第39話 ドキドキ師匠

 その日の夜。わたしは勉強机の上に放置したままの書きかけの手紙を前にして、早々に続きを書くのを諦めて眠ることにした。どうしてすぐに諦めるのかって? 書きあがるよりも先にお母様と会うことが確定しちゃったからだ。


 アリシアからの手紙を受け取ったお母様の対応は迅速だった。今日の夕方には近衛魔法師団による王立魔法学園への特別監査の許可を女王陛下に取り付けて、明日の昼前には近衛魔法師団を率いてこの学園にやって来る。


 その知らせがわたしたちに届いたのは夕食の時間。お母様からの手紙を咥えた鷲が退院したアリシアの頭の上に止まって、手紙を落として行った。頭皮に爪が食い込んでアリシアが痛みに泣きながらぶち切れてたけど……。


 そんなこんなあって、明日のお昼にはお母様がやって来る。そして、手紙にはわたしたちに魔導書の書庫を調べるようにとの指示も書かれていた。盗まれた魔導書は一冊じゃない可能性をお母様は危惧しているみたいだった。


 だから明日は朝から書庫の調査をして、お母様の出迎えもしなくちゃいけない。五年ぶりにお母様と顔を合わせると考えると気が気じゃなかった。アリシアに話しかける時にも緊張はしたけど……、相手がお母様だともっと色んな意味で緊張してしまう。


「師匠、眠れませんか……?」


 一緒に布団に入ったミナリーが訊ねてくる。いつも眠り始めはわたしに背を向けるミナリーだけど、今日はわたしと向き合っていた。


 まだ少しあどけなさも残る端正な顔立ち。可愛らしいくりくりした赤い瞳。そして、瑞々しさに溢れる柔らかそうな桜色の唇。


「……っ」


 昨晩の光景が脳裏にフラッシュバックして、わたしは思わず息を呑んだ。お母様と再会する緊張なんてどこかにすっ飛んで行ってしまう。


「師匠? どうかしましたか?」


「う、あ、えーっと……」


 どうしてだろう。ミナリーの唇を見てドキドキしているわたしが居た。おかしい。今までこんな気持ちになったことないのに。ミナリーはわたしの大好きな弟子だけど、この大好きは変な意味じゃなくって。それは今までも、これからも変わらないはずなのに。


 なのに、頭から離れない。ミナリーとアリシアの唇が重なった光景。あれがアリシアを助けるための言わば医療行為だってことは頭で理解しているのに。受け流せないのはどうして?


「…………その。抵抗はなかったの? アリシアを助ける時に……、キス……しちゃうことにミナリーは」


「は?」


 ミナリーはジトーっと瞳でわたしを見てくる。


「ぅっ……じ、自分でも変な質問しちゃってる自覚はあるよ!? だけど、気になっちゃうんだよぅ」


「変な師匠ですね……。そりゃ相手が見ず知らずの男性だったら私も抵抗を覚えますが、相手はアリシアですよ」


「それって、アリシアが特別だから……?」


「アリシアに何かあったら師匠が悲しむからです」


 ミナリーはさも当然のように言う。わたしはもう恥ずかしいやら情けないやらでミナリーの胸に顔を押し付けた。


「師匠、寝苦しいので離れて欲しいんですが」


「ごめんねぇ、不埒な師匠でごめんねぇっ!」


「今この瞬間が最も不埒です」


 そう言いながらミナリーはわたしの頭に手を伸ばして髪を優しく撫でてくれる。


「アリシアに嫉妬しているんですか?」


「嫉妬というか、何というか……。どちらかと言えば、羨ましい……?」


「つまり自分もキスされたいと」


「そ、そこまでは言ってないよ!?」


「じゃあしなくてもいいんですか?」


「…………ミナリーのいじわる」


 顔を上げると、ミナリーがかすかに微笑んでいた。こいつ、さてはわたしの反応を見て楽しんでるな……?


「まったく、師匠は甘えん坊ですね」


 ちゅっ……と。ミナリーの唇がわたしのお凸に押し付けられる。触れ合った場所がジンジンと熱くなって、その熱はやがてわたしの顔いっぱいに広がった。


「な、ななななな――っ」


「おやすみなさい、師匠」


「寝られないよ!? こんな、ドキドキ、すること、されて!」


 頭が覚醒して狂喜乱舞しているような状態のわたしを無視して、ミナリーはわたしに背を向けるように寝返りを打つ。どうやら本気で寝るつもりらしい。なんて無責任な!


 一方的にやられたままも癪だから、覆いかぶさって強引に唇を奪ってやろうかと考えて……やめる。そんなことしても不毛なだけだし、第一わたしとミナリーはそういう関係じゃない。あくまで師匠と弟子だ、うん。


 初めて出会った5年前。わたしはこの子を一人前の魔法使いに育てると決めた。それは彼女が置かれていた状況への同情と憂い、そしてわたしが抱えていた寂しさを埋めるためのものだった。


 2年の旅と、3年の共同生活。それを経てミナリーに家族以上の親愛をわたしが抱くようになったのは紛れもない事実。だけど、この感情はその親愛と少し違う。もう少し踏み込んだ、師匠と弟子の一線を越えさせようとするような気持ち。


 わたしはそれを良いものだとは、思えない。わたしはミナリーの師匠だから。これまでも、これからも。師匠でありたいと願っているから。


「……んもぅ。おやすみ、ミナリー」


 わたしもミナリーに背を向けて瞼を閉じる。心臓の鼓動は早く脈打ったままで、たぶんしばらく寝られそうにないけれど。それでも、明日の朝には元通り。今日の一瞬の気の迷いは、なかったことになっているはずだから。


 翌朝。


「おはようございます、師匠」


 ちゅっ……と。ミナリーに頬にキスをされてわたしは飛び起きた。ぜんぜん、なかったことに、なってないっ!?

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