないよう、慎重に

崩れた斜面の下を覗き込む。


居た!八メートル程下。崩落した雪に混じって、岩肌に横たわった高尾教諭と目があった。滑落した時に怪我を負ったのだろう、白い雪が一部赤く染まっている。


「高尾教諭ーっ!大丈夫かーっ!」

「……」


体力が残って居ないのだろうか。彼は右手を持ち上げて振るだけで、声は聞こえて来ない。

縄(ロープ)の長さは十分。

崩れた雪庇を回り込んで、岩肌の斜面を降下すれば辿り着けそうだ。意を決して縄(ロープ)を手に、懸垂下降を決行することにした。

器具(カラビナ)が無いため、ロープのみを身体に絡ませて降下する技術を使う。

縄に体重を支える強度があるのか、引っ張って確かめる。手応えは良さそうであった。


「高尾教諭!今行きます、動かないで下さい!」


そう叫んで伝えると、彼は再び右手を動かして応えた。意識はしっかりしているのだろうか。


「ロープ行きますっ!」


斜面下にも届くよう大きな声で叫んだ。そのまま流れるような動作で、ロープを斜面に放り込んだ。

まるで生きた蛇のように滑り降りていく。しなやかなそれは頭を地面に届かせて「とぐろ」を巻いた。

そのまま、ながれるような動作で斜面を降りた。

倒れている高尾教諭の側に向かう。なるべく柔らかな声と表情を心がけて言葉をかけた。


「ああ良かった生きていて!教諭、もう大丈夫です」


私の言葉に、彼はゆっくりとこちらを向いた。その顔は髭も眉毛も真っ白になっていた。まるでくたびれたサンタクロースだ。老け込んだその口がもごもごと動く、元気のない声はこう言った。「足をやった。動けぬから置いて野営地に帰れ」と。


「大丈夫です、背負って帰りますから」


そう言いながら、教諭の身体をチェックする。滑落時に左側面を打ったらしい、左手と左足にダメージがある。なるべく衝撃を与えないようにして、背負う準備をした。


「学生らも皆無事でした、安心して。さあ、帰りましょう」


教諭を背負って斜面を戻る事にする。何か二言三言(ふたことみこと)言ったようだが、あしらって歩き始めた。置いていけだのなんだのと、今更そうしようと思うなら最初から来ないだろうよ。少し歩き始めた時、背中で再び声がした。


「……穂高、すまん。助かった」

「良かったですよ、見つかって。本当にそれだけです。生きて帰りましょう」


予想外の礼の言葉に、むずがゆいような気持ちを覚えながら斜面を登りはじめた。命の重さを肩にずしりと感じながら、フゥフゥと息を吐いて慎重に進んでいく。


「なあ穂高。一つ頼みがある」

「何ですか?」

「煙草を一本咥えさせてくれんか。手が使えんのでな」


コイツは、全く。

この期に禁煙しろとでも言ってやろうかと思ったが、やめた。しかし少しだけ嫌味をこめて言ってやった。


「今は私も手が塞がっているので、帰ってから呑みましょうね」

「……わかった」


言いたい事がないわけでもないが、だがそう、まずは戻らねば。そう思いながら天を見上げた。降りる時は僅かに感じた道程(みちのり)が、今は少し遠く見えた。

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